第015話 慈善局長グレン・バルド
グレン・バルドは、雪の日に似合わない男だった。
黒い髪をきれいに撫でつけ、王都で流行している細身の礼服を着ている。外套は高級品だが、北境の風を防ぐには薄い。
それでも彼は寒そうな顔をしなかった。
王宮慈善局長。
王太子の側近。
若き改革官僚。
社交界では、そう呼ばれている。
北境城の玄関広間で、グレンは優雅に礼をした。
「辺境伯閣下。突然の訪問をお許しください。慈善局として、北境支援の実態を確認しに参りました」
「事前通告は受けていない」
カイ様の声は硬い。
「王宮より急ぎの指示がありまして。北境に不安を与えたくなかったのです」
言葉だけ聞けば丁寧だ。
けれど、言い換えれば、抜き打ちで来たということになる。
グレンの視線がわたしに向いた。
「そして、エリス嬢。お久しぶりです」
「グレン局長」
「まさか北境でお会いするとは。王宮では皆、あなたのことを心配していますよ」
「心配の内容は、書面でいただければ確認します」
彼の笑顔が、ほんの少し止まった。
「相変わらずですね」
「ありがとうございます」
褒め言葉ではないだろうが、事実なので受け取っておく。
グレンは広間を見渡した。
「北境の方々は、ずいぶん私に警戒しているようだ。慈善局は皆様を支援する立場なのですが」
「支援の一部が届いていません」
わたしが言うと、彼は眉を下げた。
「それは残念です。ですが、北境の管理にも問題があるのでは? 支援は受け取る側にも努力が必要です」
努力。
また、その言葉だ。
料理長が後ろで低く唸った。
カイ様は一歩前へ出た。
「グレン局長。北境暖房網から王宮南庭へ魔力が流れている件について、説明を求める」
「王宮南庭へ?」
グレンは驚いた顔を作った。
とても上手だった。
「それは重大な誤解です。慈善基金は、聖女リリアナ様の祈りをもとに、各地の支援を調整しています。魔力の融通は効率化の一環であり、横流しなどではありません」
「効率化の結果、北境の暖房停止予測が二十六日後になっていた」
「予測は予測です。現実には停止していない」
「止まってからでは遅い」
「感情的にならないでください、辺境伯閣下」
広間の空気が冷えた。
カイ様の怒りが、周囲にも伝わる。
グレンはそれを分かっていて、あえて言ったのだろう。
怒らせ、乱れさせ、理性を失った辺境伯という絵を作る。
やり方が王宮らしい。
「グレン局長」
わたしは口を開いた。
「効率化とのことですが、契約変更の根拠資料を拝見できますか」
「あなたに見せる義務はありません」
「では、北境辺境伯家に対しては」
「正式な請求があれば検討します」
「請求は三日前に出しています」
「王宮内で処理中です」
「処理期限は」
「未定です」
「回答できないという記録でよろしいですね」
グレンの目が細くなった。
「エリス嬢。あなたは以前から、数字にこだわりすぎる。慈善とは、人の善意を信じるところから始まるのですよ」
「善意を記録すると、長く続きます」
「疑い深いですね」
「未払いを見てきましたので」
彼は微笑んだ。
「王太子殿下は、あなたを呼んでいます。北境で辺境伯に利用されるより、王宮へ戻って話し合うべきでしょう」
カイ様の表情が動いた。
わたしは先に答えた。
「わたしは雇用契約に基づき、ここにいます」
「契約、契約。あなたはいつもそれですね。だから殿下は疲れてしまったのですよ」
その言葉は、胸に刺さるはずだった。
けれど、今は違った。
昨夜、医療室に戻った湯。
暖かくなった兵舎。
厨房で笑う料理長。
ルルが見つけた裏帳簿。
わたしの数字は、誰かの暮らしにつながっている。
そのことを知ってしまった。
「殿下が疲れたなら、休まれればよいと思います」
グレンの笑みが消えた。
「ただし、休む前に未払いは清算してください」
広間の奥で、誰かが小さく吹き出した。
グレンはすぐに表情を戻した。
「話になりませんね。では、私は慈善局の保管資料を確認します。北境に置かれている当局の資料を返却していただきたい」
来た。
「どの資料でしょうか」
「西塔に保管されている慈善基金関連記録です。王宮所有物ですので」
「西塔のどの部屋に、どの箱番号で保管されている資料ですか」
グレンは一瞬だけ黙った。
知らなければ言えない。
知っていれば、なぜ知っているのか説明が必要になる。
「機密です」
「機密資料を、北境城の隠し部屋に無断保管していたということですか」
「言葉を選びなさい」
「記録用に、正確な言葉を選んでいます」
カイ様が静かに言った。
「グレン局長。北境城内に無断で保管された王宮資料については、こちらで封印し、公証人立ち会いのもと確認する。今すぐ持ち出すことは認めない」
「辺境伯閣下、それは王宮への反抗です」
「北境の生命維持に関わる証拠保全だ」
グレンの周囲に、薄い赤い数字が浮いた。
焦燥、ではない。
それは感情ではなく、彼が持つ書類や契約の歪みだ。
隠し資金。
証拠回収計画。
口止め費。
「グレン局長」
わたしは言った。
「北境へ来た目的は、視察ではありませんね」
彼は笑った。
「証拠がありますか」
「これから揃えます」
「では、まだない」
「はい」
わたしは正直に答えた。
「ですので、今日の会話も記録します」
グレンの顔が、初めて明確に歪んだ。
その後、彼は形式的な視察だけを行い、宿泊を断って城を出た。
雪が強くなっていた。
帰り道は厳しいだろう。
それでも彼は急いだ。
証拠を消すためか。
王宮へ先に言い訳を届けるためか。
わたしたちは玄関広間で彼の馬車を見送った。
ルルが窓辺に座り、尻尾を揺らしている。
「エリス嬢」
カイ様が言った。
「戦いになるな」
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「それでも進むのか」
「請求先が見えてきましたので」
カイ様は、ほんの少し笑った。
「君らしい」
雪の中、グレンの馬車が小さくなっていく。
その車輪の跡は、王都へ向かっていた。
わたしは帳簿を胸に抱えた。
次は、王都で照合する必要がある。
古い資料庫の鍵を使う時が来る。




