第014話 鍵と猫と古い資料庫
北境城には猫がいた。
名前はルル。
白と灰色の毛を持つ大きな猫で、城内の誰よりも堂々と廊下を歩く。食堂では料理長の足元に座り、工房では暖かい炉の前を占拠し、会議室では重要書類の上に寝る。
猫に役職はない。
しかし、実質的にはかなり高位だ。
「ルルはネズミを取るのか」
わたしが尋ねると、トマが誇らしげに答えた。
「取ります。あと、怪しい人間を睨みます」
「監査補助に向いていますね」
「でしょう?」
ルルはその日、わたしの机に置いた王宮慈善局の鍵を前足で転がしていた。
「持ち出し禁止です」
わたしが言うと、ルルは鍵を押さえ、こちらを見た。
猫の目に数字は浮かばない。
ただ、なぜか罪悪感を持たせる視線だった。
「エリス様」
イザベルさんが入ってくる。
「王都の公証人から返事です。雇用契約の公開写しは受理されました。社交界でも、辺境伯様との関係は業務契約だという認識が広まり始めています」
「よかったです」
「ただ、別の噂も出ています」
「次は何でしょう」
「エリス様は契約書と結婚する気だ、と」
会議室に沈黙が落ちた。
トマが横を向いた。
カイ様は窓の外を見た。
イザベルさんは真面目な顔を保とうとして失敗した。
わたしは考えた。
契約書は、少なくとも裏切らない。
いや、書いた人間が裏切ることはある。
「否定します」
「どの部分をでしょうか」
「結婚予定がない点を」
カイ様が咳き込んだ。
ルルが鍵を咥えた。
「あ」
猫は机から降り、廊下へ走っていった。
「ルル!」
トマが追いかける。
王宮慈善局の鍵を咥えた猫を追って、辺境伯家の騎士が廊下を走る。
北境の監査は、思ったより体力を使う。
ルルは工房、食堂、洗濯室を抜け、最後に西塔の前で止まった。
そこで鍵を床に落とす。
「ここへ来たかったのでしょうか」
イザベルさんが呟いた。
「猫が?」
カイ様が眉を上げる。
ルルは西塔の扉の前に座り、尻尾を揺らしている。
わたしは鍵を拾い、西塔の古い鍵穴に差し込んだ。
合わないはずだった。
王宮慈善局の資料庫の鍵だ。
北境城の西塔に合うわけがない。
だが、鍵は静かに回った。
扉が開く。
中から、古い紙と乾いた冷気の匂いが流れ出た。
「なぜ王宮の鍵が、西塔に」
トマが小声で言う。
「王宮慈善局が、この部屋を資料庫として使っていた可能性があります」
わたしは灯りを手に、中へ入った。
昨日確認した資料室とは別の隠し部屋だった。
壁の裏に作られた細い空間。棚には箱が並び、箱には神殿、慈善局、運輸局、南庭管理室の封がある。
ルルが棚の下に入り、何かを前足で引っかいた。
出てきたのは、小さな革表紙の帳簿。
表紙には何も書かれていない。
開くと、そこにあるのは王宮の正式記録ではなかった。
裏帳簿。
寄付金の本当の流れ。
北境魔石の転用記録。
南庭温室の魔力消費。
慈善事業の宣伝費。
王太子側近への謝礼。
「グレン・バルド……」
署名はない。
だが、筆跡が一致している。
聖女基金の後期記録にあった、あの流麗な文字だ。
カイ様が帳簿を見て、声を落とした。
「これは決定的か」
「まだです」
「まだ?」
「裏帳簿だけでは、偽造と言われる可能性があります。正式記録との照合、支払い先の証言、魔力流出の技術証拠が必要です」
イザベルさんが頷く。
「では、これから忙しくなりますね」
「はい」
そのとき、ルルがまた棚の奥に顔を突っ込んだ。
何かをくわえて出てくる。
今度は、青いリボンで結ばれた手紙の束だった。
差出人は、リリアナ。
宛先は、グレン・バルド。
内容は、基金の支出確認を求めるものだった。
一通目。
孤児院への支援は届いているのでしょうか。
二通目。
北境への冬支援について、詳細を教えてください。
三通目。
私の名で集めた寄付が、どこへ行くのか知りたいです。
四通目。
お返事をいただけないのは、なぜですか。
どれにも返信の記録はない。
リリアナ様は、少なくとも疑問を持っていた。
そして、その疑問は握りつぶされていた。
わたしは手紙を丁寧に束ね直した。
彼女がわたしを傷つけたことは消えない。
けれど、彼女だけを悪役にすれば、真犯人は逃げる。
「ルル」
わたしは猫を見た。
「よく見つけました」
ルルは当然という顔で尻尾を振った。
「報酬は必要でしょうか」
トマが真剣に言う。
「干し肉一切れが相場です」
「過払いになりませんか」
「ルルは過払いでも働きます」
猫は帳簿の上に座った。
これ以上話すなら、早く報酬を出せという態度だった。
わたしは少しだけ笑った。
王宮慈善局の鍵。
西塔の隠し部屋。
裏帳簿。
リリアナ様の手紙。
請求先の名前が、だんだん濃くなっていく。
けれど同時に、危険も近づいている。
グレン・バルドが有能なら、こちらが証拠に近づいたことにも気づくだろう。
その予感は、翌朝届いた知らせで現実になった。
王宮慈善局長グレン・バルドが、北境へ向かっている。
公式の名目は、慈善事業の視察。
実際の目的は、おそらく帳簿の回収だ。




