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第012話 聖女基金の最初の帳簿

神殿の帳簿は、王宮の帳簿より美しい。


紙質がよく、飾り罫が入り、寄付者の名前は金のインクで書かれている。慈善、祈り、救済、祝福。そういった言葉が、各ページに丁寧に添えられていた。


美しい帳簿は、必ずしも正しい帳簿ではない。


むしろ、見た目が整いすぎているものほど、中身を見落としやすい。


西塔地下から見つかった箱には、聖女リリアナ慈善基金の初期記録が入っていた。


基金設立日。

初回寄付者。

支援対象。

神殿監督者。

王宮連絡官。


わたしは、ひとつずつ読み進めた。


「最初の支援先は、北区孤児院ではありませんね」


イザベルさんが横で記録を取る。


「どちらですか」


「王都外縁の施療院です。次が孤児院。三つ目が北境の冬支援」


「では、基金そのものは最初から北境に関わっていたのですね」


「はい」


リリアナ様が王宮へ来たのは半年前。


基金が設立されたのは、その少し前だ。


聖女として名が広まり、王宮と神殿が共同で慈善事業を始めた。そこまでは自然に見える。


問題は、三か月目からだった。


寄付金が増えた。


支援先も増えた。


そして、支援の実務を行う業者が変わっている。


神殿直属の小さな業者から、王宮慈善局推薦の大手へ。


その変更後、費用が跳ね上がった。


「金貨八千七百枚の流れは、この時期からですね」


「誰の署名ですか」


イザベルさんが尋ねる。


わたしはページを指で押さえた。


「王宮慈善局長、グレン・バルド」


その名を聞いた瞬間、カイ様が顔を上げた。


「グレンか」


「ご存じですか」


「王太子の側近だ。財務に強いと評判だが、北境の防衛費を削る案を出した男でもある」


「なるほど」


財務に強い人間が、必ずしも国に強いとは限らない。


数字を扱える人間が、数字の先の人間を見るとは限らない。


わたしはグレンの署名を見た。


流れるような筆跡。


自信があり、迷いがない。


その横に、リリアナ様の署名もある。


けれど、彼女の署名は少し幼い。


名前を書いただけで、条項を理解して署名したようには見えなかった。


「聖女様は、これを読めたのでしょうか」


イザベルさんの声には、警戒と困惑が混じっていた。


「分かりません。ただ、数字を見る限り、彼女が直接お金を動かしていた痕跡は少ないです」


「では、利用された可能性が」


「あります」


そう答えながら、わたしは昨夜の広間を思い出した。


愛に勘定は不要です。


その言葉に、腹が立ったのは事実だ。


けれど、彼女は本当に勘定を知らなかったのかもしれない。


知らなかったから許されるわけではない。


でも、請求先を間違えてはいけない。


責任は、知っていた者、利用した者、止められる立場にいながら止めなかった者に分けて考える必要がある。


「この帳簿、途中から数字の並びが変わっています」


わたしは一枚のページを抜き出した。


初期の帳簿は、寄付金と支出が支援先ごとに分けられている。


後期の帳簿は、総額と美しい説明文だけになっている。


支援先別の内訳が消えた。


「見やすくしたように見えますが、実際には追跡しにくくなっています」


「意図的ですか」


「おそらく」


カイ様は腕を組んだ。


「グレンは、王宮で評判がいい。若く、弁が立ち、王太子の改革を支える有能な官吏だと言われている」


「有能でしょうね」


わたしは帳簿を閉じた。


「少なくとも、不正を美しく見せる能力はあります」


会議室の空気が重くなった。


そのとき、扉が開き、トマが顔を出した。


「失礼します。神殿から伝令です」


「神殿から?」


カイ様が眉をひそめる。


トマは封書を差し出した。


宛名は、エリス・クラウゼル。


差出人は、聖女リリアナ。


わたしは封を切った。


紙には、丁寧だが少し震えた文字が並んでいた。


エリス様。


突然のお手紙をお許しください。


北区孤児院の暖炉の件を聞きました。

私は、孤児院へ支援が届いていると信じていました。

もし、私の名前で誰かを寒い思いにさせていたなら、私は知りたいです。


でも、王宮では、帳簿を見せてもらえません。

グレン様は、私には祈ることが役目だと言います。

レオン様は、心配しなくていいと言います。


エリス様。

あなたは、数字を見る方だと聞きました。

どうか、私の基金が何をしているのか、教えてください。


最後に、申し訳ありません。

あの夜、私はあなたを傷つける言葉を言いました。

愛に勘定は不要だと。

でも、今は分かりません。

勘定をしなかった愛が、誰かを凍えさせたのなら、それは愛なのでしょうか。


リリアナ。


手紙を読み終えたあと、しばらく誰も話さなかった。


イザベルさんがそっと言う。


「罠でしょうか」


「可能性はあります」


カイ様が答える。


「だが、筆跡は震えている。少なくとも、誰かに書かされた文ではなさそうだ」


わたしは手紙を机に置いた。


聖女リリアナ。


王太子に選ばれた相手。


わたしを冷たい女と断じた人。


けれど今、彼女は自分の名前で動いた金の行方を知りたがっている。


「返事を書きます」


「何と」


カイ様が尋ねる。


わたしは新しい紙を出した。


「帳簿を見たいなら、祈りではなく資料を持ってきてください、と」


イザベルさんが小さく笑った。


「厳しいですね」


「優しい言葉だけでは、帳簿は開きません」


ただ、最後に一文を加えた。


あなたが本当に知りたいなら、協力します。


書いてから、少しだけ手が止まった。


許したわけではない。


けれど、真実を見ようとする人間まで敵にする必要はない。


請求先は正しく。


それが、わたしの仕事だ。

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