09.嫉妬する優等生
僕は、人間の中身を知ることが怖くなっていた。
正確には。
知ったあとで、知らなかった頃には戻れなくなることが怖かった。
人間というのは、外から見ると案外きれいにできている。
笑っている人は楽しそうに見える。
優しい言葉を使う人は優しく見える。
勉強ができる人は頭がよく見える。
友達が多い人は寂しくなさそうに見える。
でも、闇を見るようになってから。
僕は、それらを素直に信じられなくなった。
笑顔の奥に嫉妬があるかもしれない。
優しい言葉の奥に打算があるかもしれない。
成績のいい人間が、誰かを見下しているかもしれない。
友達の多い人間が、一人になることを怖がっているかもしれない。
そう考えるようになった。
そして一度そう考えてしまうと。
人間を見ることが、少しだけ面白くなった。
それが一番、嫌だった。
◇
その日の朝。
教室の前に、人だかりができていた。
「また白石さん、一番だったらしいよ」
「すご」
「今回も?」
「うん。学年一位」
僕は足を止めた。
その名前を聞くと、なぜか少しだけ意識してしまう。
白石澪。
僕の知っている澪と、教室にいる澪。
同じ人間なのに、まるで別人だった。
「白石さんって、本当にすごいよね」
「運動もできるし」
「性格もいいし」
「欠点なくない?」
その言葉を聞いて。
僕は少し笑いそうになった。
欠点がない。
僕は澪の「闇」を見たことがある。
もちろん、それは僕だけの秘密だ。
だから知っている。
澪にも怒ることがある。
嫉妬することもある。
迷うこともある。
誰かを助けたいと思いすぎてしまうところもある。
でも。
それを知っている僕は、彼女のことを以前より理解できているのだろうか。
むしろ逆だった。
僕は以前より、澪をわからなくなっていた。
僕は机に座った。
そして、ふと考えた。
僕は澪と仲がいい。
少なくとも、夜の学校では。
でも、それを昼間に言葉にすることはできない。
秘密だから。
僕たちだけの秘密。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
同時に。
澪の周りにいる人たちを、少しだけ遠く感じた。
彼らは知らない。
夜の澪を。
闇を倒している澪を。
弱いところを見せる澪を。
だから僕は。
彼らより澪を知っている。
――そう思った。
その考えに気づいた瞬間。
僕は自分が嫌になった。
人の心を知ることは。
いつの間にか、自分がその人より上にいるような錯覚を生む。
秘密を共有している。
誰も知らないものを知っている。
だから、自分のほうが近い。
自分のほうが特別だ。
その考えは。
思っていたより簡単に、人間の中に入り込んでくる。
◇
昼休み。
僕は廊下を歩いていた。
そのとき、向こうから一人の女子生徒が歩いてきた。
学年でも有名な優等生だった。
名前は、確か――
「神谷さん」
何人かの生徒が声をかける。
彼女は笑顔で返していた。
「おはよう」
「もう昼だよ」
「あ、ほんとだ。ごめん」
笑い声。
誰もが彼女を好きそうだった。
先生からも信頼されている。
成績もいい。
委員会の仕事も真面目。
悪い噂を聞いたことがない。
僕は通り過ぎようとした。
その瞬間。
胸の奥に、妙な感覚が走った。
学校の空気が、一瞬だけ重くなる。
「……闇」
僕は小さく呟いた。
廊下の向こう。
誰も気づいていない。
神谷さんの背後に。
黒い影が立っていた。
大きい。
人間の背丈をはるかに超えている。
そして。
僕を見ていた。
僕は思った。
この人もか。
優等生なのに。
いい人なのに。
闇がある。
当たり前のことなのに。
少しだけ失望した。
そのことが、もっと嫌だった。
夜まで待った。
放課後の学校は、昼間とは違う顔をしている。
僕と澪は、神谷さんの教室へ向かった。
教室の中には誰もいなかった。
机の上に、一冊のノートが置かれている。
その横に。
闇がいた。
今まで見た中でも、かなり大きい。
「強そう」
僕が言った。
「うん」
澪も武器を構えた。
闇がこちらを向く。
すると。
頭の中に、感情が流れ込んできた。
――どうして。
――どうして私よりあの子が褒められるの。
――私だって頑張ってるのに。
――あの子なんて、いなくなればいい。
僕は息を呑んだ。
神谷さん。
先生から信頼されている。
みんなから好かれている。
その彼女が。
誰かを羨んでいる。
誰かを憎んでいる。
それだけなら、まだ理解できた。
でも。
その感情の奥には、もっと小さな声があった。
――私だって、頑張ってるって言ってほしい。
僕は動けなくなった。
闇が襲ってくる。
「直人!」
澪の声。
僕は避けた。
闇の腕が壁を叩く。
「考えるのはあと!」
「わかってる!」
僕は武器を構えた。
澪が先に攻撃する。
闇が揺れる。
僕も続いた。
黒い影が少しずつ崩れていく。
最後の一撃を入れた。
闇は消えた。
静寂が戻った。
「終わった」
澪が言った。
「……うん」
僕は神谷さんの机を見た。
そこには、きれいに整理された教科書が並んでいた。
何も変わらない。
明日になれば。
神谷さんはまた優等生として振る舞う。
笑って。
勉強して。
誰かに頼られて。
そして誰にも知られないまま。
胸の中に嫉妬を抱える。
「澪」
「なに?」
「神谷さんって、悪い人かな」
「どうして?」
「誰かがいなくなればいいって思ってた」
「思っただけで?」
「……」
澪は答えなかった。
僕は自分でも気づかないうちに、答えを求めていた。
悪い人だと言ってほしかった。
そうすれば簡単だった。
闇がある。
だから悪い。
そう決めてしまえば。
人間は理解しやすい。
でも。
「直人」
「うん」
「私、神谷さんのこと悪い人だとは思わない」
「なんで?」
「嫉妬したことと、誰かを傷つけたことは同じじゃないから」
僕は黙った。
「でも、もし本当に傷つけたら?」
「そのときは、その行動について考えればいい」
「気持ちは関係ない?」
「関係あるよ」
澪は少し考えてから言った。
「でも、気持ちだけで人を裁いたら、たぶん誰も残らない」
その言葉は。
僕の胸に刺さった。
誰も残らない。
確かにそうだ。
怒ったことがある。
嫉妬したことがある。
誰かを嫌いになったことがある。
誰かを羨ましいと思ったことがある。
誰かの失敗を、少し嬉しいと思ったことがある。
そういうものを全部「悪」と呼んだら。
人間は、ほとんど全員が悪い人になる。
だったら。
僕があいつらを嫌っていることも。
僕の中にある怒りも。
僕が夜の学校を好きだと思っていることも。
全部。
全部、闇なのだろうか。
「澪」
「うん?」
「じゃあ、闇って何?」
澪は少しだけ困った顔をした。
「わからない」
「またそれ?」
「だって、本当にわからないんだもん」
そして。
「でも」
澪は続けた。
「闇があることより、闇がないと思い込むことのほうが怖いと思う」
僕は神谷さんの机を見た。
きれいだった。
何も問題がないように見える。
その机の持ち主の心の中には。
誰にも見えない感情がある。
それを知っているのは。
今、この場にいる僕と澪だけだ。
僕は少しだけ優越感を覚えた。
そして。
すぐに、その感情を嫌った。
僕は神谷さんの心を知っている。
だから何だ。
彼女より偉いのか。
違う。
むしろ。
僕は彼女の知らない部分を勝手に知ってしまっただけだ。
そのことを、僕は忘れてはいけないと思った。
「帰ろう」
澪が言った。
「うん」
教室を出る。
廊下を歩く。
階段を下りる。
昇降口へ向かう。
僕はふと振り返った。
誰もいない教室。
机。
椅子。
窓。
夕暮れ。
その全部が、昼間と何も変わらない。
なのに僕だけが。
その場所の見え方を変えてしまっていた。
人間の中身を知るということは。
人間を理解することではない。
もしかすると。
人間を理解できなくなることなのかもしれない。
僕はそのことを。
まだ、うまく言葉にできなかった。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
僕はもう。
人を「いい人」と「悪い人」に分けて見ることができなくなっていた。
そしてそれは。
僕自身にも、同じことをしなければならないということだった。
僕は悪くない。
僕は正しい。
僕は何もしていない。
何度も繰り返してきた言葉が。
その夜から少しだけ。
僕自身に向かって聞こえるようになった。




