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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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08.二人だけの秘密

 夜の学校には、昼間にはない音がある。


 時計の針。


 窓の隙間から入り込む風。


 廊下を歩いたときの、自分の靴音。


 昼間なら誰にも聞こえないような音ばかりなのに、夜になると、それらが妙に大きく聞こえる。


 人がいないということは、静かだということではない。


 人がいないからこそ、普段は聞こえないものが聞こえる。


 僕は、それが少し好きだった。


 昼間の学校では、誰かの声が多すぎる。


 笑い声。


 悪口。


 先生の声。


 机を引く音。


 誰かが誰かを呼ぶ声。


 その全部が、自分に関係しているような気がして疲れる。


 夜には、それがない。


 誰も僕を見ない。


 誰も僕を評価しない。


 誰も僕について何も言わない。


 だから、僕は夜の学校が好きだった。


 ――いや。


 正確には。


 夜の学校にいるときの自分が、好きだった。


「直人」


「ん?」


「そこ、逆」


 廊下の分岐点で、澪が指を差した。


「こっち」


「わかってる」


「絶対わかってなかった」


「わかってた」


「じゃあ、なんで反対に行ったの?」


「……確認」


「何を?」


「こっちが正しいかどうか」


「間違ってたね」


「確認できたからいいだろ」


「すごい理屈」


 澪が笑う。


 僕も笑った。


 最近、夜になると自然に笑うことが増えていた。


 昼間にはほとんど笑わないのに。


 それが少し不思議だった。


「ねえ」


 澪が歩きながら言った。


「何?」


「学校、嫌い?」


 僕は少し考えた。


「昼は嫌い」


「夜は?」


「まあまあ」


「闇がいるのに?」


「闇より人間のほうが面倒だから」


「ひどい」


「事実」


 澪は笑った。


 そして、少しだけ黙った。


「じゃあ」


「うん」


「私がいるから?」


「……」


 足が止まった。


 澪も止まった。


 廊下の先にある窓から、月の光が床に細長く落ちている。


「なんでそうなるんだよ」


「違う?」


「違う」


「本当に?」


「本当」


「じゃあ、帰ろうかな」


「それは……」


 言いかけて、僕は口を閉じた。


 澪が振り返る。


「それは?」


「……闇が出たら困るだろ」


「私がいなくても、直人は戦えるよ」


「そうだけど」


「じゃあ大丈夫だね」


 澪が歩き出す。


 僕は慌てて追いかけた。


「待てよ」


「なに?」


「……一人だと面倒だから」


「何が?」


「闇を探すの」


「ふーん」


「なんだよ」


「別に」


 澪は前を向いたまま笑っていた。


 僕は少しだけ腹が立った。


 そして。


 少しだけ安心した。


 自分が何を言いたかったのか。


 たぶん、僕自身が一番わかっていた。


 でも、それを言葉にすることだけは避けた。


 言葉にすると、本当になってしまうから。


   ◇


 その夜、僕たちは屋上へ行った。


 闇は現れなかった。


 ただ、街の明かりが見えた。


 遠くの道路を車が走っている。


 住宅街には、ところどころ明かりがついている。


 あの一つ一つの家の中に、人がいる。


 家族と食事をしている人。


 テレビを見ている人。


 勉強している人。


 喧嘩している人。


 泣いている人。


 笑っている人。


 誰にも言えないことを抱えている人。


 僕には、それが全部同じ明かりに見えた。


「みんな、闇を持ってるのかな」


 僕が言った。


「たぶんね」


「じゃあ、みんな戦わないといけないの?」


「そうじゃないと思う」


「どうして?」


「闇があることと、闇と戦わなきゃいけないことは違うから」


 澪はフェンスの向こうを見ていた。


「じゃあ、僕たちは?」


「私たちは……」


 澪が言葉を止める。


「どうして戦ってるのか、まだよくわからない」


「澪でも?」


「澪でも」


「便利だな、それ」


「何が?」


「困ったら『澪でもわからない』って言える」


「直人も使えば?」


「僕はいい」


「なんで?」


「僕は何でもわかるから」


「じゃあ、私の好きな食べ物は?」


「……」


「ほら」


「それは……」


「わからないんだ」


「今度考える」


「今考えてよ」


「……プリン」


「違う」


「ケーキ」


「違う」


「じゃあ何?」


「教えない」


「なんでだよ」


「秘密」


「ずるい」


 僕たちはまた笑った。


 くだらない。


 本当にくだらない。


 でも、僕にはそのくだらなさが必要だった。


 昼間の学校では、僕はいつも考えている。


 どう見られているか。


 何を言えば絡まれないか。


 誰を避ければ面倒にならないか。


 どうすれば弱く見えないか。


 そんなことばかり考えている。


 でも、ここでは違う。


 澪と話しているときだけは。


 僕は「どう見られるか」を考えなくていい。


 それが、心地よかった。


 だから。


 少し怖くなった。


 夜の学校がなくなったら。


 澪と会えなくなったら。


 僕はまた、昼間の自分に戻るのだろうか。


 そう思った瞬間。


 僕は自分に腹が立った。


 依存している。


 そう思った。


 僕は誰かに頼る人間じゃない。


 自分のことは自分で決める。


 自分のことは自分で守る。


 そうやって生きてきた。


 なのに。


 今の僕は、夜を待っている。


 学校へ行けば澪がいる。


 闇が出れば、僕にも役割がある。


 僕は誰かに必要とされている。


 その感覚が、僕を少しずつ変えていた。


「直人」


「なに?」


「最近、夜が楽しみ?」


 心臓が一度だけ大きく鳴った。


「別に」


「そっか」


「……澪は?」


「私は楽しみ」


「なんで?」


「直人がいるから」


 僕は黙った。


 澪は何でもないことのように言った。


 たぶん、本当に何でもないのだろう。


 僕だけが勝手に意味をつけている。


「……そういうこと、簡単に言うなよ」


「どうして?」


「勘違いする人がいる」


「直人?」


「……」


 答えられなかった。


 澪は笑った。


「じゃあ、気をつける」


 それ以上は何も言わなかった。


 僕も何も言わなかった。


 でも。


 その言葉だけが、夜の間ずっと残っていた。


   ◇


 翌日。


 僕は昼休みに、一人で弁当を食べていた。


 昨日までなら、気にならなかった。


 いや。


 気にならないふりをしていた。


 でも、今日は違った。


 周りの生徒たちが楽しそうに話している。


 その中に、昨日見た男子がいた。


 別のクラスの男子。


 一人でいることが多い。


 僕は彼の「闇」を知っている。


 寂しい。


 気づいてほしい。


 でも、一人で平気なふりをしている。


 僕は彼を見た。


 彼も一人で弁当を食べていた。


 話しかけようと思った。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


「……」


 でも、やめた。


 僕が話しかけたら。


 彼はどう思うだろう。


 余計なお世話だと思うかもしれない。


 気味悪がるかもしれない。


 それに。


 僕は彼の心を知っている。


 そのことを知らない彼に、僕だけが知っているというのは。


 なんだか卑怯な気がした。


 だから、何もしなかった。


 その日の放課後。


 廊下で澪とすれ違った。


 昼間の澪は、いつもの澪だった。


 何人かの女子に声をかけられ。


 先生に頼られ。


 笑顔で返事をする。


 誰から見ても、優しい女の子。


 僕は少し離れた場所から、それを見ていた。


 そのとき。


 澪がこちらを見た。


 目が合う。


 ほんの一瞬。


 澪は小さく笑った。


 僕も、ほんの少しだけ笑った。


 それだけだった。


 でも。


 その一瞬だけで、僕は夜を思い出した。


 誰もいない廊下。


 くだらない会話。


 二人で探す闇。


 僕だけが知っている澪。


 澪だけが知っている僕。


 それは、僕たちだけの秘密だった。


 そして僕は、気づいてしまった。


 秘密というものは。


 共有すると、人と人を近づける。


 でも同時に。


 その秘密を共有できない人間との間には、壁を作る。


 僕は今まで、人との間に壁を作られてきたと思っていた。


 けれど。


 もしかすると僕自身も、少しずつ壁を作り始めているのかもしれない。


 夜の学校という秘密。


 闇という秘密。


 澪という秘密。


 それを知らない人たちを、僕は知らない側に置いている。


 僕はそのことに気づいて。


 なぜか、少し嬉しかった。


 そして。


 その嬉しさが、少し怖かった。


 人との距離を嫌っていた僕が。


 誰かとの距離を、自分から作り始めている。


 その夜。


 僕はいつもより早く学校へ向かった。


 校門の前には、澪がいた。


「早いね」


「澪も」


「私はいつも早いよ」


「嘘だろ」


「本当」


 僕は笑った。


 そして校門をくぐった。


 その瞬間。


 学校の奥から。


 何かが、こちらを見ている気配がした。


 澪の表情が変わった。


「……いる」


「どこ?」


「教室」


「行こう」


 僕は武器を出した。


 胸の奥が高鳴る。


 闇と戦うことが楽しみになっている。


 そう気づいた。


 でも。


 そのときの僕はまだ知らなかった。


 闇を倒すことが楽しいのではない。


 闇を通して、誰かの心を知ることが。


 そして。


 その「誰かの心を知っている自分」を、特別だと思い始めていることが。


 僕にとって、もっと大きな問題になることを。


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