07.孤独の闇
その日の昼休み、僕は教室の隅で弁当を食べていた。
いつからだったか、昼休みに誰かと話すことを諦めた。
最初の頃は、誰かが話しかけてくるかもしれないと思っていた。
次の日には、明日なら。
その次の日には、来週なら。
そうやって少しずつ期待を先送りにして、ある日突然、期待することそのものをやめた。
期待しなければ、失望しない。
これはたぶん、僕が中学校に入って最初に覚えた処世術だった。
弁当箱の蓋を開ける。
卵焼きが入っている。
昨日も入っていた。
たぶん明日も入る。
卵焼きは僕を裏切らない。
そう考えると、少しだけおかしかった。
「朝倉」
声がした。
顔を上げると、クラスの男子が立っていた。
「これ、先生に渡しといて」
プリントを一枚、僕の机に置いた。
「なんで僕?」
「近いから」
「先生の机に置いたほうが早いだろ」
「……じゃ、よろしく」
それだけ言って戻っていった。
僕はプリントを見る。
くだらない。
そう思った。
でも、ほんの少しだけ嬉しかった自分に気づいた。
誰かに話しかけられた。
ただそれだけなのに。
僕は自分が嫌になった。
こんなことで喜ぶのか。
僕はもっと強い人間だと思っていた。
誰かに認められなくても平気な人間。
一人でも平気な人間。
誰かに必要とされなくても、自分の価値を自分で決められる人間。
そういう人間になりたかった。
なのに。
たった一枚のプリントで、心が少し動いた。
人間は、思っているより簡単にできている。
そう思った。
そして、たぶん僕も。
◇
夜。
僕はいつものように学校へ戻った。
正門をくぐる。
昼間とは別の場所に見える。
同じ校舎。
同じ廊下。
同じ教室。
なのに、人がいないだけで、学校はこんなにも静かになる。
「遅い」
昇降口で澪が待っていた。
「五分だけだろ」
「五分は遅刻」
「夜の学校で遅刻って何だよ」
「夜の学校にも時間はあるよ」
「誰が決めたんだよ」
「時計」
「時計に怒られたくない」
澪が笑う。
僕も笑った。
それから二人で校舎を歩いた。
今日はなかなか闇が見つからなかった。
廊下。
教室。
音楽室。
図書室。
体育館。
どこにもいない。
「今日は休みじゃない?」
僕が言うと、
「闇にも休日があるの?」
と澪が返した。
「週休二日」
「学生じゃん」
くだらない会話だった。
でも、僕はこういう時間が好きだった。
何の意味もない。
何の役にも立たない。
ただ話しているだけ。
昼間の僕には、そういう時間がなかった。
廊下の突き当たりまで来たときだった。
澪が足を止めた。
「……いる」
「どこ?」
「あっち」
澪が指を向ける。
その先は、階段だった。
二階から三階へ続く階段。
そこに、何かがいた。
小さい。
人間の子供くらいの大きさだった。
黒い。
けれど、今までの闇とは違った。
こちらを襲おうとしない。
階段の踊り場に座っている。
ただ、膝を抱えていた。
「弱そう」
僕が言った。
「油断しないで」
「でも……」
近づいてみる。
闇は逃げなかった。
むしろ、少しだけ僕のほうへ顔を向けた。
顔はない。
それでも、泣いているような気がした。
「こいつ」
僕は言った。
「悲しいのかな」
「そうかも」
「誰の闇?」
「わからない」
その瞬間。
僕の頭の中に映像が流れ込んできた。
教室。
一人の男子生徒。
休み時間。
周囲では何人かが楽しそうに話している。
その男子は、その輪に入ろうとしている。
けれど。
誰も気づかない。
何度か口を開く。
やめる。
笑う。
また黙る。
放課後。
一人で帰る。
家に帰っても、誰もいない。
机に座る。
スマートフォンを見る。
通知はない。
画面を閉じる。
また開く。
何もない。
そして。
――別に、一人が好きだし。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
僕は目を開けた。
「……」
胸の奥が重かった。
「誰?」
澪が聞く。
「知らない」
「見えた?」
「うん」
「どんな人?」
「……一人でいる人」
それだけ言った。
なぜか、それ以上言いたくなかった。
その男子の顔を、僕は知っていた。
同じ学年。
別のクラス。
名前も知っている。
でも、話したことはない。
僕と同じように、一人でいることが多い。
僕は今まで、彼を見て思っていた。
ああいう人もいるんだ。
それだけだった。
でも、今は違う。
僕は知ってしまった。
彼は、一人でいたいのではなく。
一人でいることに慣れようとしている。
その違いが、なぜか痛かった。
「倒そう」
澪が言った。
「……うん」
武器を構える。
闇は動かない。
僕は一瞬、迷った。
これを倒したら。
この人の苦しさは少し軽くなるのだろうか。
それとも。
僕たちはただ、苦しさの形を変えているだけなのだろうか。
「直人」
「わかってる」
僕は引き金を引いた。
闇が揺らぐ。
澪が続けて攻撃する。
黒い影が少しずつ薄くなる。
最後に僕が撃った。
闇は消えた。
静かだった。
何も起こらない。
ただ、階段に残っていた黒い影がなくなっただけ。
「終わったね」
澪が言った。
「……うん」
僕は階段を見つめていた。
「これで、あの人は少し楽になるのかな」
「きっと」
「でも」
「うん」
「本人は知らないんだよね」
「うん」
「自分の中に闇があったことも」
「うん」
僕は笑った。
笑ったつもりだった。
「変なの」
「何が?」
「自分の心なのに、自分では知らないんだ」
澪は少し考えてから、
「人間って、そういうものじゃない?」
と言った。
「自分の顔だって、鏡がないと見えないでしょ」
「……」
「心も同じなんじゃないかな」
その言葉を聞いて、僕は階段の手すりに寄りかかった。
心は、自分では見えない。
だから誰かに見てもらう。
でも。
もし、その誰かが自分の知らない自分を見つけたら。
それは救いなのだろうか。
それとも。
ただの暴力なのだろうか。
「澪」
「なに?」
「僕たちって、勝手に人の心を見てるよね」
「うん」
「それって、悪いことじゃないの?」
澪は黙った。
いつものようにすぐ答えなかった。
僕はその沈黙を見て、少し安心した。
澪にもわからないことがある。
それが、なぜか嬉しかった。
「わからない」
やがて澪が言った。
「私も、ずっと考えてる」
「何を?」
「闇を倒すことが、その人を助けることなのか」
「……」
「それとも、私たちが勝手に助けたつもりになってるだけなのか」
僕は澪を見た。
昼間の学校では、彼女は完璧に見える。
勉強ができて。
運動もできて。
誰にでも優しくて。
誰からも好かれている。
そんな彼女が。
夜の学校では、自分のやっていることに迷っている。
僕は少しだけ安心した。
完璧な人間なんていない。
それは、僕にとって救いだった。
「でも」
澪が言った。
「私は、やめたくない」
「どうして?」
「闇を放っておいたら、誰かが苦しくなるから」
「それでも?」
「それでも」
澪はまっすぐ前を見ていた。
その横顔を見ながら、僕は思った。
澪は優しい。
たぶん、本当に。
でも。
優しさというものは、いつだって正しいのだろうか。
誰かを助けることは、本当にその人のためなのだろうか。
あるいは。
助けることで、自分が必要とされていると感じたいだけなのではないか。
そんな疑問が一瞬だけ浮かんだ。
僕はすぐに打ち消した。
そんなことを考える自分のほうが嫌だった。
「帰ろうか」
澪が言った。
「うん」
二人で階段を下りる。
途中で僕は、ふと振り返った。
さっきまで闇がいた場所。
もう何もない。
それなのに。
僕には、そこに誰かが座っているように見えた。
一人で。
誰にも気づかれないように。
寂しくないふりをしながら。
僕は目を逸らした。
その瞬間。
自分の中にも、同じようなものがある気がした。
寂しくない。
一人でも平気。
誰にも必要とされなくていい。
僕は強い。
僕は折れない。
そう言い聞かせる声の、そのもっと奥に。
誰かに気づいてほしいと思っている自分がいる。
そのことだけは。
まだ、絶対に認めたくなかった。




