10.善意という名前の悪意
僕は、善い人間が嫌いになり始めていた。
正確には。
善い人間だと思われている人間が、少し苦手になった。
「大丈夫?」
「何かあったら言ってね」
「みんなで仲良くしようよ」
そういう言葉を聞くと、以前より少しだけ身構える。
本当に心配しているのか。
本当に助けたいのか。
それとも。
心配している自分を、好きになりたいだけなのか。
僕には、もうわからなかった。
闇を知ってしまったからだ。
人間は、表に出している感情だけではない。
優しさの中にも、別の感情が混じっている。
親切の中に優越感がある。
心配の中に好奇心がある。
助けたいという気持ちの中に、「助けられる自分でありたい」という欲望がある。
それを知ってから。
僕は、善意というものを素直に信じられなくなった。
◇
放課後。
廊下で、一人の男子が先生に呼び止められていた。
「最近、元気ないんじゃないか?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「何か困っているなら先生に言ってくれ」
「大丈夫です」
そのやり取りを、僕は少し離れたところから見ていた。
男子は笑っていた。
先生も笑っていた。
たぶん。
二人とも悪くない。
先生は本当に心配している。
男子も本当に大丈夫だと思っているのかもしれない。
それなのに。
僕は、あの男子の背後に闇があるような気がした。
いや。
実際には、なかった。
僕が勝手に疑っているだけだった。
そのことが、怖かった。
闇を見られるようになったせいで。
闇がないところにまで、闇を探している。
僕は人間の心を知りたかった。
いつの間にか。
人間の心を疑うようになっていた。
「直人」
振り向くと、澪がいた。
「何してるの?」
「別に」
「ずっと見てたよね」
「見てない」
「見てた」
「……ちょっと見てた」
「何か気になる?」
「いや」
僕は先生と男子のほうを見た。
「善意ってさ」
「うん」
「本当に善意なのかな」
澪は少し黙った。
「どういう意味?」
「人を助けたいって思うのって、結局、自分が気持ちいいだけなんじゃない?」
「そういう場合もあると思う」
「やっぱり」
「でも」
澪は僕を見る。
「それだけじゃない場合もあると思うよ」
「どうやって区別するの?」
「難しいね」
「だろ?」
「うん」
澪は笑った。
「だから、私は自分の気持ちを全部きれいなものだとは思わないようにしてる」
「それで人を助けるの?」
「うん」
「矛盾してない?」
「してるかも」
澪は少し考えた。
「でも、矛盾したまま助けることもできるから」
僕はその言葉を聞いて。
少しだけ腹が立った。
「ずるいな」
「何が?」
「澪の考え方」
「どうして?」
「なんでも『両方ある』で終わらせるから」
「だって、本当に両方あることが多いんだもん」
「僕はもっと簡単なほうがいい」
「例えば?」
「善い人は善い。悪い人は悪い」
澪は僕を見た。
「直人、それ、本当にそう思ってる?」
「……」
答えられなかった。
◇
その夜。
闇は家庭科室にいた。
長い腕を持っていた。
けれど、こちらを襲ってくるわけではない。
誰かを守るように、何かを抱えていた。
「何だろう」
僕が近づく。
闇の中に映像が見えた。
一人の女子生徒。
教室で困っている別の女子に声をかけている。
「大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
「大丈夫だよ」
「何かあったら相談してね」
笑顔。
優しい言葉。
その場面だけなら。
何もおかしくない。
むしろ、とてもいい人に見える。
けれど。
闇の奥から聞こえてきた。
――私がいないと、この子は何もできない。
僕は息を止めた。
続いて。
――私が助けてあげないと。
――私が必要なんだから。
――私がいなくなったら、この子は困る。
そして最後に。
――だから、私から離れないで。
「……」
僕は何も言えなかった。
これは善意なのか。
支配なのか。
僕にはわからない。
本人だって、たぶんわかっていない。
助けたい。
必要とされたい。
離れられたくない。
全部、本当なのだろう。
それなら。
どこまでが善意で。
どこからが悪意なのか。
境界線なんて、最初から存在しないのかもしれない。
「直人」
澪の声がした。
「戦える?」
「……うん」
闇が動く。
僕たちは武器を構えた。
戦う。
闇が大きくなる。
僕は攻撃を避ける。
澪が横から撃つ。
闇が揺れる。
僕は走る。
そして。
最後の一撃を放った。
闇が消えた。
残ったのは。
静かな家庭科室だけだった。
「ねえ」
僕は言った。
「今の人」
「うん」
「助けるべきなのかな」
「どうだろう」
「悪い人じゃないよね」
「うん」
「でも、誰かを自分から離れられなくしてる」
「うん」
「じゃあ悪い人?」
「わからない」
また、その言葉だった。
僕は少し苛立った。
「澪は、何でもわからないって言うよね」
「うん」
「それでいいの?」
「たぶん」
「なんで?」
「わからないことを、わかったことにするよりはいいから」
僕は黙った。
それは確かにそうだった。
人間はすぐに名前をつけたがる。
善人。
悪人。
被害者。
加害者。
優しい人。
冷たい人。
正しい人。
間違った人。
名前をつければ、理解したような気になれる。
でも。
人間の中身は。
そんなに簡単ではない。
「直人」
「ん?」
「一つだけ、わかることがあるよ」
「何?」
「誰かを助けたいって思う気持ちまで、悪いことにしたくない」
僕は澪を見た。
「どうして?」
「それまで否定したら、誰も誰かを助けられなくなるから」
澪はそう言った。
「たとえ、その中に自分のための気持ちが混ざっていても」
その言葉を聞いたとき。
僕は、なぜか澪の顔を見られなくなった。
彼女は。
自分が人を助けたいと思う理由を。
本当に理解しているのだろうか。
それとも。
まだ理解できていない何かを、心の奥に抱えているのだろうか。
そんな考えが浮かんだ。
そして。
僕はそれを口にしなかった。
言ってしまえば。
僕もまた、澪の心を勝手に裁くことになるからだ。
◇
帰り道。
澪と並んで歩いた。
街灯が、僕たちの影を地面に落としている。
二つの影が伸びる。
近づいたり。
離れたり。
僕は自分の影を見ながら考えた。
善意の中に悪意がある。
悪意の中にも、何か別のものがある。
怒りの奥には悲しみがある。
嫉妬の奥には憧れがある。
支配の奥には寂しさがある。
だったら。
人間の感情に「純粋なもの」なんて存在しないのかもしれない。
いや。
もしかすると。
純粋である必要すらないのだ。
誰かを助けたい。
でも、自分も必要とされたい。
誰かを嫌いだ。
でも、本当は傷つけられたくない。
誰かを羨ましいと思う。
でも、その人のようになりたいとも思っている。
人間は。
一つの気持ちだけで生きているわけではない。
いくつもの矛盾を抱えたまま。
その全部を自分だと思えないまま。
それでも毎日を生きている。
「澪」
「なに?」
「僕ってさ」
「うん」
「悪い人間かな」
澪は歩く速度を少し落とした。
「どうして?」
「人を嫌いになるから」
「それだけ?」
「人を許せないから」
「それだけ?」
「……助けたくないと思うことがあるから」
澪は少し黙った。
「それだけなら、私も悪い人間だよ」
「澪が?」
「うん」
「嘘だろ」
「本当」
僕は笑った。
でも。
澪は笑っていなかった。
「人を助けたくないと思うこともあるよ」
「……」
「疲れてるときとか」
「うん」
「自分のことで精いっぱいのときとか」
「うん」
「それでも私は、人を助けたいと思う」
「どうして?」
澪は前を向いた。
「助けたあとじゃないと、自分が何を感じていたのかわからないこともあるから」
「……」
その言葉は、妙に重かった。
僕は初めて。
澪の「優しさ」が、単純な優しさではないような気がした。
彼女は人を助ける。
そのことで誰かが救われる。
でも同時に。
澪自身も何かから逃げているのかもしれない。
何から逃げているのかは。
まだ、僕にはわからない。
それでも。
僕は初めて思った。
澪の心を知りたい。
その気持ちは。
闇を倒したいという気持ちよりも。
ずっと危険なものなのかもしれない。
人の心を知りたいと思うことは。
その人に近づきたいということなのか。
それとも。
その人を理解したつもりになりたいということなのか。
僕にはまだ、わからなかった。
ただ。
僕たちが毎晩倒している闇は。
少しずつ。
僕自身の中にも入り込んできていた。




