11.人気者の孤独
白石澪は、誰とでも話せる。
少なくとも、僕にはそう見えていた。
朝、教室に入れば、何人かの女子が彼女の席の周りにいる。
「澪、昨日の宿題やった?」
「うん」
「ノート見せて」
「いいよ」
「今日体育あるよね。最悪」
「私は好きだけど」
「えー、嘘。運動神経いい人はそう言うんだよ」
笑い声がする。
男子からも声をかけられる。
「白石、これ先生に渡しといて」
「自分で渡しなよ」
「そこをなんとか」
「もう」
そう言いながらも、澪は笑っている。
誰かが話しかければ答える。
誰かが困っていれば助ける。
誰かが笑えば一緒に笑う。
だから、人気がある。
それは当たり前のことのように思えた。
僕は少し離れたところから、それを見ていた。
そして、ふと思った。
――あれだけ人がいるのに。
どうして、あんなに静かなんだろう。
澪は、僕に話しかけない。
正確には、教室で周りに人がいるときには、絶対に話しかけてこない。
目が合うことはある。
ほんの一瞬だけ。
でも、それだけだった。
廊下ですれ違っても、横に誰かがいれば、澪は普通に前を向いて歩いていく。
僕も声をかけない。
別に、それでいいと思っていた。
むしろ、そのほうがよかった。
学校という場所では、僕と澪が仲良くしていると思われないほうがいい。
そう思っている自分がいることに、少しだけ嫌気が差した。
夜の学校では、僕たちは普通に話している。
くだらないことを言い合う。
闇のことを話す。
人間の心について話す。
時には、何の意味もない話をする。
なのに、昼間になると、僕たちは他人になる。
それが不思議だった。
そして、その不思議さを考えているうちに、僕は別のことに気づいた。
澪にとって、昼間の僕と夜の僕は、どちらが本当なのだろう。
いや。
そもそも。
本当の澪というものが、どこにあるのだろう。
◇
その日の昼休み。
僕は図書室にいた。
教室にいるより、ここにいるほうが楽だった。
図書室では、誰も僕に何も聞かない。
「一緒に食べよう」と言われることもない。
「どうして一人なの」と聞かれることもない。
誰にも必要とされない代わりに、誰にも邪魔されない。
それは、案外快適だった。
僕は本を開いた。
内容は頭に入ってこなかった。
少し離れた机で、女子が二人話していた。
「白石さんって、ほんと優しいよね」
「うん。誰にでも優しい」
「私、白石さんみたいになりたい」
その言葉を聞いて、なぜか胸の奥がざわついた。
誰にでも優しい。
それは、褒め言葉だ。
僕だって、以前ならそう思った。
でも今は違う。
夜の学校で、僕は知ってしまった。
優しさの中にも、寂しさがある。
親切の中にも、認められたいという気持ちがある。
助けたいという気持ちの裏側に、必要とされたいという気持ちが隠れていることもある。
だったら。
澪はどうなのだろう。
僕は本を閉じた。
考えたくないのに、考えてしまう。
もし澪にも闇があるなら。
それは、どんなものなのだろう。
そして。
僕はそれを知りたいと思っている。
そのことが、一番嫌だった。
◇
放課後。
澪はいつものように、たくさんの人に囲まれていた。
「澪、今日部活行く?」
「うん」
「じゃあ一緒に行こうよ」
「ごめん、今日は用事があるの」
「そっか。また明日ね」
「うん。また明日」
笑顔。
自然な笑顔だった。
作っているようには見えない。
だからこそ、僕は気になった。
人間は、どこまで自分の笑顔を信じられるのだろう。
僕は教室を出た。
廊下の角を曲がったところで、澪が一人で立っていた。
「……あ」
「やっと二人になった」
澪が言った。
「やっとって」
「昼間は話せないから」
「別に、話さなくてもいいだろ」
「うん」
澪は笑った。
僕は少しだけ黙った。
「澪」
「なに?」
「お前、疲れないのか」
「何が?」
「人と話すの」
澪は首を傾げた。
「疲れるよ」
「……そうなのか」
「うん」
あまりにもあっさり言うので、僕は拍子抜けした。
「じゃあ、なんであんなに話してるんだよ」
「話しかけられるから」
「それだけ?」
「それだけ」
「断ればいいだろ」
「そうだね」
澪は少し考えた。
「でも、困ってる人がいたら助けたいし」
「またそれか」
「またそれ」
僕はため息をついた。
「お前、本当にそれ好きだな」
「好き……なのかな」
澪の声が、少しだけ小さくなった。
僕は彼女を見た。
笑っていなかった。
「わからない」
澪は言った。
「誰かを助けると、安心するんだよね」
「安心?」
「うん」
「何に?」
「……必要とされてるって思えるから」
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
澪の顔の半分だけが明るくて、半分は影になっていた。
「必要とされなくなったら?」
僕が聞くと、澪は答えなかった。
少ししてから、
「怖いかも」
と言った。
その声は、普段の澪からは想像できないほど普通だった。
普通で。
弱かった。
僕は何も言えなかった。
誰にでも優しい少女。
学校中から好かれている少女。
困っている人を見れば助ける少女。
そんな人間の中にも、
――怖い。
という感情がある。
それは当然のことなのかもしれない。
でも僕は、今まで考えたことがなかった。
人気者にも孤独がある。
いや。
人気者だからこそ、孤独になることがあるのかもしれない。
「直人」
「ん?」
「私、変かな」
「変だと思う」
「即答?」
「だって、お前は変だろ」
「ひどい」
澪が笑った。
今度の笑顔は、少しだけいつものものに戻っていた。
僕も笑った。
ほんの少しだけ。
◇
夜。
僕たちは学校の中を歩いていた。
昼間とは違って、廊下には誰もいない。
時計の音が聞こえる。
窓の外には、住宅街の明かりが並んでいる。
「さっきの話」
僕が言った。
「うん?」
「必要とされたいってやつ」
「忘れて」
「無理」
「なんで?」
「知ってしまったから」
澪は少し黙った。
「……闇を知るって、そういうことだよね」
「どういうこと?」
「知らなかったら、ただの優しい人だったのに」
澪が前を向いたまま言った。
「知ってしまったら、その人の優しさの中に、別のものが見える」
「そうだな」
「でも」
澪は立ち止まった。
「それでも、優しさが嘘になるわけじゃないよ」
僕は澪を見た。
「どういう意味?」
「誰かに必要とされたいって思ってても、その人を助けたことまで嘘になるわけじゃない」
「……」
「寂しいから誰かに優しくすることもある。認めてほしいから頑張ることもある。
でも、それで助けてもらった人が嬉しかったことまで消えるわけじゃない」
僕は黙っていた。
それは、少しだけ都合のいい考え方に聞こえた。
でも。
完全に否定することもできなかった。
人間の感情は、たぶん一つではない。
優しい。
寂しい。
認められたい。
疲れている。
嬉しい。
全部が同時に存在している。
だから人間は、簡単に善人にも悪人にもなれない。
僕は思った。
もしかしたら。
僕が「僕は悪くない」と言い続けているのも。
自分の中にある一つの感情だけを、本当の自分だと思いたいからなのかもしれない。
そのときだった。
廊下の先に、黒いものが見えた。
「……澪」
「うん」
闇。
今まで見たものより、少し大きい。
けれど、襲ってくる様子はなかった。
ただ、廊下の端に立っていた。
誰かを待つように。
僕たちはゆっくり近づいた。
闇の中から、声が聞こえた。
――誰かに必要とされたい。
僕は息を止めた。
その言葉に、澪がわずかに反応した。
闇の表面に、無数の顔のようなものが浮かんでは消える。
友達。
クラスメイト。
先生。
家族。
そして。
澪自身。
僕は彼女を見る。
澪は何も言わなかった。
いつもの笑顔もなかった。
ただ、闇を見ていた。
「……これ」
澪が呟いた。
「私だけじゃないね」
「何が?」
「必要とされたいって思ってる人」
闇は揺れていた。
僕は銃を握った。
けれど、すぐには撃たなかった。
この闇を倒したら。
また誰かの心を知ることになる。
その人が、昼間どんな顔をしているのか。
誰にも言えないことを、何を考えているのか。
僕は知ってしまう。
そして知った瞬間から。
その人を見る目は、きっと少し変わる。
僕は最近、それが怖くなっていた。
人を知れば知るほど。
人間が嫌いになっていく。
……いや。
違う。
人間が嫌いになっているのではない。
人間を、簡単に好きになれなくなっているのだ。
その違いは、自分でもよくわからなかった。
「直人」
澪が言った。
「倒そう」
「……ああ」
僕は銃を構えた。
闇は僕たちを見ていた。
その黒い姿の向こう側に。
たぶん、誰かの寂しさがあった。
誰かの優しさがあった。
誰かの弱さがあった。
そして。
僕自身の心も。
少しだけ混ざっているような気がした。




