12.誰かを見下すということ
人間には、順位がある。
テストの点数。
足の速さ。
先生からの評価。
部活での成績。
何を基準にするかによって、順位は簡単に入れ替わる。
だから学校という場所は、毎日、小さなランキングを作っている。
誰が人気者なのか。
誰が頭がいいのか。
誰が運動ができるのか。
誰が嫌われているのか。
そして僕は、そのランキングのかなり下のほうにいる。
たぶん。
◇
その日の数学のテストが返ってきた。
「はい、朝倉」
「どうも」
先生から答案を受け取る。
七十二点。
悪くはない。
良くもない。
昔の僕なら、もう少し悔しがっていたと思う。
小学校の頃は、勉強でも運動でも、人に負けるのが嫌だった。
学級委員をやっていた。
みんなの前で話すことも苦ではなかった。
誰かに頼られることが嬉しかった。
だから、頑張った。
今は違う。
七十二点を見ても、何も思わない。
どうせ誰も僕の点数なんて気にしていない。
そう思った。
そのとき。
「八十八点だった」
前の席の男子が友達に言った。
「すげえじゃん」
「でも神谷、九十五だったらしいよ」
「ああ、あいつやばいよな」
神谷。
前に闇を倒した、あの優等生だ。
僕は教室の反対側を見る。
神谷さんは答案を机の中にしまっていた。
誰かに点数を聞かれて、
「普通だよ」
と笑っていた。
普通。
九十五点が普通。
僕は少し笑いそうになった。
もちろん、僕の七十二点と比べれば、全然普通じゃない。
けれど。
そのとき僕の中に、嫌な感情が生まれた。
――どうせ、あの人だって。
◇
放課後。
僕は一人で廊下を歩いていた。
神谷さんが、友達と話している。
「次のテスト、もっと頑張らないと」
「九十五で?」
「だって、あの子には負けたくないから」
笑いながら言っていた。
僕は足を止めた。
あの子。
たぶん、前に百点を取った人のことだ。
僕は知っている。
神谷さんの闇を。
人を羨ましく思うこと。
自分より評価される人を疎ましく思うこと。
それでも、自分は優しい人間だと思っていること。
僕はそれを知っている。
だから。
さっきまで普通に見えていた神谷さんが、少し違って見えた。
笑っている。
でも、その笑顔の下では誰かを妬んでいる。
頑張っている。
でも、その努力には誰かに勝ちたいという気持ちが混ざっている。
僕は思った。
――結局、この人も同じなんだ。
その瞬間。
僕は、自分が少しだけ上に立ったような気がした。
変な話だった。
僕は何もしていない。
テストの点数だって、神谷さんよりずっと低い。
友達もいない。
学校での立場だって、僕のほうが下だ。
なのに。
僕だけが彼女の本当の心を知っている。
それだけで。
僕は彼女より賢いような気がした。
◇
夜。
僕はそのことを澪に話した。
「神谷さんを見下した?」
「……見下したっていうか」
「うん」
「同じなんだなって思っただけ」
「何と?」
「みんなと」
澪は黙っていた。
僕は続けた。
「昼間は優等生ぶってるけど、心の中じゃ人を妬んでる。自分より上の人間が嫌い。
なのに、それを隠して普通に笑ってる」
「うん」
「僕には、それが見えてる」
「うん」
「だから、僕のほうが人間を知ってる」
言ったあとで。
自分でも、嫌な言葉だと思った。
澪は怒らなかった。
ただ、少し困った顔をした。
「直人」
「何?」
「それって、神谷さんを見下してるんじゃない?」
「……」
「だって、心の中に嫌な感情があることを知っただけで、その人より上になったわけじゃないよ」
「でも、僕は知ってる」
「うん」
「本人も知らないことを」
「だから?」
僕は答えられなかった。
澪はしばらく黙ってから、
「人の心を知るって、怖いことだと思う」
と言った。
「知らないほうが、その人を好きでいられることもあるから」
「……好き?」
「友達として、とか。人として、とか」
「なるほど」
「でも、知ってしまったら、その人を嫌いになる理由も増える」
僕は何も言わなかった。
それは、まさに今の僕だった。
僕は人の闇を知るたびに、人間を嫌いになっている。
でも。
本当は違うのかもしれない。
人間を嫌いになっているのではなく。
人間に対して、期待しなくなっている。
◇
その夜、音楽室に闇が現れた。
黒い塊だった。
前に見たものより大きい。
ピアノの前で、ゆっくり揺れている。
「誰の闇だろう」
僕が言うと、澪が首を横に振った。
「わからない」
「じゃあ、どうする?」
「倒すしかないよ」
僕は銃を構えた。
闇がこちらを向く。
次の瞬間。
頭の中に声が流れ込んできた。
――あの人より私のほうが頑張ってる。
――なんで私じゃないの。
――あの人が失敗すればいいのに。
――私のほうが必要とされたい。
――でも、こんなこと考える私は嫌い。
いくつもの声が重なっていた。
僕は思った。
まただ。
また人間の心だ。
見たくないものを見せられる。
聞きたくないものを聞かされる。
それなのに。
僕は目を逸らさなかった。
むしろ。
もっと知りたいと思っていた。
この闇の持ち主は誰なのか。
どんな顔をしているのか。
明日、どんな顔で教室に来るのか。
誰と話すのか。
誰に笑うのか。
そして、その笑顔の裏で何を考えているのか。
知りたい。
知りたい。
知りたい。
その欲望に気づいた瞬間。
僕は自分自身にぞっとした。
「直人!」
澪の声がした。
「撃って!」
「ああ!」
僕は引き金を引いた。
闇が崩れる。
音楽室に静けさが戻った。
僕の目の前に、一人の生徒の記憶が浮かんだ。
誰かに勝ちたい。
認められたい。
負けたくない。
そして。
誰にも負けないくらい頑張っている自分を、誰かに見つけてほしい。
僕は、その姿を見つめていた。
胸の奥が少し痛かった。
なぜなら。
それは、僕にも似ていたからだ。
◇
「直人」
帰り道。
澪が言った。
「なに?」
「人の闇を知っても、その人より偉くなったわけじゃないよ」
「わかってる」
「本当に?」
「……たぶん」
澪は笑った。
「たぶんなんだ」
「だって僕だって人間だから」
「そうだね」
僕たちは歩いた。
夜の廊下は静かだった。
昼間なら、ここにはたくさんの人がいる。
笑い声。
足音。
先生の声。
誰かを呼ぶ声。
誰かに呼ばれる声。
そういうものが全部消えると、学校は妙に広くなる。
人がいないから広いのではない。
人間がいないことで。
人間の評価が消えるから、広く感じるのだ。
僕はふと思った。
昼間の僕は、誰かに見下されている。
夜の僕は、誰かを見下している。
どちらも。
たぶん同じことなのだ。
人間は、自分より下に誰かがいると安心する。
そして、自分より上に誰かがいると苦しくなる。
僕はずっと。
自分が誰かより下に置かれていることを怒っていた。
なのに今。
僕は、人の闇を知ることで。
その人より上に立とうとしている。
「……最低だな、僕」
小さく呟いた。
「何が?」
「なんでもない」
澪はそれ以上聞かなかった。
それが少しだけありがたかった。
たぶん。
僕はまだ、自分の闇を言葉にできない。
いや。
言葉にしたくない。
僕は悪いことをしていない。
僕は誰かを傷つけていない。
だから。
僕は悪くない。
そう思っていた。
でも。
もし。
誰かを傷つけていないことと。
誰かを見下していないことが。
別の話だったら。
僕は。
本当に「悪くない」のだろうか。
夜の窓に、自分の顔が映っていた。
僕はその顔を見た。
そこにいる少年が。
少しだけ。
知らない人に見えた。




