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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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12/24

12.誰かを見下すということ

 人間には、順位がある。


 テストの点数。


 足の速さ。


 先生からの評価。


 部活での成績。


 何を基準にするかによって、順位は簡単に入れ替わる。


 だから学校という場所は、毎日、小さなランキングを作っている。


 誰が人気者なのか。


 誰が頭がいいのか。


 誰が運動ができるのか。


 誰が嫌われているのか。


 そして僕は、そのランキングのかなり下のほうにいる。


 たぶん。


   ◇


 その日の数学のテストが返ってきた。


「はい、朝倉」


「どうも」


 先生から答案を受け取る。


 七十二点。


 悪くはない。


 良くもない。


 昔の僕なら、もう少し悔しがっていたと思う。


 小学校の頃は、勉強でも運動でも、人に負けるのが嫌だった。


 学級委員をやっていた。


 みんなの前で話すことも苦ではなかった。


 誰かに頼られることが嬉しかった。


 だから、頑張った。


 今は違う。


 七十二点を見ても、何も思わない。


 どうせ誰も僕の点数なんて気にしていない。


 そう思った。


 そのとき。


「八十八点だった」


 前の席の男子が友達に言った。


「すげえじゃん」


「でも神谷、九十五だったらしいよ」


「ああ、あいつやばいよな」


 神谷。


 前に闇を倒した、あの優等生だ。


 僕は教室の反対側を見る。


 神谷さんは答案を机の中にしまっていた。


 誰かに点数を聞かれて、


「普通だよ」


 と笑っていた。


 普通。


 九十五点が普通。


 僕は少し笑いそうになった。


 もちろん、僕の七十二点と比べれば、全然普通じゃない。


 けれど。


 そのとき僕の中に、嫌な感情が生まれた。


 ――どうせ、あの人だって。


   ◇


 放課後。


 僕は一人で廊下を歩いていた。


 神谷さんが、友達と話している。


「次のテスト、もっと頑張らないと」


「九十五で?」


「だって、あの子には負けたくないから」


 笑いながら言っていた。


 僕は足を止めた。


 あの子。


 たぶん、前に百点を取った人のことだ。


 僕は知っている。


 神谷さんの闇を。


 人を羨ましく思うこと。


 自分より評価される人を疎ましく思うこと。


 それでも、自分は優しい人間だと思っていること。


 僕はそれを知っている。


 だから。


 さっきまで普通に見えていた神谷さんが、少し違って見えた。


 笑っている。


 でも、その笑顔の下では誰かを妬んでいる。


 頑張っている。


 でも、その努力には誰かに勝ちたいという気持ちが混ざっている。


 僕は思った。


 ――結局、この人も同じなんだ。


 その瞬間。


 僕は、自分が少しだけ上に立ったような気がした。


 変な話だった。


 僕は何もしていない。


 テストの点数だって、神谷さんよりずっと低い。


 友達もいない。


 学校での立場だって、僕のほうが下だ。


 なのに。


 僕だけが彼女の本当の心を知っている。


 それだけで。


 僕は彼女より賢いような気がした。


   ◇


 夜。


 僕はそのことを澪に話した。


「神谷さんを見下した?」


「……見下したっていうか」


「うん」


「同じなんだなって思っただけ」


「何と?」


「みんなと」


 澪は黙っていた。


 僕は続けた。


「昼間は優等生ぶってるけど、心の中じゃ人を妬んでる。自分より上の人間が嫌い。

 なのに、それを隠して普通に笑ってる」


「うん」


「僕には、それが見えてる」


「うん」


「だから、僕のほうが人間を知ってる」


 言ったあとで。


 自分でも、嫌な言葉だと思った。


 澪は怒らなかった。


 ただ、少し困った顔をした。


「直人」


「何?」


「それって、神谷さんを見下してるんじゃない?」


「……」


「だって、心の中に嫌な感情があることを知っただけで、その人より上になったわけじゃないよ」


「でも、僕は知ってる」


「うん」


「本人も知らないことを」


「だから?」


 僕は答えられなかった。


 澪はしばらく黙ってから、


「人の心を知るって、怖いことだと思う」


 と言った。


「知らないほうが、その人を好きでいられることもあるから」


「……好き?」


「友達として、とか。人として、とか」


「なるほど」


「でも、知ってしまったら、その人を嫌いになる理由も増える」


 僕は何も言わなかった。


 それは、まさに今の僕だった。


 僕は人の闇を知るたびに、人間を嫌いになっている。


 でも。


 本当は違うのかもしれない。


 人間を嫌いになっているのではなく。


 人間に対して、期待しなくなっている。


   ◇


 その夜、音楽室に闇が現れた。


 黒い塊だった。


 前に見たものより大きい。


 ピアノの前で、ゆっくり揺れている。


「誰の闇だろう」


 僕が言うと、澪が首を横に振った。


「わからない」


「じゃあ、どうする?」


「倒すしかないよ」


 僕は銃を構えた。


 闇がこちらを向く。


 次の瞬間。


 頭の中に声が流れ込んできた。


 ――あの人より私のほうが頑張ってる。


 ――なんで私じゃないの。


 ――あの人が失敗すればいいのに。


 ――私のほうが必要とされたい。


 ――でも、こんなこと考える私は嫌い。


 いくつもの声が重なっていた。


 僕は思った。


 まただ。


 また人間の心だ。


 見たくないものを見せられる。


 聞きたくないものを聞かされる。


 それなのに。


 僕は目を逸らさなかった。


 むしろ。


 もっと知りたいと思っていた。


 この闇の持ち主は誰なのか。


 どんな顔をしているのか。


 明日、どんな顔で教室に来るのか。


 誰と話すのか。


 誰に笑うのか。


 そして、その笑顔の裏で何を考えているのか。


 知りたい。


 知りたい。


 知りたい。


 その欲望に気づいた瞬間。


 僕は自分自身にぞっとした。


「直人!」


 澪の声がした。


「撃って!」


「ああ!」


 僕は引き金を引いた。


 闇が崩れる。


 音楽室に静けさが戻った。


 僕の目の前に、一人の生徒の記憶が浮かんだ。


 誰かに勝ちたい。


 認められたい。


 負けたくない。


 そして。


 誰にも負けないくらい頑張っている自分を、誰かに見つけてほしい。


 僕は、その姿を見つめていた。


 胸の奥が少し痛かった。


 なぜなら。


 それは、僕にも似ていたからだ。


   ◇


「直人」


 帰り道。


 澪が言った。


「なに?」


「人の闇を知っても、その人より偉くなったわけじゃないよ」


「わかってる」


「本当に?」


「……たぶん」


 澪は笑った。


「たぶんなんだ」


「だって僕だって人間だから」


「そうだね」


 僕たちは歩いた。


 夜の廊下は静かだった。


 昼間なら、ここにはたくさんの人がいる。


 笑い声。


 足音。


 先生の声。


 誰かを呼ぶ声。


 誰かに呼ばれる声。


 そういうものが全部消えると、学校は妙に広くなる。


 人がいないから広いのではない。


 人間がいないことで。


 人間の評価が消えるから、広く感じるのだ。


 僕はふと思った。


 昼間の僕は、誰かに見下されている。


 夜の僕は、誰かを見下している。


 どちらも。


 たぶん同じことなのだ。


 人間は、自分より下に誰かがいると安心する。


 そして、自分より上に誰かがいると苦しくなる。


 僕はずっと。


 自分が誰かより下に置かれていることを怒っていた。


 なのに今。


 僕は、人の闇を知ることで。


 その人より上に立とうとしている。


「……最低だな、僕」


 小さく呟いた。


「何が?」


「なんでもない」


 澪はそれ以上聞かなかった。


 それが少しだけありがたかった。


 たぶん。


 僕はまだ、自分の闇を言葉にできない。


 いや。


 言葉にしたくない。


 僕は悪いことをしていない。


 僕は誰かを傷つけていない。


 だから。


 僕は悪くない。


 そう思っていた。


 でも。


 もし。


 誰かを傷つけていないことと。


 誰かを見下していないことが。


 別の話だったら。


 僕は。


 本当に「悪くない」のだろうか。


 夜の窓に、自分の顔が映っていた。


 僕はその顔を見た。


 そこにいる少年が。


 少しだけ。


 知らない人に見えた。


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