13.優しい人間の闇
優しい人間は、嫌われにくい。
当たり前のことだと思っていた。
困っている人を助ける。
誰かが一人なら声をかける。
落としたものがあれば拾う。
悪口を言わない。
怒らない。
笑顔でいる。
そういう人間は、たいてい好かれる。
だから僕は、優しい人間というのは得だと思っていた。
少なくとも。
優しくない人間よりは。
ずっと生きやすい。
けれど最近。
僕は、その考えが少しだけ間違っているような気がしていた。
優しさにも。
たぶん、代償がある。
◇
昼休み。
教室の前のほうで、女子が一人、机の横にしゃがんでいた。
「大丈夫?」
誰かが聞いた。
「うん、大丈夫」
「でも顔赤くない?」
「ちょっとだけ」
「保健室行ったほうがいいよ」
「平気だって」
そこへ、別の女子がやってきた。
「先生呼んでくる?」
「大丈夫だよ」
「でも……」
「本当に大丈夫」
そのやり取りを見ていた僕は、なぜか妙な気分になった。
誰も悪くない。
むしろ、みんな優しい。
具合の悪そうな人を心配している。
それなのに。
その「大丈夫?」という言葉が、少しだけ重たく見えた。
大丈夫ではないと言ったら。
この人たちはどうするのだろう。
もっと心配する。
先生を呼ぶ。
保健室へ連れていく。
もしかしたら、本人が望んでいないことまでしてしまうかもしれない。
優しさは。
相手のためだけにあるものではないのかもしれない。
助ける側が「助けたい」と思った瞬間。
そこには、助けられる側の意思とは別のものが生まれる。
僕はそのことを考えていた。
すると。
教室の後ろから澪が立ち上がった。
具合の悪そうな女子に近づく。
ただ、少し離れたところに立った。
必要になったらすぐ助けられる距離。
僕はそれを見ていた。
そして思った。
――ああ。
こいつは、押しつけないんだ。
少しだけ。
見直した。
◇
放課後。
僕は図書室にいた。
宿題をやっているふりをしながら、昼間のことを考えていた。
優しさとは何だろう。
助けることか。
見守ることか。
相手が望むことをすることか。
それとも。
相手が望んでいなくても、その人のためになることをすることか。
答えは出なかった。
僕は昔。
人を助けることが好きだった。
困っている友達がいれば、声をかけた。
委員会で誰かが困っていれば、自分がやった。
みんなで何かをするときは、自分から動いた。
それで褒められると嬉しかった。
だから。
僕は「優しい人間だった」と思っている。
でも。
もしかしたら。
僕は。
必要とされる自分が好きだっただけなのかもしれない。
そう考えると。
昔の自分まで、少し嫌いになった。
◇
夜。
澪と合流した。
「今日は遅かったね」
「図書室にいた」
「何してたの?」
「考え事」
「珍しい」
「お前、僕を何だと思ってるんだ」
「ずっと何か考えてる人」
「それはそうかもしれない」
澪が笑う。
僕も笑った。
こういう会話は楽だった。
昼間なら、僕たちは他人だ。
でも夜なら。
僕たちは、僕たちでいられる。
「今日ね」
澪が言った。
「闇、出ると思う」
「わかるの?」
「なんとなく」
「なんとなくでわかるのかよ」
「毎日見てるから」
「便利な能力だな」
「能力じゃないよ」
澪は笑った。
「ただの経験」
その直後だった。
体育館のほうから、何かが落ちる音がした。
僕たちは顔を見合わせる。
体育館へ向かった。
扉を開ける。
誰もいない。
けれど。
中央に。
黒いものが立っていた。
闇。
今まで見たものよりも。
ずっと静かだった。
動かない。
襲ってこない。
ただ。
体育館の隅に置かれたボールを見ている。
「変なの」
僕が言う。
「うん」
澪も構える。
僕たちが近づくと。
闇の中から声が聞こえた。
――助けなきゃ。
僕は足を止めた。
――私が助けなきゃ。
また聞こえる。
――私がいないと。
――この人は困る。
――私がいないと、何もできない。
――だから。
――私から離れないで。
僕は澪を見た。
澪も闇を見ている。
「……これ」
「うん」
「前にも似たようなのがあったな」
「そうだね」
闇はゆっくりと膨らんだ。
その中から、一人の女子生徒の姿が浮かんだ。
友達の荷物を持っている。
ノートを貸している。
忘れ物を届けている。
相談に乗っている。
何でもしている。
相手は笑っている。
「ありがとう」
そう言って去っていく。
残された女子生徒は、一人になる。
そして。
小さく呟く。
――よかった。
――まだ必要とされてる。
僕は胸が詰まった。
これは。
優しさだ。
間違いなく。
誰かを助けている。
誰かの役に立っている。
でも。
その奥には。
――必要とされなくなるのが怖い。
という気持ちがあった。
僕は思った。
それは。
悪いことなのだろうか。
「澪」
「なに?」
「これ、悪い人なのか?」
「わからない」
「でも、相手を助けてる」
「うん」
「なのに、闇になる」
「うん」
澪は銃を構えた。
「だからって、助けることが悪いわけじゃないよ」
「……」
「たぶん、この人は」
澪は闇を見つめた。
「助けることをやめたら、自分までいなくなっちゃうような気がするんじゃないかな」
僕はその言葉を聞いて。
なぜか。
嫌な予感がした。
「それって」
「うん?」
「誰かを助けることが、自分を守ることになるってことか?」
「たぶん」
僕は澪を見た。
澪は闇を見ていた。
その横顔は、いつもと変わらない。
でも。
僕は突然。
昼間の澪を思い出した。
誰かに呼ばれれば答える。
困っている人がいれば助ける。
誰かが落ち込んでいれば声をかける。
誰かが一人なら、放っておけない。
そして。
学校中の人間が。
澪を「優しい人」だと思っている。
僕は。
初めて。
そのことを怖いと思った。
「どうしたの?」
澪が聞いた。
「いや」
僕は首を振った。
「なんでもない」
闇が動く。
僕たちは武器を構えた。
戦いは短かった。
闇が大きく揺れ。
僕の弾丸が、その中心を貫いた。
黒い塊が崩れていく。
そして。
いつものように。
誰かの記憶が流れ込んできた。
助ける。
ありがとうと言われる。
必要とされる。
安心する。
また助ける。
また必要とされる。
その繰り返し。
そして最後に。
誰かが別の人に助けを求めた瞬間。
――どうして私じゃないの。
その感情が。
闇の中に残った。
僕は目を閉じた。
闇が消える。
体育館に静寂が戻った。
「終わったね」
澪が言った。
「ああ」
僕は答えた。
けれど。
僕の頭の中には、別の疑問が残っていた。
優しい人間は。
優しいから闇を持つのか。
それとも。
闇を隠すために、優しくなるのか。
どちらなのだろう。
◇
帰り道。
僕たちは並んで歩いた。
「なあ」
「うん?」
「澪はさ」
「なに?」
「誰かを助けるの、好き?」
澪はすぐには答えなかった。
「……好きだよ」
「本当に?」
「うん」
「必要とされたいから?」
澪が足を止めた。
僕も止まった。
夜の道路には、車が一台走っていった。
その音が遠ざかる。
「それもあるかもしれない」
澪は言った。
僕は少し驚いた。
「否定しないんだな」
「だって、本当だから」
「じゃあ」
僕は聞いた。
「もし誰にも必要とされなくなったら?」
澪はしばらく黙っていた。
そして。
「わからない」
と言った。
それだけだった。
僕はそれ以上、聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
その夜。
僕は初めて思った。
もしかすると。
僕が毎晩、闇を倒しているのは。
誰かを救うためだけではないのかもしれない。
闇を知ることで。
僕は人間を理解したつもりになっている。
人間より少し高いところから。
人間の心を眺めているつもりになっている。
でも。
本当は。
僕もその中にいる。
妬む。
怒る。
見下す。
寂しがる。
認められたがる。
必要とされたいと思う。
それなのに。
僕はまだ、
「僕は悪くない」
と言っている。
それはたぶん。
僕が自分の闇を見ないための。
いちばん簡単な言葉だった。




