14.僕を嫌っている人
僕を嫌っている人間がいる。
たぶん。
というより。
間違いなくいる。
学校という場所に、一人も自分を嫌っている人間がいないなんて、そんな都合のいいことはない。
僕だって、人を嫌いになる。
話し方が気に入らない。
態度が気に入らない。
自分より楽しそうにしているのが気に入らない。
理由なんて、その程度で十分だった。
だから。
誰かが僕を嫌うこと自体は、別に不思議ではない。
問題は。
僕が、その理由を知ってしまったことだった。
◇
朝、教室に入ると、後ろのほうから声が聞こえた。
「朝倉って、なんかムカつくんだよな」
僕のことだった。
足が止まりそうになった。
でも、止めなかった。
そのまま自分の席へ向かった。
「何が?」
「なんか、偉そうじゃない?」
「そう?」
「前は学級委員とかやってたらしいよ」
「ああ。だからじゃない?」
笑い声。
僕は席に座った。
聞こえていないふりをした。
机の中から教科書を出す。
いつも通り。
何もなかったように。
でも。
胸の中には、小さな石が入ったような感じがしていた。
――偉そう。
僕はそんなつもりはない。
もちろん。
そんなつもりがないからといって、相手がそう感じないとは限らない。
そのことくらい、わかっている。
でも。
僕には、もう一つ考えがあった。
僕は悪くない。
僕は何もしていない。
最初の隣の席が悪かっただけだ。
僕が何かをしたから嫌われたわけではない。
だから。
僕を嫌う人間のほうが間違っている。
そう思っていた。
その考えは、ずっと僕を守ってくれていた。
だから、手放したくなかった。
◇
昼休み。
僕は一人で廊下を歩いていた。
向こうから、さっきの男子が歩いてくる。
目が合った。
一瞬だけ。
相手は、僕から目を逸らした。
僕も逸らした。
それだけだった。
でも。
僕は思った。
もし僕が、あいつの心を見られたら。
何を考えているのかわかったら。
僕を嫌う理由がわかったら。
僕は、そいつを許せるだろうか。
それとも。
もっと嫌いになるだろうか。
◇
その日の夜。
闇が現れた。
場所は教室だった。
昼間、僕が使っている教室。
机が並んでいる。
黒板には、昼間の授業で書かれた文字が残っている。
その中央に。
黒い塊が立っていた。
「……ここか」
僕が呟く。
「うん」
澪が頷く。
闇は、僕たちに気づいても動かなかった。
ただ。
僕の机を見ていた。
「僕の?」
「かもしれない」
僕は嫌な予感がした。
闇の表面に、何かが浮かび上がる。
声。
――嫌い。
僕の心臓が跳ねた。
――なんとなく嫌い。
――見てると腹が立つ。
――自分だけ正しいみたいな顔をしてる。
――昔だけ人気者だったくせに。
――今でも自分が特別だと思ってる。
僕は息を呑んだ。
知っている声だった。
昼間、僕を嫌っていた男子。
たぶん。
いや。
きっと。
僕のことを嫌っている人。
闇はさらに言葉を吐き出す。
――あいつが失敗すればいい。
――みんなに嫌われればいい。
――一人になればいい。
僕は銃を握った。
手に力が入る。
胸の奥が熱くなる。
「……最低だな」
僕が言った。
澪は何も言わない。
「人のことをそんなふうに思うなんて」
「直人」
「何?」
「それ、今の直人にも当てはまらない?」
「……」
僕は澪を見た。
「僕は、あいつに何もしてない」
「うん」
「僕は悪くない」
「うん」
「だったら、あいつが悪いだろ」
澪は黙った。
僕も黙った。
しばらくして、澪が言った。
「悪いかどうかと、嫌いかどうかは、別じゃないかな」
「……どういう意味?」
「その人が悪い人じゃなくても、嫌いになることはあるよ」
僕は闇を見た。
「じゃあ、僕を嫌うのは仕方ないってこと?」
「仕方ない、とは言ってないよ」
「じゃあ?」
「人の気持ちは、正しいとか間違ってるとかだけでは決められないってこと」
僕は納得できなかった。
そんな言い方をしたら。
何でも許されてしまう気がした。
嫌いだから傷つける。
嫌いだから無視する。
嫌いだから悪口を言う。
それまで「仕方ない」で済ませてしまったら。
僕は今まで受けてきたことまで、全部なかったことにされてしまう。
「でも」
僕は言った。
「嫌いだからって、何をしてもいいわけじゃないだろ」
「うん」
澪は即答した。
「そこは、そうだよ」
その言葉を聞いて。
少しだけ安心した。
僕の考えは、全部間違っているわけではない。
人を嫌うことと、人を傷つけることは違う。
感情には自由がある。
行動には責任がある。
たぶん。
それが僕の「罪には相対的に罰がある」という考えの、根っこなのだ。
◇
闇が動いた。
黒い腕のようなものが伸びる。
僕は銃を構えた。
けれど。
引き金を引けなかった。
闇の中に、また別の感情が見えたからだ。
――怖い。
――あいつに負けたくない。
――自分だけ惨めなのが嫌だ。
――みんなに笑われたくない。
――あいつみたいに、昔はみんなから必要とされていたかった。
僕は固まった。
その感情は。
あまりにも僕に似ていた。
僕も。
学校で居場所を失った。
僕も。
誰かに必要とされたかった。
僕も。
昔の自分に戻りたいと思うことがある。
僕も。
今の自分を惨めだと思うことがある。
だったら。
僕を嫌っているあいつと。
僕は。
そんなに違わないのではないか。
「……嫌だ」
口から言葉が漏れた。
「何が?」
澪が聞く。
「似てる」
「誰と?」
「あいつと、僕が」
澪は黙った。
僕は続けた。
「僕はあいつが嫌いだ。あいつも僕が嫌いだ。どっちも自分のほうが正しいと思ってる」
「うん」
「どっちも、自分が傷つけられたと思ってる」
「うん」
「じゃあ」
僕は闇を見る。
「どっちが悪いんだ?」
澪は答えなかった。
答えられないのだと思った。
僕も。
わからなかった。
ただ一つだけ。
わかってしまったことがある。
人間は、自分が被害者だと思っているときほど。
自分の中の悪意が見えなくなる。
◇
僕は銃を構え直した。
そして。
闇を撃った。
黒い塊が大きく揺れる。
もう一度。
撃つ。
闇が崩れていく。
最後に。
僕を嫌っている男子の記憶が見えた。
僕が小学校でみんなの前に立っている。
周囲に人が集まっている。
僕は笑っている。
男子は教室の端から、その姿を見ていた。
羨ましい。
そう思っている。
僕が何か悪いことをしたからではない。
ただ。
僕が持っているものを。
自分も欲しかった。
それだけだった。
記憶が消える。
教室が静かになる。
僕は立っていた。
しばらく動けなかった。
「……澪」
「うん」
「僕、あいつに謝るべきかな」
澪は少し考えた。
「何を?」
「わからない」
「じゃあ、今は謝らなくていいんじゃない?」
「そうなのか?」
「謝ることがないのに謝ったら、それはそれで変だよ」
僕は少し笑った。
「お前、たまに冷たいな」
「そう?」
「もっと『仲良くしよう』とか言うと思ってた」
「それは、私が決めることじゃないよ」
澪はそう言った。
「仲良くなるかどうかは、二人で決めることだから」
僕はその言葉を聞いて。
少しだけ、澪を見直した。
優しい人は。
何でも助ける人だと思っていた。
でも。
本当に優しいというのは。
相手の人生まで、自分の思い通りにしないことなのかもしれない。
◇
学校を出る。
夜風が冷たかった。
「なあ」
「うん?」
「僕を嫌ってる人がいるって、嫌なことだと思ってた」
「うん」
「でも、今日ちょっと違った」
「どう違った?」
「僕を嫌う理由が、僕の悪さじゃない場合もあるんだなって」
澪は頷いた。
「人は、理由があっても人を嫌うし、理由がなくても嫌うよ」
「怖いこと言うなよ」
「でも」
澪は笑った。
「逆も同じだよ」
「逆?」
「理由がなくても、人を好きになることがある」
僕は少し考えた。
それは確かに。
不思議な話だった。
人間は。
嫌う理由を探すこともできる。
好きになる理由を探すこともできる。
でも。
理由を探している時点で。
その人を、自分の中の物差しで測っている。
僕は夜空を見上げた。
星はほとんど見えなかった。
それでも。
暗い空のどこかには、星がある。
見えないからといって、ないわけではない。
人の心も。
きっと同じだ。
僕には見えない感情がある。
僕を嫌っている人にも。
澪にも。
そして。
僕自身にも。
僕はまだ。
自分の心の全部を知らない。
だから。
「僕は悪くない」という言葉が。
少しだけ。
怖くなった。
それは僕を守ってくれる言葉だった。
でも同時に。
僕自身の中にあるものを。
見えなくする言葉でもあった。




