15.正しいことは人を傷つける
正しいことを言う人間は、嫌われる。
僕は昔、それが不思議だった。
正しいなら、正しいほうがいい。
間違っていることを指摘されれば、直せばいい。
悪いことをしたなら、謝ればいい。
そう思っていた。
だから小学生の頃の僕は、よく人の間に入った。
「それは違うと思う」
「今のは謝ったほうがいいよ」
「みんなで決めたことだから、守ろうよ」
そう言えば、周りの人間は僕のことを頼ってくれた。
僕は、それが嬉しかった。
正しいことを言っている。
みんなのために動いている。
だから。
僕は正しい。
そんなふうに思っていた。
今考えると。
ずいぶん単純だった。
◇
五時間目の終わり。
先生が教室の前に立っていた。
「来週の係決めだけど、まだ決まっていない人がいるな」
教室がざわつく。
一人の男子が手を挙げた。
「先生、誰もやりたくないなら、くじ引きでいいんじゃないですか」
「そうだな」
別の女子が言った。
「でも、前やった人は免除でよくない?」
「なんで?」
「だって大変だったし」
「みんな大変じゃん」
言い争いが始まる。
僕は黙っていた。
以前なら、口を挟んでいた。
でも今は。
何かを言う前に考えてしまう。
正しいことを言って。
誰かを傷つけるかもしれない。
誰かを助けるつもりで。
別の誰かを追い詰めるかもしれない。
結局、先生が話をまとめた。
「今日は決めなくていい。明日までに考えておいて」
チャイムが鳴る。
みんなが席を立つ。
僕も立った。
教室の隅で、男子が一人だけ残っていた。
係をやりたくないと言っていた生徒だ。
友達に何か言われている。
「お前、前も逃げただろ」
「別に」
「今回くらいやれよ」
「……」
僕は、その場を通り過ぎた。
助けようとは思わなかった。
何が正しいのかわからなかったからだ。
それが。
少し悔しかった。
◇
放課後。
図書室で本を読んでいると、昼間のことが頭から離れなかった。
正しいことを言う。
間違っていることを指摘する。
それは本当に善いことなのか。
例えば。
誰かが太っていることを気にしているとして。
「気にしなくていいよ」
と言うのは優しい。
でも。
「健康のためには運動したほうがいいよ」
と言うのも、場合によっては正しい。
では。
どちらを言えばいい?
相手のためになる正しさ。
相手を傷つけない優しさ。
その二つが同じ方向を向いているとは限らない。
僕は本を閉じた。
人間は。
正しさだけでは生きられない。
でも。
正しさがなければ、もっと酷いことになる。
その間にあるものが。
僕にはまだわからなかった。
◇
夜。
澪と会った。
「今日はどうしたの?」
「何が?」
「難しい顔してる」
「いつもだろ」
「今日は特に」
僕は苦笑した。
「正しいことって、何だと思う?」
「急だね」
「答えて」
澪は少し考えた。
「人を傷つけないこと、かな」
「じゃあ、悪いことをしてる人を注意するのは?」
「傷つくかもしれないね」
「でも、注意しないといけない」
「うん」
「じゃあ、矛盾してる」
「そうだね」
澪はあっさり言った。
「だから難しいんじゃない?」
「……お前、最近そればっかりだな」
「だって、本当に難しいんだもん」
僕たちは廊下を歩いた。
しばらくして。
澪が言った。
「正しいことって、相手を変えるために使うと怖くなるんじゃないかな」
「どういうこと?」
「『あなたが間違っている』って言うのは簡単だけど、
その人がどうしてそうしたのかまでは、わからないから」
「でも、理由があっても悪いことは悪いだろ」
「うん」
澪は頷いた。
「悪いことをしたなら、責任はあると思う」
「だったら」
「でも」
澪は僕を見る。
「責任があることと、その人の全部が悪いことは違うよ」
僕は黙った。
それは。
前にも聞いたような話だった。
人間を一つの言葉で決めつけない。
善人。
悪人。
優しい人。
嫌な人。
そういう名前をつけた瞬間。
その人間の他の部分が見えなくなる。
「じゃあ、正しいことを言うのもダメなのか?」
「違うよ」
澪は笑った。
「言っていいと思う」
「どっちだよ」
「ただ、自分が正しいからって、相手より偉いわけじゃないってこと」
その言葉が。
妙に胸に残った。
◇
その夜の闇は。
教室ではなく。
廊下に現れた。
細長い影のような姿だった。
まるで。
誰かの指を一本ずつ集めたように。
あちこちを指差している。
僕は銃を構えた。
闇の中から声がする。
――あの人が悪い。
――あの人が間違っている。
――だから私は正しい。
僕は息を止めた。
これは。
今までとは少し違う。
嫉妬でも。
寂しさでも。
承認欲求でもない。
もっと。
厄介なものだった。
正義感。
闇の中に、何人もの生徒が見えた。
誰かを注意する人。
誰かを責める人。
誰かの失敗を笑う人。
誰かの悪口を言う人。
そして。
その全員が同じことを言っていた。
――私は悪くない。
――悪いのはあいつ。
――私は正しい。
僕は。
その言葉を聞いた瞬間。
自分の胸が冷たくなるのを感じた。
僕も。
同じ言葉を何度言っただろう。
僕は悪くない。
僕は何もしていない。
悪いのは、僕をいじめる人たちだ。
それは事実だ。
でも。
事実だからこそ。
その言葉に隠れてしまうものがある。
僕は銃を握りしめた。
「直人」
澪が言った。
「撃てる?」
「……わからない」
「どうして?」
「この闇」
僕は闇を見る。
「僕自身みたいだから」
澪は何も言わなかった。
闇が膨らむ。
――僕は悪くない。
――私も悪くない。
――悪いのは、いつだって誰か。
僕は耳を塞ぎたくなった。
でも。
聞こえる。
自分の声だから。
◇
僕は引き金を引いた。
一発。
闇が揺れる。
もう一発。
黒い影が裂ける。
それでも消えない。
僕は走った。
闇の中心に向かって。
そして。
最後の一発を撃った。
闇が崩れる。
黒い粒が宙に舞った。
その瞬間。
大量の感情が流れ込んできた。
怒り。
苛立ち。
嫉妬。
恐怖。
正義感。
そして。
自分だけは間違っていないという確信。
僕はその全部を感じた。
その中に。
僕自身の声があった。
――僕は悪くない。
――僕は悪くない。
――僕は悪くない。
何度も。
何度も。
同じ言葉を繰り返していた。
僕は膝をついた。
闇が消える。
廊下が静かになる。
「……僕は」
声が震えた。
「ずっと、これを言ってたんだな」
澪が隣に座った。
「うん」
「僕は悪くないって」
「うん」
「それって、本当に正しいのかな」
澪はすぐには答えなかった。
やがて。
「わからない」
と言った。
「でも」
澪は続ける。
「全部自分が悪いと思う必要もないと思う」
僕は顔を上げた。
「……」
「誰かに傷つけられたことまで、自分のせいにしなくていいよ」
その言葉は。
不思議なくらい優しかった。
「でも、自分の中にも嫌なところがあるってことは、見てもいいんじゃないかな」
僕は黙った。
それは。
たぶん。
今の僕に必要な言葉だった。
自分を責めることと。
自分を見ることは。
同じではない。
◇
学校を出る。
僕は澪に聞いた。
「なあ」
「うん?」
「正しい人って、いるのかな」
「いるんじゃない?」
「さっきと言ってること違わない?」
「違わないよ」
澪は笑った。
「正しいことをする人はいる。でも、ずっと正しい人はいないと思う」
「……なるほど」
「私だって、誰かを助けたことで誰かを傷つけるかもしれない」
僕はその言葉を聞いて、少し驚いた。
澪がそんなことを言うとは思わなかった。
「だから」
澪は前を向いたまま言った。
「間違えないようにするより、間違えたときに気づけるほうが大事なのかも」
僕は空を見た。
夜だった。
昼間なら。
学校にはたくさんの目がある。
誰かが誰かを見る。
評価する。
比べる。
笑う。
怒る。
褒める。
でも夜になると。
それがなくなる。
だから僕は、夜の学校が好きだった。
誰にも評価されないから。
――いや。
違う。
誰にも評価されない場所で。
僕は初めて、自分を評価することから逃げられるのかもしれない。
僕は思った。
「僕は悪くない」という言葉を。
もう少しだけ。
疑ってみてもいいのかもしれない。
その言葉が嘘だからではない。
その言葉だけでは。
僕自身を全部説明できないからだ。
僕は悪くない。
でも。
僕も、完全に正しいわけではない。
その二つは。
同時に存在できる。
そのことを知っただけで。
ほんの少し。
呼吸がしやすくなった気がした。




