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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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15/24

15.正しいことは人を傷つける

 正しいことを言う人間は、嫌われる。


 僕は昔、それが不思議だった。


 正しいなら、正しいほうがいい。


 間違っていることを指摘されれば、直せばいい。


 悪いことをしたなら、謝ればいい。


 そう思っていた。


 だから小学生の頃の僕は、よく人の間に入った。


「それは違うと思う」


「今のは謝ったほうがいいよ」


「みんなで決めたことだから、守ろうよ」


 そう言えば、周りの人間は僕のことを頼ってくれた。


 僕は、それが嬉しかった。


 正しいことを言っている。


 みんなのために動いている。


 だから。


 僕は正しい。


 そんなふうに思っていた。


 今考えると。


 ずいぶん単純だった。


   ◇


 五時間目の終わり。


 先生が教室の前に立っていた。


「来週の係決めだけど、まだ決まっていない人がいるな」


 教室がざわつく。


 一人の男子が手を挙げた。


「先生、誰もやりたくないなら、くじ引きでいいんじゃないですか」


「そうだな」


 別の女子が言った。


「でも、前やった人は免除でよくない?」


「なんで?」


「だって大変だったし」


「みんな大変じゃん」


 言い争いが始まる。


 僕は黙っていた。


 以前なら、口を挟んでいた。


 でも今は。


 何かを言う前に考えてしまう。


 正しいことを言って。


 誰かを傷つけるかもしれない。


 誰かを助けるつもりで。


 別の誰かを追い詰めるかもしれない。


 結局、先生が話をまとめた。


「今日は決めなくていい。明日までに考えておいて」


 チャイムが鳴る。


 みんなが席を立つ。


 僕も立った。


 教室の隅で、男子が一人だけ残っていた。


 係をやりたくないと言っていた生徒だ。


 友達に何か言われている。


「お前、前も逃げただろ」


「別に」


「今回くらいやれよ」


「……」


 僕は、その場を通り過ぎた。


 助けようとは思わなかった。


 何が正しいのかわからなかったからだ。


 それが。


 少し悔しかった。


   ◇


 放課後。


 図書室で本を読んでいると、昼間のことが頭から離れなかった。


 正しいことを言う。


 間違っていることを指摘する。


 それは本当に善いことなのか。


 例えば。


 誰かが太っていることを気にしているとして。


「気にしなくていいよ」


 と言うのは優しい。


 でも。


「健康のためには運動したほうがいいよ」


 と言うのも、場合によっては正しい。


 では。


 どちらを言えばいい?


 相手のためになる正しさ。


 相手を傷つけない優しさ。


 その二つが同じ方向を向いているとは限らない。


 僕は本を閉じた。


 人間は。


 正しさだけでは生きられない。


 でも。


 正しさがなければ、もっと酷いことになる。


 その間にあるものが。


 僕にはまだわからなかった。


   ◇


 夜。


 澪と会った。


「今日はどうしたの?」


「何が?」


「難しい顔してる」


「いつもだろ」


「今日は特に」


 僕は苦笑した。


「正しいことって、何だと思う?」


「急だね」


「答えて」


 澪は少し考えた。


「人を傷つけないこと、かな」


「じゃあ、悪いことをしてる人を注意するのは?」


「傷つくかもしれないね」


「でも、注意しないといけない」


「うん」


「じゃあ、矛盾してる」


「そうだね」


 澪はあっさり言った。


「だから難しいんじゃない?」


「……お前、最近そればっかりだな」


「だって、本当に難しいんだもん」


 僕たちは廊下を歩いた。


 しばらくして。


 澪が言った。


「正しいことって、相手を変えるために使うと怖くなるんじゃないかな」


「どういうこと?」


「『あなたが間違っている』って言うのは簡単だけど、

 その人がどうしてそうしたのかまでは、わからないから」


「でも、理由があっても悪いことは悪いだろ」


「うん」


 澪は頷いた。


「悪いことをしたなら、責任はあると思う」


「だったら」


「でも」


 澪は僕を見る。


「責任があることと、その人の全部が悪いことは違うよ」


 僕は黙った。


 それは。


 前にも聞いたような話だった。


 人間を一つの言葉で決めつけない。


 善人。


 悪人。


 優しい人。


 嫌な人。


 そういう名前をつけた瞬間。


 その人間の他の部分が見えなくなる。


「じゃあ、正しいことを言うのもダメなのか?」


「違うよ」


 澪は笑った。


「言っていいと思う」


「どっちだよ」


「ただ、自分が正しいからって、相手より偉いわけじゃないってこと」


 その言葉が。


 妙に胸に残った。


   ◇


 その夜の闇は。


 教室ではなく。


 廊下に現れた。


 細長い影のような姿だった。


 まるで。


 誰かの指を一本ずつ集めたように。


 あちこちを指差している。


 僕は銃を構えた。


 闇の中から声がする。


 ――あの人が悪い。


 ――あの人が間違っている。


 ――だから私は正しい。


 僕は息を止めた。


 これは。


 今までとは少し違う。


 嫉妬でも。


 寂しさでも。


 承認欲求でもない。


 もっと。


 厄介なものだった。


 正義感。


 闇の中に、何人もの生徒が見えた。


 誰かを注意する人。


 誰かを責める人。


 誰かの失敗を笑う人。


 誰かの悪口を言う人。


 そして。


 その全員が同じことを言っていた。


 ――私は悪くない。


 ――悪いのはあいつ。


 ――私は正しい。


 僕は。


 その言葉を聞いた瞬間。


 自分の胸が冷たくなるのを感じた。


 僕も。


 同じ言葉を何度言っただろう。


 僕は悪くない。


 僕は何もしていない。


 悪いのは、僕をいじめる人たちだ。


 それは事実だ。


 でも。


 事実だからこそ。


 その言葉に隠れてしまうものがある。


 僕は銃を握りしめた。


「直人」


 澪が言った。


「撃てる?」


「……わからない」


「どうして?」


「この闇」


 僕は闇を見る。


「僕自身みたいだから」


 澪は何も言わなかった。


 闇が膨らむ。


 ――僕は悪くない。


 ――私も悪くない。


 ――悪いのは、いつだって誰か。


 僕は耳を塞ぎたくなった。


 でも。


 聞こえる。


 自分の声だから。


   ◇


 僕は引き金を引いた。


 一発。


 闇が揺れる。


 もう一発。


 黒い影が裂ける。


 それでも消えない。


 僕は走った。


 闇の中心に向かって。


 そして。


 最後の一発を撃った。


 闇が崩れる。


 黒い粒が宙に舞った。


 その瞬間。


 大量の感情が流れ込んできた。


 怒り。


 苛立ち。


 嫉妬。


 恐怖。


 正義感。


 そして。


 自分だけは間違っていないという確信。


 僕はその全部を感じた。


 その中に。


 僕自身の声があった。


 ――僕は悪くない。


 ――僕は悪くない。


 ――僕は悪くない。


 何度も。


 何度も。


 同じ言葉を繰り返していた。


 僕は膝をついた。


 闇が消える。


 廊下が静かになる。


「……僕は」


 声が震えた。


「ずっと、これを言ってたんだな」


 澪が隣に座った。


「うん」


「僕は悪くないって」


「うん」


「それって、本当に正しいのかな」


 澪はすぐには答えなかった。


 やがて。


「わからない」


 と言った。


「でも」


 澪は続ける。


「全部自分が悪いと思う必要もないと思う」


 僕は顔を上げた。


「……」


「誰かに傷つけられたことまで、自分のせいにしなくていいよ」


 その言葉は。


 不思議なくらい優しかった。


「でも、自分の中にも嫌なところがあるってことは、見てもいいんじゃないかな」


 僕は黙った。


 それは。


 たぶん。


 今の僕に必要な言葉だった。


 自分を責めることと。


 自分を見ることは。


 同じではない。


   ◇


 学校を出る。


 僕は澪に聞いた。


「なあ」


「うん?」


「正しい人って、いるのかな」


「いるんじゃない?」


「さっきと言ってること違わない?」


「違わないよ」


 澪は笑った。


「正しいことをする人はいる。でも、ずっと正しい人はいないと思う」


「……なるほど」


「私だって、誰かを助けたことで誰かを傷つけるかもしれない」


 僕はその言葉を聞いて、少し驚いた。


 澪がそんなことを言うとは思わなかった。


「だから」


 澪は前を向いたまま言った。


「間違えないようにするより、間違えたときに気づけるほうが大事なのかも」


 僕は空を見た。


 夜だった。


 昼間なら。


 学校にはたくさんの目がある。


 誰かが誰かを見る。


 評価する。


 比べる。


 笑う。


 怒る。


 褒める。


 でも夜になると。


 それがなくなる。


 だから僕は、夜の学校が好きだった。


 誰にも評価されないから。


 ――いや。


 違う。


 誰にも評価されない場所で。


 僕は初めて、自分を評価することから逃げられるのかもしれない。


 僕は思った。


 「僕は悪くない」という言葉を。


 もう少しだけ。


 疑ってみてもいいのかもしれない。


 その言葉が嘘だからではない。


 その言葉だけでは。


 僕自身を全部説明できないからだ。


 僕は悪くない。


 でも。


 僕も、完全に正しいわけではない。


 その二つは。


 同時に存在できる。


 そのことを知っただけで。


 ほんの少し。


 呼吸がしやすくなった気がした。


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