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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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16/24

16.闇を倒すほど、人間が嫌いになる

 最近、僕は人間が嫌いになってきた。


 正確に言えば。


 人間のことを知るほど、人間を好きになれなくなってきた。


 最初は逆だった。


 闇を倒すたびに、僕は人間のことが少しわかるようになった気がしていた。


 あの人は意地悪なのではなく、寂しい。


 あの人は自信があるのではなく、不安だから頑張っている。


 あの人は優しいのではなく、必要とされたいのかもしれない。


 あの人は誰かを嫌っているけれど、本当は自分が嫌われるのを怖がっている。


 そういうものが見えるようになった。


 だから。


 人間は面白いと思った。


 単純ではない。


 善人でも悪人でもない。


 一人の人間の中に、矛盾した感情がいくつも存在している。


 それは、たしかに面白かった。


 でも。


 最近は違う。


 知れば知るほど。


 面倒になった。


   ◇


 朝。


 教室で、男子が一人の女子の悪口を言っていた。


「昨日さ、あいつ先生に言ったらしいよ」


「マジ?」


「最悪じゃん」


「何が?」


「俺らのこと」


 笑い声が起きる。


 僕は聞いていた。


 以前なら、腹が立ったかもしれない。


 今は。


 その男子がどうしてそんなことを言っているのかまで想像できてしまう。


 先生に怒られるのが怖い。


 自分だけ悪者になるのが嫌だ。


 仲間外れにされたくない。


 だから先に、誰かを悪者にする。


 たぶん、そういうことだ。


 僕はため息をついた。


 変な話だ。


 中学生が、人間に疲れている。


 まだ人生の何分の一も生きていないのに。


   ◇


 昼休み。


 僕は一人で廊下にいた。


 向こう側では澪が友達と話している。


 僕には話しかけない。


 僕も話しかけない。


 それでいい。


 澪は笑っていた。


 友達も笑っている。


 昼間の澪は、僕が夜に知っている澪とは少し違う。


 でも。


 どちらが本物なのかという話ではない。


 たぶん。


 どちらも本物なのだ。


 それが最近、少し嫌だった。


 人間は。


 一つではない。


 そのことが。


 どうしようもなく面倒だった。


   ◇


 夜。


 僕たちは校舎を歩いていた。


「最近、元気ないね」


 澪が言った。


「そうか?」


「うん」


「普通だよ」


「普通じゃない」


「何を根拠に」


「闇を倒した後の顔が暗い」


「闇を倒したのに?」


「うん」


 僕は少し笑った。


「変なの」


「直人がね」


「僕かよ」


 しばらく歩いた。


 僕は言った。


「澪」


「うん?」


「闇ってさ」


「うん」


「倒さないほうがいいんじゃないか」


 澪が足を止めた。


「どうして?」


「だって」


 僕は言葉を探した。


「闇を倒すと、その人のことを知るだろ」


「うん」


「知る前は、普通に見えてた」


「うん」


「でも、知ったら違って見える」


「……うん」


「だったら、知らないほうがよかったこともあるんじゃないか?」


 澪はしばらく黙っていた。


「あると思う」


「やっぱり」


「でも」


「でも?」


「知らないままのほうがいいとは、私は思わない」


「どうして?」


 澪は少し考えた。


「知ったからこそ、優しくできることもあるから」


 僕は笑った。


「お前らしい答え」


「そう?」


「うん」


 僕は空を見上げた。


「でも僕は、もう優しくできない気がする」


「どうして?」


「人間のことを知りすぎた」


 言ってから。


 自分でも変だと思った。


「誰だって嫌なことを考える」


「うん」


「誰だって自分が一番かわいい」


「うん」


「誰かを助けるときだって、自分のためだったりする」


「うん」


「正しいことを言ってる人間だって、自分が正しいと思いたいだけかもしれない」


「うん」


「それで、みんな普通の顔して学校にいる」


 僕は笑った。


「怖くない?」


 澪は僕を見た。


「少し怖いね」


「だろ?」


「でも」


 澪は続けた。


「直人も、その中の一人だよ」


 僕は黙った。


「僕?」


「うん」


「僕は違う」


「どうして?」


「僕は、自分の闇を見てる」


「それなら、なおさら同じじゃない?」


「……」


 反論できなかった。


   ◇


 その夜の闇は。


 音楽室に現れた。


 大きなピアノの前に。


 黒い人影が座っている。


 鍵盤を押しているわけではない。


 ただ。


 そこに座っている。


「なんだ、あれ」


 僕が言った。


「静かだね」


 澪が答える。


 近づく。


 闇がこちらを見る。


 そして。


 僕の頭の中に声が響いた。


 ――みんな嫌い。


 僕は眉をひそめた。


 ――誰も信用できない。


 ――誰かが笑っていても、何を考えているかわからない。


 ――だから誰にも近づかない。


 僕は立ち止まった。


 これは。


 今の僕と同じだった。


 闇の中に、教室が見えた。


 笑っている生徒たち。


 話している生徒たち。


 楽しそうにしている生徒たち。


 その一人一人の心の中から。


 黒いものが少しずつ伸びている。


 嫉妬。


 劣等感。


 寂しさ。


 優越感。


 恐怖。


 怒り。


 承認欲求。


 そして。


 それを隠すための笑顔。


 僕は息を呑んだ。


 全部。


 知っている。


 僕はもう。


 人間の笑顔を見るだけで。


 その裏側を想像してしまう。


 あいつも何か隠している。


 こいつも本当は誰かを妬んでいる。


 あの人だって、自分のために優しくしている。


 そう思ってしまう。


 すると。


 誰も信用できなくなる。


 誰も好きになれなくなる。


 誰も。


 ただの「いい人」ではいられなくなる。


「……最悪だ」


 僕は呟いた。


「直人?」


「僕はもう、普通に人を見られない」


 澪は何も言わなかった。


「前はさ」


 僕は続けた。


「嫌な奴は嫌な奴だったんだ」


「うん」


「優しい人は優しい人だった」


「うん」


「でも今は違う」


 僕は闇を見る。


「嫌な奴にも事情がある」


「うん」


「優しい人にも嫌な部分がある」


「うん」


「じゃあ、誰を好きになればいいんだよ」


 澪は黙った。


 僕は笑った。


「誰を嫌えばいいんだよ」


 自分でも。


 子どもみたいな質問だと思った。


 でも。


 本当にわからなかった。


   ◇


 闇が動いた。


 黒い影がこちらへ近づいてくる。


 僕は銃を構えた。


 でも。


 撃てない。


 この闇は。


 誰か一人のものではない気がした。


 人間そのものに対する不信。


 誰かを信じたいのに。


 信じたら裏切られると思っている。


 だから。


 最初から期待しない。


 最初から嫌っておく。


 そうすれば。


 傷つかない。


 僕はその気持ちを。


 知っていた。


 あまりにも。


 よく知っていた。


「澪」


「うん」


「僕、こいつを倒したくない」


「どうして?」


「こいつの言ってることが、わかるから」


 澪は少しだけ笑った。


「それでも、倒さなきゃいけない」


「なんで?」


「闇だから」


「それは理由になってない」


 僕は初めて。


 澪に反発した。


「闇だから倒す。それだけでいいのか?」


「……」


「この闇が生まれた理由を知ったら、倒すべきじゃないって思うかもしれない」


「でも」


「僕はもう、何が正しいのかわからない」


 澪は黙っていた。


 やがて。


「私もわからないよ」


 と言った。


「え?」


「私だって、毎日闇を倒してるけど」


 澪は闇を見つめた。


「本当にこれでいいのかなって思うことはある」


 僕は少し驚いた。


 澪はいつも迷わないと思っていた。


 でも。


 迷っている。


 それを見て。


 少しだけ安心した。


「じゃあ」


 僕は聞いた。


「なんで続けてるんだ?」


 澪は答えなかった。


 しばらくして。


「放っておけないから」


 それだけだった。


 僕はその言葉の中に。


 何か別のものがある気がした。


 でも。


 今は聞かなかった。


   ◇


 僕は銃を構えた。


「ごめん」


 誰に言ったのかわからない。


 闇にか。


 自分にか。


 それとも。


 この闇を生んだ誰かにか。


 引き金を引いた。


 一発。


 二発。


 三発。


 闇が揺れる。


 最後に。


 黒い塊が音もなく崩れた。


 僕の中に。


 誰かの感情が流れ込んでくる。


 人を信じたい。


 でも怖い。


 近づきたい。


 でも傷つきたくない。


 誰かに理解してほしい。


 でも自分からは何も話したくない。


 その矛盾。


 その全部が。


 僕の中にもあった。


 闇が消える。


 僕は目を開けた。


 音楽室は静かだった。


「……なあ、澪」


「うん?」


「人間ってさ」


「うん」


「面倒だな」


 澪は笑った。


「そうだね」


「お前もそう思うんだ」


「思うよ」


「意外」


「私だって人間だから」


 その言葉に。


 僕は少しだけ笑った。


   ◇


 帰り道。


 僕は考えていた。


 人間は。


 矛盾している。


 優しいのに、意地悪だ。


 寂しいのに、一人になりたがる。


 正しくありたいのに、自分が間違っていることを認められない。


 誰かを好きになりながら同時に、その人を嫌いになることだってある。


 そんな生き物を。


 どうやって好きになればいいのだろう。


 僕にはまだわからない。


 でも。


 一つだけ。


 以前とは違うことがあった。


 僕はもう。


 「人間は嫌いだ」と言い切ることもできなくなっていた。


 嫌いだと思った相手の中に。


 寂しさがあることを知ってしまったから。


 優しいと思った相手の中に。


 怖さがあることを知ってしまったから。


 そして。


 嫌いだと思っている自分自身の中にも。


 誰かに理解されたいという気持ちがあることを。


 知ってしまったから。


 知ることは。


 人間を好きになることではなかった。


 むしろ。


 好き嫌いだけでは語れなくすることだった。


 それが。


 今の僕には。


 少しだけ苦しかった。


 学校の門を出る。


 振り返る。


 暗い校舎が立っている。


 そのどこかで。


 また誰かの心が。


 自分でも知らない感情を育てている。


 明日になれば。


 その人は何も知らない顔で学校に来る。


 笑う。


 話す。


 授業を受ける。


 誰かに優しくする。


 誰かを嫌う。


 僕も同じだ。


 僕だって。


 何も知らない顔をして。


 また学校へ行く。


 そう考えると。


 少しだけ可笑しかった。


 人間は。


 自分の心さえ知らないまま。


 毎日を生きている。


 僕はそのことを知ってしまった。


 だから。


 もう以前のようには戻れない。


 そして。


 そのことが。


 僕の中にある「闇」を。


 少しずつ大きくしていることにも。


 まだ僕は。


 気づいていなかった。


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