17.僕には闇がない
僕には、闇がない。
そう思うようになった。
別に、僕が善人だと言いたいわけではない。
むしろ逆だ。
僕は、自分が人を嫌いになることを知っている。
腹が立つこともある。
誰かに嫌なことをされたら、その人を嫌いになる。
自分だけが損をしているように感じれば、不公平だと思う。
誰かが僕を笑えば、僕だってその人を好きにはなれない。
でも、それを僕は知っている。
自分の中にそういう感情があることを、ちゃんと分かっている。
だから僕は、闇を持っていない。
少なくとも、僕はそう考えていた。
◇
昼休み。
教室はいつも通り騒がしかった。
机を寄せて弁当を食べる人。
次の授業の宿題を写している人。
誰かの話を聞きながら、興味があるふりをしている人。
僕は、その全部を少し離れたところから眺めていた。
以前なら、ただのクラスメイトだった。
今は違う。
笑っている人を見れば、
――本当は何を考えているんだろう。
そう思ってしまう。
楽しそうに話している人を見れば、
――この中の誰かを羨ましいと思っているんじゃないか。
親切にしている人を見れば、
――感謝されたいんじゃないか。
一人でいる人を見れば、
――本当は寂しいんじゃないか。
誰かを褒めている人を見れば、
――自分も褒められたいんじゃないか。
そんなことばかり考えるようになった。
人間を見ると、その後ろに別の人間がいるように感じる。
表に出ている顔。
その奥にある感情。
さらにその奥にある、本人にも見えていない感情。
そして、その奥にあるもの。
僕はもう、人間を一枚の絵として見ることができなくなっていた。
何枚も重なった透明な紙のように見える。
一枚目は笑顔。
二枚目は嫉妬。
三枚目は不安。
四枚目は孤独。
五枚目は、本人さえ知らない何か。
僕はそれを知ってしまった。
だから、人間が嫌いになった。
……いや。
少し違う。
嫌いになったというより、
分からなくなった。
人間というものが。
◇
「朝倉」
突然、名前を呼ばれた。
振り返ると、クラスメイトが立っていた。
「これ、先生に渡しといて」
プリントを一枚、僕の机に置く。
「……分かった」
「ありがと」
それだけ言って、彼は戻っていった。
僕はプリントを見つめた。
たったそれだけのことなのに、少しだけ胸が軽くなった。
誰かに頼られた。
そんな、大げさなものじゃない。
ただプリントを渡してほしいと言われただけだ。
それなのに。
僕は少し嬉しかった。
そのことに気づいて、嫌になった。
僕はまだ、誰かに必要とされることを喜ぶらしい。
そう思った。
そして、すぐに否定した。
違う。
これは普通だ。
誰だって頼まれれば嬉しい。
それを「必要とされたい」という闇に結びつける必要はない。
僕はそう考えた。
――僕には闇がない。
もう一度、心の中で言った。
今度は、少し強く。
◇
放課後。
廊下を歩いていると、窓の向こうに澪が見えた。
何人かの女子に囲まれている。
澪は笑っていた。
昼間の彼女は、僕の知らない人だ。
いや。
正確には、僕の知っている澪ではない。
夜の学校で話す彼女とは違う。
夜の澪は、よく笑う。
くだらないことを言う。
僕をからかう。
時々、変なことを考えている。
でも昼間の彼女は、もっと静かだ。
人に合わせるのが上手くて、相手の話を聞いて、困っている人がいれば自然に手を差し伸べる。
そして僕とは、目が合っても話さない。
それは、僕も同じだった。
学校では、僕たちはほとんど他人だ。
それでいい。
僕たちには、夜がある。
僕は窓越しに彼女を見ながら思った。
あの笑顔の奥にも、何かある。
きっとある。
僕はそれを知っている。
いや。
知っているつもりになっているだけかもしれない。
僕はもう、分からない。
分からないことが、怖かった。
◇
夜。
学校は静かだった。
時計の針の音が、昼間よりずっと大きく聞こえる。
僕と澪は、廊下を歩いていた。
「今日は静かだね」
澪が言った。
「いつも静かだろ」
「そうだけど。今日は特に」
「闇が出ないから?」
「うん」
澪は前を見たまま答えた。
しばらく歩く。
何も起こらない。
階段を上る。
廊下を曲がる。
それでも闇は現れない。
「……ねえ」
澪が突然言った。
「何?」
「最近、直人くん、人のことをよく見てるよね」
「そう?」
「うん」
僕は少し黙った。
「闇を見てるからかな」
「それだけ?」
「それだけだよ」
澪は何も言わなかった。
その沈黙が、妙に気になった。
「何?」
「ううん」
「何か言いたそうだけど」
「じゃあ、言う」
澪は立ち止まった。
「直人くん、自分のことは見てる?」
「……見てるよ」
「本当に?」
「本当」
即答した。
澪は僕を見る。
夜の廊下で、彼女の目だけが妙にはっきり見えた。
「じゃあ、自分の闇は?」
僕は笑った。
「僕には闇なんてないよ」
澪は笑わなかった。
「どうして?」
「だって僕は、自分の嫌なところを知ってるから」
「……うん」
「人を嫌いになることもある。腹が立つこともある。誰かを羨ましいと思うこともある。
そういうのを隠してない」
僕は続けた。
「闇って、自分でも気づいてない感情なんだろ?」
「そうだね」
「だったら、僕にはない」
澪は少しだけ首を傾けた。
「それは、ちょっと変だね」
「何が?」
「自分に闇がないって、どうしてそんなに自信を持って言えるのかなって」
僕は答えられなかった。
澪は続けた。
「闇って、自分で『これが闇です』って見つけるものじゃないと思う」
「じゃあ何?」
「たぶん……」
彼女は少し考えた。
「見つけたくないものほど、見つからないんじゃないかな」
胸の奥が、ほんの少しだけ動いた。
でも僕は、その感覚を無視した。
「それじゃ、何でも闇になっちゃうじゃん」
「そうかもしれない」
「それってずるくない?」
「うん。ずるいと思う」
澪はあっさり認めた。
「人間の心って、たぶんずるいから」
僕は笑った。
「それじゃ、どうしようもないな」
「どうしようもないよ」
「じゃあ、闇なんてなくせないじゃん」
「なくす必要もないんじゃない?」
その言葉に、僕は少し驚いた。
「今まで倒してきたのに?」
「うん」
澪は静かに答えた。
「倒すのと、なくすのは違うから」
その意味を考えようとした。
けれど、その前に。
廊下の先に、何かがいた。
黒い。
いつもの闇だった。
ただ。
いつもと少し違った。
こちらを見ている。
いや。
僕を見ている。
澪ではなく。
僕だけを。
「……あれ」
僕は銃を握った。
闇は動かない。
襲ってこない。
ただ、僕を見ている。
その姿には、怒りも悲しみもなかった。
嫉妬も、孤独も、恐怖もない。
ただ一つ。
真っ黒な顔の中央に、白い文字が浮かんだ。
――僕は悪くない。
僕は息を止めた。
「……何これ」
澪が隣に立つ。
「分からない」
彼女も答えられない。
僕は闇から目を離せなかった。
――僕は悪くない。
もう一度、文字が浮かぶ。
それは僕が何度も自分に言ってきた言葉だった。
僕が傷つけられたとき。
僕が無視されたとき。
僕が悪くないのに責められたとき。
僕はいつもそう思った。
僕は悪くない。
僕は何もしていない。
僕には責任がない。
だから、僕は悪くない。
それは間違っていない。
少なくとも、間違いではないはずだった。
なのに。
どうして。
こんなにも胸が苦しいのだろう。
闇が一歩、近づいた。
僕は銃を構えた。
けれど、引き金を引けなかった。
「直人くん」
白石が呼ぶ。
「……何?」
「その闇」
彼女は少しだけ迷ってから言った。
「本当に、他人のものなのかな」
僕は答えなかった。
答えたくなかった。
そして、そのとき初めて。
僕は思った。
もしかしたら。
僕がこれまで倒してきた闇は、他人の心を映していただけではないのかもしれない。
僕はずっと、他人の心を覗いていた。
嫉妬。
孤独。
劣等感。
承認欲求。
怒り。
恐怖。
そして、
「自分は悪くない」という思い。
それらを見つけるたびに、僕は思っていた。
――人間って、嫌なものだ。
でも。
もし、それを見ている僕自身の心にも、同じものがあるのだとしたら。
僕はいったい、何を見ていたのだろう。
他人の闇か。
それとも。
僕自身の闇を、他人の姿に重ねていただけなのか。
僕は銃を握ったまま、動けなかった。
闇は何もしてこない。
ただ、そこにいる。
そして僕は、初めて理解した。
闇というものは。
襲ってくるものだけが、闇ではない。
見たくないから、見なかったことにしているもの。
それもまた、
闇なのかもしれない。
「……僕には、闇がない」
僕は小さく呟いた。
今度は、自分に言い聞かせるように。
闇は答えなかった。
ただ、暗い廊下の中で。
僕の言葉を、僕自身よりも長く聞いているようだった。




