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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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17/24

17.僕には闇がない

僕には、闇がない。


そう思うようになった。


別に、僕が善人だと言いたいわけではない。


むしろ逆だ。


僕は、自分が人を嫌いになることを知っている。


腹が立つこともある。


誰かに嫌なことをされたら、その人を嫌いになる。


自分だけが損をしているように感じれば、不公平だと思う。


誰かが僕を笑えば、僕だってその人を好きにはなれない。


でも、それを僕は知っている。


自分の中にそういう感情があることを、ちゃんと分かっている。


だから僕は、闇を持っていない。


少なくとも、僕はそう考えていた。


   ◇


昼休み。


教室はいつも通り騒がしかった。


机を寄せて弁当を食べる人。


次の授業の宿題を写している人。


誰かの話を聞きながら、興味があるふりをしている人。


僕は、その全部を少し離れたところから眺めていた。


以前なら、ただのクラスメイトだった。


今は違う。


笑っている人を見れば、


――本当は何を考えているんだろう。


そう思ってしまう。


楽しそうに話している人を見れば、


――この中の誰かを羨ましいと思っているんじゃないか。


親切にしている人を見れば、


――感謝されたいんじゃないか。


一人でいる人を見れば、


――本当は寂しいんじゃないか。


誰かを褒めている人を見れば、


――自分も褒められたいんじゃないか。


そんなことばかり考えるようになった。


人間を見ると、その後ろに別の人間がいるように感じる。


表に出ている顔。


その奥にある感情。


さらにその奥にある、本人にも見えていない感情。


そして、その奥にあるもの。


僕はもう、人間を一枚の絵として見ることができなくなっていた。


何枚も重なった透明な紙のように見える。


一枚目は笑顔。


二枚目は嫉妬。


三枚目は不安。


四枚目は孤独。


五枚目は、本人さえ知らない何か。


僕はそれを知ってしまった。


だから、人間が嫌いになった。


……いや。


少し違う。


嫌いになったというより、


分からなくなった。


人間というものが。


   ◇


「朝倉」


突然、名前を呼ばれた。


振り返ると、クラスメイトが立っていた。


「これ、先生に渡しといて」


プリントを一枚、僕の机に置く。


「……分かった」


「ありがと」


それだけ言って、彼は戻っていった。


僕はプリントを見つめた。


たったそれだけのことなのに、少しだけ胸が軽くなった。


誰かに頼られた。


そんな、大げさなものじゃない。


ただプリントを渡してほしいと言われただけだ。


それなのに。


僕は少し嬉しかった。


そのことに気づいて、嫌になった。


僕はまだ、誰かに必要とされることを喜ぶらしい。


そう思った。


そして、すぐに否定した。


違う。


これは普通だ。


誰だって頼まれれば嬉しい。


それを「必要とされたい」という闇に結びつける必要はない。


僕はそう考えた。


――僕には闇がない。


もう一度、心の中で言った。


今度は、少し強く。


   ◇


放課後。


廊下を歩いていると、窓の向こうに澪が見えた。


何人かの女子に囲まれている。


澪は笑っていた。


昼間の彼女は、僕の知らない人だ。


いや。


正確には、僕の知っている澪ではない。


夜の学校で話す彼女とは違う。


夜の澪は、よく笑う。


くだらないことを言う。


僕をからかう。


時々、変なことを考えている。


でも昼間の彼女は、もっと静かだ。


人に合わせるのが上手くて、相手の話を聞いて、困っている人がいれば自然に手を差し伸べる。


そして僕とは、目が合っても話さない。


それは、僕も同じだった。


学校では、僕たちはほとんど他人だ。


それでいい。


僕たちには、夜がある。


僕は窓越しに彼女を見ながら思った。


あの笑顔の奥にも、何かある。


きっとある。


僕はそれを知っている。


いや。


知っているつもりになっているだけかもしれない。


僕はもう、分からない。


分からないことが、怖かった。


   ◇


夜。


学校は静かだった。


時計の針の音が、昼間よりずっと大きく聞こえる。


僕と澪は、廊下を歩いていた。


「今日は静かだね」


澪が言った。


「いつも静かだろ」


「そうだけど。今日は特に」


「闇が出ないから?」


「うん」


澪は前を見たまま答えた。


しばらく歩く。


何も起こらない。


階段を上る。


廊下を曲がる。


それでも闇は現れない。


「……ねえ」


澪が突然言った。


「何?」


「最近、直人くん、人のことをよく見てるよね」


「そう?」


「うん」


僕は少し黙った。


「闇を見てるからかな」


「それだけ?」


「それだけだよ」


澪は何も言わなかった。


その沈黙が、妙に気になった。


「何?」


「ううん」


「何か言いたそうだけど」


「じゃあ、言う」


澪は立ち止まった。


「直人くん、自分のことは見てる?」


「……見てるよ」


「本当に?」


「本当」


即答した。


澪は僕を見る。


夜の廊下で、彼女の目だけが妙にはっきり見えた。


「じゃあ、自分の闇は?」


僕は笑った。


「僕には闇なんてないよ」


澪は笑わなかった。


「どうして?」


「だって僕は、自分の嫌なところを知ってるから」


「……うん」


「人を嫌いになることもある。腹が立つこともある。誰かを羨ましいと思うこともある。

 そういうのを隠してない」


僕は続けた。


「闇って、自分でも気づいてない感情なんだろ?」


「そうだね」


「だったら、僕にはない」


澪は少しだけ首を傾けた。


「それは、ちょっと変だね」


「何が?」


「自分に闇がないって、どうしてそんなに自信を持って言えるのかなって」


僕は答えられなかった。


澪は続けた。


「闇って、自分で『これが闇です』って見つけるものじゃないと思う」


「じゃあ何?」


「たぶん……」


彼女は少し考えた。


「見つけたくないものほど、見つからないんじゃないかな」


胸の奥が、ほんの少しだけ動いた。


でも僕は、その感覚を無視した。


「それじゃ、何でも闇になっちゃうじゃん」


「そうかもしれない」


「それってずるくない?」


「うん。ずるいと思う」


澪はあっさり認めた。


「人間の心って、たぶんずるいから」


僕は笑った。


「それじゃ、どうしようもないな」


「どうしようもないよ」


「じゃあ、闇なんてなくせないじゃん」


「なくす必要もないんじゃない?」


その言葉に、僕は少し驚いた。


「今まで倒してきたのに?」


「うん」


澪は静かに答えた。


「倒すのと、なくすのは違うから」


その意味を考えようとした。


けれど、その前に。


廊下の先に、何かがいた。


黒い。


いつもの闇だった。


ただ。


いつもと少し違った。


こちらを見ている。


いや。


僕を見ている。


澪ではなく。


僕だけを。


「……あれ」


僕は銃を握った。


闇は動かない。


襲ってこない。


ただ、僕を見ている。


その姿には、怒りも悲しみもなかった。


嫉妬も、孤独も、恐怖もない。


ただ一つ。


真っ黒な顔の中央に、白い文字が浮かんだ。


――僕は悪くない。


僕は息を止めた。


「……何これ」


澪が隣に立つ。


「分からない」


彼女も答えられない。


僕は闇から目を離せなかった。


――僕は悪くない。


もう一度、文字が浮かぶ。


それは僕が何度も自分に言ってきた言葉だった。


僕が傷つけられたとき。


僕が無視されたとき。


僕が悪くないのに責められたとき。


僕はいつもそう思った。


僕は悪くない。


僕は何もしていない。


僕には責任がない。


だから、僕は悪くない。


それは間違っていない。


少なくとも、間違いではないはずだった。


なのに。


どうして。


こんなにも胸が苦しいのだろう。


闇が一歩、近づいた。


僕は銃を構えた。


けれど、引き金を引けなかった。


「直人くん」


白石が呼ぶ。


「……何?」


「その闇」


彼女は少しだけ迷ってから言った。


「本当に、他人のものなのかな」


僕は答えなかった。


答えたくなかった。


そして、そのとき初めて。


僕は思った。


もしかしたら。


僕がこれまで倒してきた闇は、他人の心を映していただけではないのかもしれない。


僕はずっと、他人の心を覗いていた。


嫉妬。


孤独。


劣等感。


承認欲求。


怒り。


恐怖。


そして、


「自分は悪くない」という思い。


それらを見つけるたびに、僕は思っていた。


――人間って、嫌なものだ。


でも。


もし、それを見ている僕自身の心にも、同じものがあるのだとしたら。


僕はいったい、何を見ていたのだろう。


他人の闇か。


それとも。


僕自身の闇を、他人の姿に重ねていただけなのか。


僕は銃を握ったまま、動けなかった。


闇は何もしてこない。


ただ、そこにいる。


そして僕は、初めて理解した。


闇というものは。


襲ってくるものだけが、闇ではない。


見たくないから、見なかったことにしているもの。


それもまた、


闇なのかもしれない。


「……僕には、闇がない」


僕は小さく呟いた。


今度は、自分に言い聞かせるように。


闇は答えなかった。


ただ、暗い廊下の中で。


僕の言葉を、僕自身よりも長く聞いているようだった。


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