18.関わらない人間
僕は、人と関わらない。
正確に言えば。
関わらなくなった。
中学生になる前の僕は、もっと人と話していた。
誰かが困っていれば声をかけたし、休み時間になれば自然と人の輪の中にいた。
何かを決めるときには、いつの間にか僕のところに話が集まってきた。
それが特別なことだとは思っていなかった。
人と話す。
一緒に笑う。
意見が違えば言い合う。
仲直りする。
そういうものだと思っていた。
でも今は違う。
教室で僕に話しかける人はいない。
必要な連絡でさえ、先生を通して伝わることがある。
僕の机の周りだけ、透明な壁があるみたいだった。
誰も壁を作った覚えなんてないのに。
いつの間にか、そこにできていた。
そして僕も、その壁を壊そうとはしなかった。
最初は壊したかった。
でも、何度か手を伸ばして、そのたびに傷ついた。
だから途中から、手を伸ばさなくなった。
そのほうが楽だった。
「関わらなければ、傷つかない」
それは、とても単純な理屈だった。
そして、とても便利な理屈でもあった。
◇
掃除の時間。
僕は一人で教室の後ろを掃いていた。
教室には何人か残っていたけれど、誰も僕に話しかけない。
話しかけない。
というより。
僕を見ない。
それはもう、日常になっていた。
最初のころは、そのことが苦しかった。
今は、ほとんど何も感じない。
……いや。
何も感じないようにしている。
その違いは、たぶん大きい。
机を動かす音。
箒が床を擦る音。
窓の外から聞こえる運動部の声。
誰かの笑い声。
それらが僕の周りを通り過ぎていく。
僕はそれを聞きながら、床に落ちた小さな紙くずを拾った。
こんなことをしていると、妙なことを考える。
人間は、関わらなければ分からない。
でも。
関わっても、本当に分かるのだろうか。
僕は夜の学校で、何人もの闇を見てきた。
その人が誰にも見せない感情。
本人さえ認めていない感情。
それを知ってしまうと、昼間のその人を見る目が変わった。
笑っている。
でも、嫉妬しているかもしれない。
親切にしている。
でも、必要とされたいのかもしれない。
一人でいる。
でも、本当は寂しいのかもしれない。
僕は人間のことを、以前よりたくさん知った。
なのに。
以前より、人間のことが分からなくなった。
◇
掃除が終わった。
僕は箒を戻し、教室を出た。
誰も僕を呼び止めない。
当然だった。
僕は一人で廊下を歩く。
そのとき、向こうから澪が歩いてきた。
昼間の彼女は、僕に話しかけない。
今日も目が合っただけだった。
ほんの一瞬。
それだけ。
澪はそのまま通り過ぎていった。
僕も何も言わない。
それが僕たちの昼間だった。
奇妙な関係だと思う。
夜になれば、僕たちは一緒に闇を探す。
くだらない話もする。
互いの考えていることを話す。
それなのに、昼間はほとんど他人だ。
でも。
もしかすると。
僕たちが本当に他人なのは、昼間のほうなのかもしれない。
◇
その日の夜。
僕はいつもの場所で澪を待っていた。
しばらくすると、階段の向こうから彼女が現れた。
「こんばんは」
「遅い」
「まだ五分しか経ってないよ」
「僕にとっては長かった」
「それ、待ち合わせしてる恋人みたい」
「違う」
即答した。
澪が笑う。
「そういうところ、直人くんらしいね」
「どういうところだよ」
「すぐ否定するところ」
「変なこと言うからだろ」
「はいはい」
彼女は楽しそうだった。
僕は少しだけ安心する。
昼間とは違う。
夜は、僕が僕でいられる。
そのことが最近、少し怖かった。
「ねえ」
澪が言った。
「何?」
「直人くんって、人と関わらないよね」
「……そうだな」
「寂しくない?」
僕は少し考えた。
「寂しいかどうかは、もう分からない」
「どうして?」
「慣れたから」
澪は黙った。
僕は続けた。
「最初は嫌だった。でも、慣れれば平気になる」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ、誰にも必要とされなくても?」
「別に」
「誰にも話しかけてもらえなくても?」
「別に」
「誰にも知られなくても?」
僕は答えなかった。
澪はそれ以上、聞かなかった。
その優しさが、少しだけ嫌だった。
まるで僕の答えを最初から知っているみたいだったから。
◇
僕は考えた。
人と関わらないことは、本当に強いことなのだろうか。
誰かに嫌われるなら、最初から誰とも関わらなければいい。
誰かに裏切られるなら、最初から信用しなければいい。
誰かに期待して失望するくらいなら、最初から期待しなければいい。
そうすれば傷つかない。
そうすれば、負けない。
そうすれば、
僕は悪くない。
そこまで考えて、僕は気づいた。
また、その言葉だ。
僕は悪くない。
まるで自分を守る呪文みたいに、何度も頭の中に浮かんでくる。
僕は悪くない。
僕は何もしていない。
僕は誰も傷つけていない。
だから、僕は悪くない。
でも。
ふと疑問に思った。
「悪くない」とは、いったい何なのだろう。
人を傷つけていないこと?
誰かに嫌なことをしていないこと?
自分の感情を正しく理解していること?
それとも。
誰かを傷つけたとしても、
「僕は悪くない」と思えること?
分からない。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
◇
「直人くん」
澪が僕を見る。
「何?」
「直人くんは、人と関わらないことで自分を守ってるんだと思う」
「そうだよ」
「でもね」
彼女は少しだけ間を置いた。
「守っているのは、自分だけなのかな」
僕は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「人と関わらなければ、相手のことを知らなくて済むでしょう?」
「うん」
「知らなければ、傷つかない」
「そう」
「でも、知らなければ、自分がどういう人間なのかも分からないよ」
僕は黙った。
その言葉は、妙に胸に残った。
他人との関係は、他人を知るためだけにあると思っていた。
でも。
誰かと話して。
誰かに嫌われて。
誰かに好かれて。
誰かに腹を立てて。
誰かを羨ましく思って。
そのたびに、自分の中にも何かが見える。
人間関係とは、他人を見るためのものではなく。
自分を見るための鏡なのかもしれない。
だったら。
鏡から離れ続けている僕は。
自分の顔を見ていないだけなのではないか。
「……でも」
僕は言った。
「人と関わらなくても、自分のことは分かるだろ」
澪は少し笑った。
「本当に?」
「本当だよ」
「じゃあ、直人くん」
彼女は僕の目を見た。
「今、自分が何を怖がってるか分かる?」
答えられなかった。
それが悔しかった。
「……別に、怖がってない」
「そう」
澪はそれ以上、追及しなかった。
ただ、静かに前を向いた。
◇
その夜。
僕たちは何度か校舎を歩いた。
けれど、闇は現れなかった。
廊下にも。
教室にも。
音楽室にも。
図書室にも。
何もいない。
「今日は休みかな」
僕が言うと、澪が笑った。
「闇にも休みがあるのかもね」
「ずいぶん働かせてきたからな」
「そうだね」
僕たちは笑った。
その瞬間。
僕はふと思った。
もし闇が現れなければ。
僕は澪と何を話すのだろう。
闇を倒すという目的がなければ。
僕たちは何のために、夜の学校にいるのだろう。
僕は彼女と話したいから来ているのか。
それとも。
闇を倒すためだから、彼女と話しているだけなのか。
自分でも分からなかった。
そのことが、少し怖かった。
そして、もっと怖いことに気づいた。
僕は最近。
闇が現れることを、少しだけ期待している。
人の心を知るために。
自分が必要とされるために。
白石と一緒にいられるために。
そんなことを考えている自分がいた。
僕はその考えを、すぐに頭の奥へ押し込んだ。
考えなければいい。
見なければいい。
そうすれば、それは存在しない。
――僕には闇がない。
僕は心の中で、そう呟いた。
その瞬間。
校舎のどこかで、
小さな音がした。
カタン。
僕と澪は同時に振り返った。
誰もいない。
廊下は暗い。
窓の外には、夜の街が広がっている。
「……今の、何?」
澪が聞く。
「知らない」
僕は答えた。
けれど。
僕には分かっていた。
あの音は。
何かが動いた音ではない。
何かが、
こちらを見つけた音だった。
そして僕はまだ知らなかった。
僕が人と関わらないことで守っていたものが。
僕が「闇」と呼んで他人の中に探していたものが。
いつか僕自身の前に、
姿を持って現れることを。




