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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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18/24

18.関わらない人間

僕は、人と関わらない。


正確に言えば。


関わらなくなった。


中学生になる前の僕は、もっと人と話していた。


誰かが困っていれば声をかけたし、休み時間になれば自然と人の輪の中にいた。


何かを決めるときには、いつの間にか僕のところに話が集まってきた。


それが特別なことだとは思っていなかった。


人と話す。


一緒に笑う。


意見が違えば言い合う。


仲直りする。


そういうものだと思っていた。


でも今は違う。


教室で僕に話しかける人はいない。


必要な連絡でさえ、先生を通して伝わることがある。


僕の机の周りだけ、透明な壁があるみたいだった。


誰も壁を作った覚えなんてないのに。


いつの間にか、そこにできていた。


そして僕も、その壁を壊そうとはしなかった。


最初は壊したかった。


でも、何度か手を伸ばして、そのたびに傷ついた。


だから途中から、手を伸ばさなくなった。


そのほうが楽だった。


「関わらなければ、傷つかない」


それは、とても単純な理屈だった。


そして、とても便利な理屈でもあった。


   ◇


掃除の時間。


僕は一人で教室の後ろを掃いていた。


教室には何人か残っていたけれど、誰も僕に話しかけない。


話しかけない。


というより。


僕を見ない。


それはもう、日常になっていた。


最初のころは、そのことが苦しかった。


今は、ほとんど何も感じない。


……いや。


何も感じないようにしている。


その違いは、たぶん大きい。


机を動かす音。


箒が床を擦る音。


窓の外から聞こえる運動部の声。


誰かの笑い声。


それらが僕の周りを通り過ぎていく。


僕はそれを聞きながら、床に落ちた小さな紙くずを拾った。


こんなことをしていると、妙なことを考える。


人間は、関わらなければ分からない。


でも。


関わっても、本当に分かるのだろうか。


僕は夜の学校で、何人もの闇を見てきた。


その人が誰にも見せない感情。


本人さえ認めていない感情。


それを知ってしまうと、昼間のその人を見る目が変わった。


笑っている。


でも、嫉妬しているかもしれない。


親切にしている。


でも、必要とされたいのかもしれない。


一人でいる。


でも、本当は寂しいのかもしれない。


僕は人間のことを、以前よりたくさん知った。


なのに。


以前より、人間のことが分からなくなった。


   ◇


掃除が終わった。


僕は箒を戻し、教室を出た。


誰も僕を呼び止めない。


当然だった。


僕は一人で廊下を歩く。


そのとき、向こうから澪が歩いてきた。


昼間の彼女は、僕に話しかけない。


今日も目が合っただけだった。


ほんの一瞬。


それだけ。


澪はそのまま通り過ぎていった。


僕も何も言わない。


それが僕たちの昼間だった。


奇妙な関係だと思う。


夜になれば、僕たちは一緒に闇を探す。


くだらない話もする。


互いの考えていることを話す。


それなのに、昼間はほとんど他人だ。


でも。


もしかすると。


僕たちが本当に他人なのは、昼間のほうなのかもしれない。


   ◇


その日の夜。


僕はいつもの場所で澪を待っていた。


しばらくすると、階段の向こうから彼女が現れた。


「こんばんは」


「遅い」


「まだ五分しか経ってないよ」


「僕にとっては長かった」


「それ、待ち合わせしてる恋人みたい」


「違う」


即答した。


澪が笑う。


「そういうところ、直人くんらしいね」


「どういうところだよ」


「すぐ否定するところ」


「変なこと言うからだろ」


「はいはい」


彼女は楽しそうだった。


僕は少しだけ安心する。


昼間とは違う。


夜は、僕が僕でいられる。


そのことが最近、少し怖かった。


「ねえ」


澪が言った。


「何?」


「直人くんって、人と関わらないよね」


「……そうだな」


「寂しくない?」


僕は少し考えた。


「寂しいかどうかは、もう分からない」


「どうして?」


「慣れたから」


澪は黙った。


僕は続けた。


「最初は嫌だった。でも、慣れれば平気になる」


「本当に?」


「本当」


「じゃあ、誰にも必要とされなくても?」


「別に」


「誰にも話しかけてもらえなくても?」


「別に」


「誰にも知られなくても?」


僕は答えなかった。


澪はそれ以上、聞かなかった。


その優しさが、少しだけ嫌だった。


まるで僕の答えを最初から知っているみたいだったから。


   ◇


僕は考えた。


人と関わらないことは、本当に強いことなのだろうか。


誰かに嫌われるなら、最初から誰とも関わらなければいい。


誰かに裏切られるなら、最初から信用しなければいい。


誰かに期待して失望するくらいなら、最初から期待しなければいい。


そうすれば傷つかない。


そうすれば、負けない。


そうすれば、


僕は悪くない。


そこまで考えて、僕は気づいた。


また、その言葉だ。


僕は悪くない。


まるで自分を守る呪文みたいに、何度も頭の中に浮かんでくる。


僕は悪くない。


僕は何もしていない。


僕は誰も傷つけていない。


だから、僕は悪くない。


でも。


ふと疑問に思った。


「悪くない」とは、いったい何なのだろう。


人を傷つけていないこと?


誰かに嫌なことをしていないこと?


自分の感情を正しく理解していること?


それとも。


誰かを傷つけたとしても、


「僕は悪くない」と思えること?


分からない。


考えれば考えるほど、分からなくなる。


   ◇


「直人くん」


澪が僕を見る。


「何?」


「直人くんは、人と関わらないことで自分を守ってるんだと思う」


「そうだよ」


「でもね」


彼女は少しだけ間を置いた。


「守っているのは、自分だけなのかな」


僕は眉をひそめた。


「どういう意味?」


「人と関わらなければ、相手のことを知らなくて済むでしょう?」


「うん」


「知らなければ、傷つかない」


「そう」


「でも、知らなければ、自分がどういう人間なのかも分からないよ」


僕は黙った。


その言葉は、妙に胸に残った。


他人との関係は、他人を知るためだけにあると思っていた。


でも。


誰かと話して。


誰かに嫌われて。


誰かに好かれて。


誰かに腹を立てて。


誰かを羨ましく思って。


そのたびに、自分の中にも何かが見える。


人間関係とは、他人を見るためのものではなく。


自分を見るための鏡なのかもしれない。


だったら。


鏡から離れ続けている僕は。


自分の顔を見ていないだけなのではないか。


「……でも」


僕は言った。


「人と関わらなくても、自分のことは分かるだろ」


澪は少し笑った。


「本当に?」


「本当だよ」


「じゃあ、直人くん」


彼女は僕の目を見た。


「今、自分が何を怖がってるか分かる?」


答えられなかった。


それが悔しかった。


「……別に、怖がってない」


「そう」


澪はそれ以上、追及しなかった。


ただ、静かに前を向いた。


   ◇


その夜。


僕たちは何度か校舎を歩いた。


けれど、闇は現れなかった。


廊下にも。


教室にも。


音楽室にも。


図書室にも。


何もいない。


「今日は休みかな」


僕が言うと、澪が笑った。


「闇にも休みがあるのかもね」


「ずいぶん働かせてきたからな」


「そうだね」


僕たちは笑った。


その瞬間。


僕はふと思った。


もし闇が現れなければ。


僕は澪と何を話すのだろう。


闇を倒すという目的がなければ。


僕たちは何のために、夜の学校にいるのだろう。


僕は彼女と話したいから来ているのか。


それとも。


闇を倒すためだから、彼女と話しているだけなのか。


自分でも分からなかった。


そのことが、少し怖かった。


そして、もっと怖いことに気づいた。


僕は最近。


闇が現れることを、少しだけ期待している。


人の心を知るために。


自分が必要とされるために。


白石と一緒にいられるために。


そんなことを考えている自分がいた。


僕はその考えを、すぐに頭の奥へ押し込んだ。


考えなければいい。


見なければいい。


そうすれば、それは存在しない。


――僕には闇がない。


僕は心の中で、そう呟いた。


その瞬間。


校舎のどこかで、


小さな音がした。


カタン。


僕と澪は同時に振り返った。


誰もいない。


廊下は暗い。


窓の外には、夜の街が広がっている。


「……今の、何?」


澪が聞く。


「知らない」


僕は答えた。


けれど。


僕には分かっていた。


あの音は。


何かが動いた音ではない。


何かが、


こちらを見つけた音だった。


そして僕はまだ知らなかった。


僕が人と関わらないことで守っていたものが。


僕が「闇」と呼んで他人の中に探していたものが。


いつか僕自身の前に、


姿を持って現れることを。


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