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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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19/24

19.澪の秘密

白石澪には、秘密がある。


そう思ったのは、その日の夜だった。


きっかけは、とても小さなことだった。


闇を探して、二人で廊下を歩いていたとき。


澪が突然、足を止めた。


「どうした?」


僕が聞く。


「……ううん」


彼女はそう言って、少し笑った。


「なんでもない」


まただ。


僕は思った。


その言葉を、僕は何度聞いただろう。


なんでもない。


大丈夫。


平気。


気にしないで。


人間は、本当に何でもないときにも、そう言う。


でも。


何かあるときにも、同じ言葉を使う。


だから僕には、もう区別がつかなかった。


「何かあっただろ」


「ないよ」


「嘘」


「嘘じゃないって」


澪は笑う。


いつもの笑顔だった。


昼間、クラスメイトに向けている笑顔。


先生に向ける笑顔。


困っている人に向ける笑顔。


僕はその笑顔を知っている。


少なくとも、知っているつもりだった。


「……澪」


「なに?」


「お前ってさ」


僕は少し迷ってから言った。


「なんで、そんなに人を助けるの?」


澪の笑顔が止まった。


ほんの一瞬だった。


けれど。


僕には、それが見えた。


「どうしてって……」


彼女は考える。


「困ってる人がいたら、助けるでしょ?」


「普通はそうかもしれない」


「じゃあ、それでいいじゃん」


「でも、お前は普通より多い」


澪は黙った。


「誰かが困ってたら、すぐ気づく」


「そうかな」


「気づく」


「……そうかもね」


「頼まれてなくても助ける」


「うん」


「断られても、必要なら別の方法を考える」


「……うん」


僕は彼女を見る。


「そこまでして、何がしたいの?」


澪は答えなかった。


   ◇


しばらくして、彼女は歩き始めた。


僕も隣を歩く。


階段を上る。


一段。


また一段。


足音だけが響く。


「私ね」


三階まで上がったところで、澪が言った。


「昔から、人を助けるのが好きだったんだ」


「知ってる」


「ううん。そういう意味じゃない」


彼女は少し笑った。


「人を助けるとね、安心するの」


「安心?」


「うん」


僕は黙って聞いた。


「その人が困ってる」


「うん」


「私が助ける」


「うん」


「その人が笑う」


白石はそこで一度、言葉を止めた。


「すると、私は安心する」


僕には、その意味がよく分からなかった。


「それの何が悪いの?」


「悪いとは言ってないよ」


「でも、変な言い方だな」


「そう?」


「助けた人が笑ったら、嬉しいんじゃないの?」


「嬉しいよ」


白石は答えた。


「でもね」


彼女は窓の外を見た。


「嬉しいより先に、安心するの」


夜の校庭は暗かった。


誰もいない。


昼間なら人がたくさんいる場所なのに、夜になると別の世界に見える。


「私が役に立てた」


澪は静かに言った。


「私が必要だった」


その声は、いつもの彼女より小さかった。


「それが分かると、安心する」


僕は何も言えなかった。


その言葉を聞いた瞬間。


僕の頭の中に、いくつもの闇が浮かんだ。


必要とされたい。


認められたい。


自分には価値があると思いたい。


誰かに見捨てられたくない。


どれも、これまで見てきたものだった。


でも。


澪から聞くと、少し違って聞こえた。


「じゃあ」


僕は聞いた。


「誰にも必要とされなかったら?」


澪は答えなかった。


「助ける人がいなかったら?」


答えない。


「誰も困ってなかったら?」


長い沈黙のあと。


彼女は笑った。


「……分からない」


初めて聞く言葉だった。


白石澪が。


「分からない」と言った。


僕は驚いた。


彼女はいつも、何かしら答えを持っているように見えた。


困っている人には手を差し伸べる。


悩んでいる人には言葉をかける。


迷っている人には一緒に考える。


そんな彼女が。


自分のことだけは、分からない。


そのことが、妙に人間らしく感じられた。


「直人くんは?」


突然、聞き返された。


「何が?」


「必要とされたい?」


僕は笑った。


「別に」


「本当に?」


「……たぶん」


「たぶんなんだ」


「うるさい」


澪が笑う。


今度の笑顔は、少しだけ自然だった。


   ◇


僕はふと思った。


澪は、人を助けることで自分を守っているのではないか。


それは、僕が人と関わらないことで自分を守っているのと、どこか似ている。


僕は人に近づかない。


澪は人に近づく。


僕は期待しない。


澪は期待されようとする。


僕は必要とされなくてもいいと思おうとする。


澪は必要とされることで安心する。


正反対に見える。


でも。


根っこは同じなのかもしれない。


自分の価値を、自分一人では確かめられない。


だから僕は、


「僕は悪くない」


と言う。


澪は、


「誰かを助けなきゃ」


と言う。


どちらも、自分を守るための言葉なのかもしれない。


そう考えたとき。


僕は少し嫌な気持ちになった。


白石のことを理解したような気になったからだ。


人の闇を知ると、人は簡単に分かった気になってしまう。


「ああ、この人はこういう人なんだ」


そうやって箱に入れる。


嫉妬する人。


寂しい人。


臆病な人。


認められたい人。


必要とされたい人。


でも。


人間は、そんな一言で説明できるほど単純ではない。


澪だってそうだ。


人を助けたい。


人に必要とされたい。


誰かの役に立ちたい。


嫌われたくない。


寂しくなりたくない。


きっと、その全部が同時に存在している。


そのどれが本当の白石なのか。


僕には分からない。


もしかすると。


全部が本当なのだ。


   ◇


「ねえ、直人くん」


「何?」


「私のこと、嫌いになった?」


僕は足を止めた。


「なんで?」


「今、変な顔してたから」


「してない」


「してたよ」


「してない」


「してた」


「……少しだけ」


澪は笑った。


「やっぱり」


「別に、嫌いになってない」


「じゃあ、どう思ったの?」


僕は考えた。


正直に言えば。


少し怖くなった。


今まで僕は、澪を特別な人間だと思っていた。


誰かを助けることができる人。


他人の痛みに気づける人。


僕にはできないことを、自然にできる人。


でも。


彼女にも、僕と同じように、自分を守るための何かがある。


それを知ってしまった。


「……人間なんだなって思った」


澪は目を丸くした。


「何それ」


「悪い意味じゃない」


「分かってる」


彼女は少し笑った。


「むしろ、嬉しいかも」


「なんで?」


「私も、人間だから」


その言葉を聞いて。


僕はなぜか安心した。


   ◇


僕たちは旧校舎の廊下まで来た。


そこは昼間でもほとんど人が来ない。


夜になると、さらに暗い。


僕は銃を持ったまま歩いていた。


白石も隣にいる。


「ねえ」


僕が言った。


「何?」


「もしさ」


「うん」


「誰かを助けるのが、自分のためでもあったら」


「うん」


「それって、偽物の優しさなのかな」


澪は少し考えた。


「分からない」


また、その言葉だった。


でも今度は、嫌じゃなかった。


「でも」


彼女は続けた。


「自分のためだからって、その人を助けたことまで嘘にはならないと思う」


僕は黙った。


「人を助けたい気持ちと、自分も助けてほしい気持ちって」


澪は前を向いた。


「一緒にあってもいいんじゃないかな」


その言葉を聞いたとき。


僕は、自分の中にも同じものがある気がした。


僕だってそうだった。


誰かに傷つけられたくない。


だから人と関わらない。


でも。


誰かに気づいてほしい。


誰かに必要とされたい。


誰かに「大丈夫」と言ってほしい。


そんな気持ちも、確かにある。


それを認めるのは、少し恥ずかしかった。


だから僕は、認めなかった。


「僕には闇がない」


そう言ってしまえば、全部説明できるから。


   ◇


そのときだった。


廊下の奥で、何かが動いた。


二人とも黙る。


黒い影。


壁際から、ゆっくりと姿を現す。


闇だった。


けれど。


いつもの闇とは違った。


その闇は、こちらを見なかった。


澪だけを見ていた。


僕は銃を構える。


澪も銃を構えた。


闇の中から、声がした。


小さな声。


誰かの声だった。


――助けなきゃ。


白石の顔が固まる。


――私が助けなきゃ。


同じ言葉が繰り返される。


――私がいないと。


僕は澪を見る。


彼女は何も言わない。


闇は続ける。


――私が必要。


――私がいないと。


――だから。


最後の言葉だけが、妙に静かだった。


――私を置いていかないで。


白石の指が、わずかに震えた。


僕はそれを見た。


そして。


初めて思った。


この闇は。


澪が誰かを助けたいという気持ちだけから生まれたものではない。


その奥にある。


「必要とされなくなることへの恐怖」。


それが、この闇を作っている。


僕は引き金に指をかけた。


けれど。


撃つことができなかった。


なぜなら。


その闇を見ている白石の顔が。


泣いているように見えたからだ。


「澪」


「……うん」


「これ」


僕は言葉を探した。


「倒していいのか?」


澪はすぐには答えなかった。


長い沈黙のあと。


彼女は小さく笑った。


「……分からない」


僕は銃を下ろした。


闇も動かなかった。


ただそこにいる。


まるで僕たち二人に、


「お前たちは、人を助けるということを本当に理解しているのか」


と問いかけているようだった。


その夜。


僕は初めて知った。


白石澪にも闇がある。


でも。


それは、彼女が悪いからではない。


彼女が優しいからでもない。


人を助けたいという気持ちの中に。


人に必要とされたいという気持ちがある。


そして。


必要とされたいという気持ちの中に。


誰かを大切にしたいという気持ちもある。


善意と欲望。


優しさと寂しさ。


愛情と恐怖。


それらは、綺麗に分けることなんてできない。


人間の心は。


そんなに親切にはできていない。


僕は闇を見ながら思った。


だったら。


僕自身の心は、どうなのだろう。


僕は本当に。


他人のことだけを見ているのだろうか。


それとも。


他人の闇を見つけることで、


自分の闇から目を逸らしているだけなのだろうか。


答えは、まだ分からなかった。


ただ一つだけ。


今までよりも少しだけ。


「自分」という人間が、


怖くなった。


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