20.彼女が人を救う理由
白石澪は、人を助ける。
それは、この学校では誰もが知っていることだった。
困っている人がいれば声をかける。
先生に頼まれれば嫌な顔をしない。
だから、みんな白石を優しいと思っている。
僕も、そう思っていた。
少なくとも、少し前までは。
でも今は違う。
人を助けることと、人を助けたいと思うことは、同じではない。
人を助けたいと思うことと、人を必要としたいと思うことも、同じではない。
そして。
人を必要としたいと思うことと、人を支配したいと思うことも。
完全に別物だとは言い切れない。
人間の感情は、そんなに綺麗に仕分けできない。
だから僕は、澪を見る目が少し変わっていた。
彼女を疑っているわけではない。
むしろ。
前より人間らしく見えるようになった。
それが、僕には少し嬉しかった。
◇
翌日の昼休み。
僕は教室の隅で、一人で弁当を食べていた。
周りには何人もいる。
でも、僕の周囲だけは静かだった。
誰も話しかけない。
僕も話しかけない。
それはもう、特別なことではない。
教室の窓から外を見る。
校庭では何人かの生徒が走っていた。
笑い声が聞こえる。
誰かが誰かを呼ぶ声。
ボールを蹴る音。
僕はその景色を、少し遠い場所から見ているような気がした。
以前の僕なら、あの中にいた。
笑っていた。
走っていた。
誰かと競争していた。
誰かに頼られていた。
それが今では、別の世界の出来事のようだった。
僕は弁当箱を閉じた。
そのとき。
教室の前方で、女子生徒がプリントを落とした。
何枚かが床に散らばる。
澪がすぐに立ち上がった。
拾う。
一枚。
二枚。
三枚。
「ありがとう」
女子生徒が笑う。
「ううん」
白石も笑う。
それだけ。
たったそれだけのやり取りだった。
でも。
僕には、その笑顔の奥にあるものが見えてしまった。
――必要とされている。
そんな感情。
そして、その感情に安心している澪。
僕は少しだけ嫌な気持ちになった。
いや。
澪が嫌なのではない。
僕が、そういう見方をしていることが嫌だった。
誰かが笑えば、
「何か隠している」
誰かが親切にすれば、
「何か理由がある」
誰かが人を助ければ、
「自分のためかもしれない」
僕は、人間を見るたびに裏側を探している。
それは、本当に「人を理解する」ということなのだろうか。
もしかすると。
ただ疑っているだけではないのか。
◇
放課後。
僕は一人で教室に残っていた。
掃除が終わっても、すぐには帰らなかった。
誰も僕に声をかけない。
僕にとって、それは当たり前だった。
机の上に置かれた消しゴムを見つめる。
白い。
四角い。
何の変哲もない消しゴム。
僕はそれを指で転がした。
「……僕は、何を考えてるんだろう」
自分でも分からなかった。
人間の心を知れば知るほど、人間が分からなくなる。
そして。
人間が分からなくなるほど、自分だけは分かっていると思いたくなる。
僕は悪くない。
僕は、自分の感情を分かっている。
僕は、人を嫌う理由も知っている。
僕は、嫉妬することもある。
怒ることもある。
寂しいこともある。
全部、自覚している。
だから僕には闇がない。
……本当に?
その問いが、頭の中に浮かんだ。
僕はすぐに消した。
考える必要なんてない。
◇
夜。
僕と澪は、屋上にいた。
今日は闇が出ていなかった。
だから、ただ話をしていた。
風が少し強い。
白石の髪が揺れている。
「昨日のこと」
白石が言った。
「うん」
「気になってる?」
「何が?」
「私の闇」
僕は少し黙った。
「……気になってる」
「そっか」
「お前は、どう思ってる?」
「私?」
「自分のこと」
澪は空を見上げた。
「分からない」
「またそれか」
「だって、本当に分からないんだもん」
「自分のことなのに?」
「自分のことだから分からないんじゃない?」
僕は少し考えた。
確かにそうかもしれない。
他人のことなら、ある程度は距離を取って見ることができる。
でも、自分のことはできない。
自分の感情の中にいるから。
「直人くんは、自分のこと分かる?」
「……分かる」
「じゃあ、どうして人と関わらないの?」
僕は黙った。
「人に傷つけられたから?」
「そう」
「それだけ?」
「……それだけじゃない」
澪は何も言わない。
僕は続けた。
「人と関わると、面倒だから」
「うん」
「期待すると、裏切られる」
「うん」
「仲良くなれば、嫌われる可能性もある」
「うん」
「だったら最初から関わらなければいい」
澪は少し笑った。
「それって、合理的だね」
「だろ?」
「でも、寂しくない?」
「……分からない」
言ってから、僕は驚いた。
それは澪と同じ言葉だった。
澪は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
◇
「私が人を助ける理由も」
澪が言った。
「たぶん、同じなんだと思う」
「何が?」
「怖いんだと思う」
僕は彼女を見る。
「誰かが困っているのを見ると、助けたくなる」
「うん」
「その人が助かると、安心する」
「うん」
「でも、本当は」
澪は少し言葉を探した。
「助けられなかった自分を見るのが、怖いのかもしれない」
風が吹いた。
彼女の髪が顔にかかる。
「助けられなかったら」
澪は言う。
「私は何の役にも立てなかったって思うかもしれない」
「……」
「そう思うのが嫌なのかもしれない」
僕は何も言えなかった。
それは、今まで見てきた澪とは違っていた。
優しい少女。
人気者。
誰にでも親切。
そういう言葉では、説明できない。
「だから、人を助けるの?」
「分からない」
「また?」
「うん」
澪は笑った。
「たぶん、両方なんだと思う」
「両方?」
「その人を助けたい」
「うん」
「それと同時に、助けられる自分でいたい」
僕は黙った。
「どっちかだけじゃないんだと思う」
その言葉が、妙に心に残った。
◇
僕は考えた。
人間は、一つの理由で行動しているわけではない。
誰かを助ける。
そこには、
「困っているから助けたい」
という気持ちもあれば、
「助けられる自分でいたい」
という気持ちもある。
「嫌われたくない」
という気持ちもあれば、
「ありがとうと言ってほしい」
という気持ちもある。
「その人のため」
という言葉の中に、
「自分のため」
が混ざっている。
でも。
それだけで、その行動を偽物と呼んでいいのだろうか。
僕には分からなかった。
むしろ。
自分のための気持ちが少し混ざっているからといって、相手を助けた事実まで消えるわけではない。
それなら。
人間の善意は、完全に純粋でなくてもいいのかもしれない。
純粋じゃないから悪い。
そんな単純な話ではない。
「澪」
「何?」
「お前が人を助けるのって」
「うん」
「結局、自分のためでもあるんだな」
澪は少しだけ考えた。
「うん」
「それ、嫌じゃないの?」
「嫌」
澪は笑った。
「でも、嫌だからって消せるわけじゃないから」
その言葉を聞いて。
僕は少し羨ましくなった。
澪は、自分の矛盾を認めている。
僕は違う。
僕は矛盾を見つけるたびに、どちらかを否定する。
僕は悪くない。
僕は寂しくない。
僕は人を必要としていない。
僕は誰にも認められなくてもいい。
そうやって、一つずつ蓋をする。
もしかすると。
澪より僕のほうが、自分の心を見ていないのかもしれない。
◇
「ねえ、直人くん」
「何?」
「一つ聞いていい?」
「いいよ」
「もし」
澪は少しだけ迷った。
「誰かが直人くんを助けたいって言ったら、どうする?」
「断る」
即答した。
「どうして?」
「僕は助けてもらう必要なんてない」
「本当に?」
「本当」
「でも、傷ついてるよね」
僕は言葉を失った。
澪は続けた。
「今も」
「……」
「私には、そう見える」
僕は笑った。
「精神科医かよ」
「違うよ」
「じゃあ何だよ」
「友達」
その言葉に、僕は黙った。
友達。
その言葉を聞くのは、久しぶりだった。
僕は澪を見た。
彼女はいつものように笑っていた。
でも。
今度は、その笑顔の奥を探そうとは思わなかった。
「……ありがとう」
自然に言葉が出た。
澪は少し驚いた。
「何が?」
「いや」
僕は空を見た。
「なんとなく」
「変なの」
「うるさい」
二人で笑った。
その笑いは、闇を倒したときのものとは違った。
何かを解決したわけではない。
僕の孤立がなくなったわけでもない。
澪が抱えている不安も消えていない。
それでも。
その瞬間だけは。
互いに相手を完全に理解しなくても、隣にいられるような気がした。
◇
帰り際。
校舎の階段を下りながら、僕は考えていた。
澪は人を救っている。
でも。
本当は、彼女自身も救われたがっているのかもしれない。
それは弱さなのだろうか。
たぶん、違う。
では、強さなのか。
それも分からない。
人を救う人間が、救われたいと思ってはいけない理由なんてない。
誰かを助けたいと思う人間が、自分も助けてほしいと思ってもいい。
人間は、矛盾していていい。
僕はそう思った。
そして。
その考えを自分にも向けようとして。
やめた。
まだ。
僕にはできなかった。
僕はまだ、
「僕は悪くない」
という言葉を手放せない。
その言葉が僕を守っていることを。
僕は、認めたくなかった。
だから。
僕はまだ知らない。
自分を守るための言葉が。
いつか、自分自身を閉じ込める檻になることを。
その夜。
誰もいない教室の隅で。
黒い影が、ほんの一瞬だけ揺れた。
そして。
誰にも気づかれないまま。
僕の心の奥で、
ひとつの感情が、
静かに目を開けた。




