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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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20/24

20.彼女が人を救う理由

白石澪は、人を助ける。


それは、この学校では誰もが知っていることだった。


困っている人がいれば声をかける。


先生に頼まれれば嫌な顔をしない。


だから、みんな白石を優しいと思っている。


僕も、そう思っていた。


少なくとも、少し前までは。


でも今は違う。


人を助けることと、人を助けたいと思うことは、同じではない。


人を助けたいと思うことと、人を必要としたいと思うことも、同じではない。


そして。


人を必要としたいと思うことと、人を支配したいと思うことも。


完全に別物だとは言い切れない。


人間の感情は、そんなに綺麗に仕分けできない。


だから僕は、澪を見る目が少し変わっていた。


彼女を疑っているわけではない。


むしろ。


前より人間らしく見えるようになった。


それが、僕には少し嬉しかった。


   ◇


翌日の昼休み。


僕は教室の隅で、一人で弁当を食べていた。


周りには何人もいる。


でも、僕の周囲だけは静かだった。


誰も話しかけない。


僕も話しかけない。


それはもう、特別なことではない。


教室の窓から外を見る。


校庭では何人かの生徒が走っていた。


笑い声が聞こえる。


誰かが誰かを呼ぶ声。


ボールを蹴る音。


僕はその景色を、少し遠い場所から見ているような気がした。


以前の僕なら、あの中にいた。


笑っていた。


走っていた。


誰かと競争していた。


誰かに頼られていた。


それが今では、別の世界の出来事のようだった。


僕は弁当箱を閉じた。


そのとき。


教室の前方で、女子生徒がプリントを落とした。


何枚かが床に散らばる。


澪がすぐに立ち上がった。


拾う。


一枚。


二枚。


三枚。


「ありがとう」


女子生徒が笑う。


「ううん」


白石も笑う。


それだけ。


たったそれだけのやり取りだった。


でも。


僕には、その笑顔の奥にあるものが見えてしまった。


――必要とされている。


そんな感情。


そして、その感情に安心している澪。


僕は少しだけ嫌な気持ちになった。


いや。


澪が嫌なのではない。


僕が、そういう見方をしていることが嫌だった。


誰かが笑えば、


「何か隠している」


誰かが親切にすれば、


「何か理由がある」


誰かが人を助ければ、


「自分のためかもしれない」


僕は、人間を見るたびに裏側を探している。


それは、本当に「人を理解する」ということなのだろうか。


もしかすると。


ただ疑っているだけではないのか。


   ◇


放課後。


僕は一人で教室に残っていた。


掃除が終わっても、すぐには帰らなかった。


誰も僕に声をかけない。


僕にとって、それは当たり前だった。


机の上に置かれた消しゴムを見つめる。


白い。


四角い。


何の変哲もない消しゴム。


僕はそれを指で転がした。


「……僕は、何を考えてるんだろう」


自分でも分からなかった。


人間の心を知れば知るほど、人間が分からなくなる。


そして。


人間が分からなくなるほど、自分だけは分かっていると思いたくなる。


僕は悪くない。


僕は、自分の感情を分かっている。


僕は、人を嫌う理由も知っている。


僕は、嫉妬することもある。


怒ることもある。


寂しいこともある。


全部、自覚している。


だから僕には闇がない。


……本当に?


その問いが、頭の中に浮かんだ。


僕はすぐに消した。


考える必要なんてない。


   ◇


夜。


僕と澪は、屋上にいた。


今日は闇が出ていなかった。


だから、ただ話をしていた。


風が少し強い。


白石の髪が揺れている。


「昨日のこと」


白石が言った。


「うん」


「気になってる?」


「何が?」


「私の闇」


僕は少し黙った。


「……気になってる」


「そっか」


「お前は、どう思ってる?」


「私?」


「自分のこと」


澪は空を見上げた。


「分からない」


「またそれか」


「だって、本当に分からないんだもん」


「自分のことなのに?」


「自分のことだから分からないんじゃない?」


僕は少し考えた。


確かにそうかもしれない。


他人のことなら、ある程度は距離を取って見ることができる。


でも、自分のことはできない。


自分の感情の中にいるから。


「直人くんは、自分のこと分かる?」


「……分かる」


「じゃあ、どうして人と関わらないの?」


僕は黙った。


「人に傷つけられたから?」


「そう」


「それだけ?」


「……それだけじゃない」


澪は何も言わない。


僕は続けた。


「人と関わると、面倒だから」


「うん」


「期待すると、裏切られる」


「うん」


「仲良くなれば、嫌われる可能性もある」


「うん」


「だったら最初から関わらなければいい」


澪は少し笑った。


「それって、合理的だね」


「だろ?」


「でも、寂しくない?」


「……分からない」


言ってから、僕は驚いた。


それは澪と同じ言葉だった。


澪は何も言わなかった。


ただ、少しだけ笑った。


   ◇


「私が人を助ける理由も」


澪が言った。


「たぶん、同じなんだと思う」


「何が?」


「怖いんだと思う」


僕は彼女を見る。


「誰かが困っているのを見ると、助けたくなる」


「うん」


「その人が助かると、安心する」


「うん」


「でも、本当は」


澪は少し言葉を探した。


「助けられなかった自分を見るのが、怖いのかもしれない」


風が吹いた。


彼女の髪が顔にかかる。


「助けられなかったら」


澪は言う。


「私は何の役にも立てなかったって思うかもしれない」


「……」


「そう思うのが嫌なのかもしれない」


僕は何も言えなかった。


それは、今まで見てきた澪とは違っていた。


優しい少女。


人気者。


誰にでも親切。


そういう言葉では、説明できない。


「だから、人を助けるの?」


「分からない」


「また?」


「うん」


澪は笑った。


「たぶん、両方なんだと思う」


「両方?」


「その人を助けたい」


「うん」


「それと同時に、助けられる自分でいたい」


僕は黙った。


「どっちかだけじゃないんだと思う」


その言葉が、妙に心に残った。


   ◇


僕は考えた。


人間は、一つの理由で行動しているわけではない。


誰かを助ける。


そこには、


「困っているから助けたい」


という気持ちもあれば、


「助けられる自分でいたい」


という気持ちもある。


「嫌われたくない」


という気持ちもあれば、


「ありがとうと言ってほしい」


という気持ちもある。


「その人のため」


という言葉の中に、


「自分のため」


が混ざっている。


でも。


それだけで、その行動を偽物と呼んでいいのだろうか。


僕には分からなかった。


むしろ。


自分のための気持ちが少し混ざっているからといって、相手を助けた事実まで消えるわけではない。


それなら。


人間の善意は、完全に純粋でなくてもいいのかもしれない。


純粋じゃないから悪い。


そんな単純な話ではない。


「澪」


「何?」


「お前が人を助けるのって」


「うん」


「結局、自分のためでもあるんだな」


澪は少しだけ考えた。


「うん」


「それ、嫌じゃないの?」


「嫌」


澪は笑った。


「でも、嫌だからって消せるわけじゃないから」


その言葉を聞いて。


僕は少し羨ましくなった。


澪は、自分の矛盾を認めている。


僕は違う。


僕は矛盾を見つけるたびに、どちらかを否定する。


僕は悪くない。


僕は寂しくない。


僕は人を必要としていない。


僕は誰にも認められなくてもいい。


そうやって、一つずつ蓋をする。


もしかすると。


澪より僕のほうが、自分の心を見ていないのかもしれない。


   ◇


「ねえ、直人くん」


「何?」


「一つ聞いていい?」


「いいよ」


「もし」


澪は少しだけ迷った。


「誰かが直人くんを助けたいって言ったら、どうする?」


「断る」


即答した。


「どうして?」


「僕は助けてもらう必要なんてない」


「本当に?」


「本当」


「でも、傷ついてるよね」


僕は言葉を失った。


澪は続けた。


「今も」


「……」


「私には、そう見える」


僕は笑った。


「精神科医かよ」


「違うよ」


「じゃあ何だよ」


「友達」


その言葉に、僕は黙った。


友達。


その言葉を聞くのは、久しぶりだった。


僕は澪を見た。


彼女はいつものように笑っていた。


でも。


今度は、その笑顔の奥を探そうとは思わなかった。


「……ありがとう」


自然に言葉が出た。


澪は少し驚いた。


「何が?」


「いや」


僕は空を見た。


「なんとなく」


「変なの」


「うるさい」


二人で笑った。


その笑いは、闇を倒したときのものとは違った。


何かを解決したわけではない。


僕の孤立がなくなったわけでもない。


澪が抱えている不安も消えていない。


それでも。


その瞬間だけは。


互いに相手を完全に理解しなくても、隣にいられるような気がした。


   ◇


帰り際。


校舎の階段を下りながら、僕は考えていた。


澪は人を救っている。


でも。


本当は、彼女自身も救われたがっているのかもしれない。


それは弱さなのだろうか。


たぶん、違う。


では、強さなのか。


それも分からない。


人を救う人間が、救われたいと思ってはいけない理由なんてない。


誰かを助けたいと思う人間が、自分も助けてほしいと思ってもいい。


人間は、矛盾していていい。


僕はそう思った。


そして。


その考えを自分にも向けようとして。


やめた。


まだ。


僕にはできなかった。


僕はまだ、


「僕は悪くない」


という言葉を手放せない。


その言葉が僕を守っていることを。


僕は、認めたくなかった。


だから。


僕はまだ知らない。


自分を守るための言葉が。


いつか、自分自身を閉じ込める檻になることを。


その夜。


誰もいない教室の隅で。


黒い影が、ほんの一瞬だけ揺れた。


そして。


誰にも気づかれないまま。


僕の心の奥で、


ひとつの感情が、


静かに目を開けた。


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