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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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21/24

21.昼間に現れた闇

その日は、朝から少し変だった。


何が変なのかは分からない。


天気も普通だった。


先生も普通だった。


教室も、いつも通り騒がしかった。


僕も、いつも通り一人だった。


それなのに。


何となく、学校全体が落ち着かない。


そんな気がした。


理由を探そうとして。


やめた。


最近の僕は、何でも理由を探しすぎる。


誰かが笑っていれば、


「何がおかしいんだろう」


誰かが黙っていれば、


「何を隠しているんだろう」


誰かが親切にすれば、


「何のためだろう」


そうやって人間の裏側ばかりを考えていると、普通のことまで普通に見えなくなる。


だから、その日の違和感も気にしないことにした。


気にしない。


そうすればいい。


そう思っていた。


昼休みまでは。


   ◇


廊下が騒がしくなった。


最初は、ただの笑い声だった。


誰かがふざけている。


誰かがからかっている。


学校では珍しくない。


僕は教室から出なかった。


関わらない。


それが僕のやり方だった。


何か起きても、自分には関係ない。


そう思えばいい。


でも。


聞こえてきた声の中に、妙なものが混じっていた。


笑い声。


怒鳴り声。


そして。


助けを求めるような、小さな声。


僕は立ち上がった。


自分でも、どうして立ち上がったのか分からない。


廊下に出る。


人が集まっていた。


その中心に、一人の生徒がいた。


周囲には数人の男子生徒。


何かを言われている。


笑われている。


押されている。


その光景自体は、特別珍しいものではなかった。


だからこそ。


僕は怖くなった。


周囲には、たくさんの人がいる。


誰も止めない。


何人かは見ている。


何人かは笑っている。


何人かは、何も見ていないふりをして通り過ぎる。


そして。


僕は、その光景を見ながら思った。


――どうして誰も助けないんだろう。


その瞬間。


背筋が冷たくなった。


違う。


僕も、助けようとしていない。


僕も。


ただ見ている。


   ◇


そのとき。


廊下の奥が暗くなった。


昼間なのに。


窓から太陽の光が入っているのに。


そこだけ、まるで夜のように黒くなった。


僕は息を呑んだ。


「……闇?」


そう呟いた。


ありえない。


闇は夜に現れる。


少なくとも、今まではそうだった。


けれど。


そこにいた。


黒い。


大きい。


今まで見たどの闇よりも大きかった。


そして。


一人の人間から生まれているようには見えなかった。


何人もの人間の影が、重なっている。


「何、あれ……」


誰かが言った。


その声が響いた瞬間。


闇が動いた。


ゆっくりと。


廊下全体を覆うように。


手が震える。


怖かった。


でも。


それ以上に、分からなかった。


これは誰の闇なんだ。


   ◇


闇の中から、いくつもの声が聞こえた。


――僕には関係ない。


僕の心臓が跳ねた。


――あいつが悪い。


別の声。


――先生に言えば面倒になる。


また別の声。


――助けたら、次は自分が狙われる。


――かわいそうだけど、仕方ない。


――あの子も悪いところがある。


――見なかったことにしよう。


――誰かが助けるだろ。


僕は立ち尽くした。


一つ一つは、どこかで聞いたことのある言葉だった。


いや。


聞いたことがあるだけじゃない。


僕自身も、考えたことがある。


関わらない。


面倒だから。


自分には関係ない。


誰かが助けるだろう。


それは、人間にとって特別に悪い考えではない。


たぶん。


誰だって一度くらい思う。


誰かが困っている。


でも、自分には関係ない。


その気持ちを持っただけで、悪人になるわけではない。


問題は。


その気持ちが何人分も集まったときだった。


一人なら小さな逃げ道だったものが。


百人集まれば。


誰も助けないという現実になる。


   ◇


闇がさらに大きくなった。


その姿を見た瞬間。


僕は気づいた。


この闇には、一人の顔がない。


いくつもの顔がある。


怒っている顔。


怯えている顔。


笑っている顔。


見ないふりをしている顔。


そして。


何もしていない顔。


僕は、それが一番怖かった。


「……これ」


僕は呟いた。


「一人の闇じゃない」


隣に誰かが立った。


澪だった。


いつからそこにいたのか分からない。


「うん」


澪も闇を見ている。


「たくさんの人の闇が混ざってる」


僕は周囲を見た。


誰も動けない。


いや。


動こうとしない。


闇を見ている。


けれど。


誰も自分が関係しているとは思っていない。


その光景を見て。


僕は妙な気持ちになった。


闇が生まれた理由が、分かってしまったからだ。


誰か一人が悪いわけではない。


だからこそ。


誰も自分の責任だと思わない。


   ◇


「直人くん」


澪が言った。


「怖い?」


「……怖い」


「私も」


澪がそう言ったことに、僕は少し驚いた。


いつもなら、彼女はもっと強そうに見える。


でも。


今日は違った。


澪の手も震えていた。


「でも」


澪は言った。


「行かなきゃ」


僕は闇を見る。


あの中にいるのは。


一人の悪意ではない。


人間なら誰でも持っているかもしれない感情。


面倒だから関わりたくない。


嫌われたくない。


自分だけは巻き込まれたくない。


正しいことをしたいけれど、怖い。


誰かを助けたいけれど、自分が傷つくのは嫌だ。


そんな感情。


僕の中にもある。


「……どうして?」


「何が?」


「どうして助けるの?」


澪は僕を見る。


「目の前に困っている人がいるから」


「それだけ?」


澪は少し黙った。


それから。


「それだけじゃないと思う」


そう答えた。


「でも」


彼女は続ける。


「助けたいと思ったから、助ける」


僕はその言葉を聞いた。


以前なら、きっと簡単に正しいと思った。


今は違う。


人間の心を知りすぎたせいで。


正しい言葉ほど、疑いたくなる。


でも。


このときだけは。


それでもいいと思った。


理由が完全に純粋じゃなくても。


自分を守るためでも。


誰かに必要とされたいからでも。


助けたいと思ったなら。


助けるという行動を選ぶことはできる。


感情は選べない。


でも。


行動は選べる。


   ◇


その瞬間。


闇がこちらを向いた。


無数の目が開く。


その一つ一つが、僕を見ている。


――お前も見ていただけだ。


僕の動きが止まる。


――お前も何もしなかった。


息が苦しくなる。


――関係ないと思った。


その通りだった。


僕も最初は、教室に戻ろうとした。


僕も関わりたくなかった。


僕も。


「僕は悪くない」


そう言って逃げようとした。


闇が笑ったように見えた。


――じゃあ。


――誰が悪い?


答えられない。


誰か一人を指させば済む問題ではない。


あの男子生徒たちにも、何か理由があるのかもしれない。


周囲で見ている生徒にも、それぞれの恐怖がある。


止められない理由もある。


見て見ぬふりをした理由もある。


だからといって。


傷つけられている人がいるという事実が消えるわけではない。


人間は。


「事情がある」と「許される」を、簡単に混同してしまう。


僕は、それを知っていた。


だから。


今回は、誰かを理解しようとする必要はなかった。


まず。


目の前にいる人を助ければいい。


「澪」


「うん」


「行こう」


澪が頷いた。


二人で走った。


   ◇


闇が迫ってくる。


僕はどこからかでてきた銃を構えた。


けれど。


撃つ瞬間。


一つの声が聞こえた。


――助けて。


僕の指が止まる。


誰の声なのか分からない。


闇の声なのか。


あの生徒の声なのか。


それとも。


僕自身の声なのか。


分からない。


それでも。


僕は引き金を引いた。


闇が大きく揺れる。


黒いものが崩れていく。


その瞬間。


僕の頭の中に、いくつもの感情が流れ込んできた。


怖い。


嫌だ。


巻き込まれたくない。


でも。


本当は助けたい。


でも。


自分が傷つくのは怖い。


誰かに笑われたくない。


正義感ぶっていると思われたくない。


自分まで仲間外れにされたくない。


そんな感情。


誰一人として、完全な悪人ではなかった。


だからこそ。


僕は苦しくなった。


「……どうして」


僕は呟いた。


闇が崩れていく。


「どうして、誰も悪人じゃないのに……」


こんなことになるのか。


答えは出なかった。


   ◇


やがて。


闇は消えた。


昼間の光が戻る。


廊下は元の明るさになった。


そこには、何事もなかったように人がいる。


でも。


誰も、さっきの闇を覚えていない。


あの生徒も。


周囲にいた人たちも。


自分たちの心の中にあったものを知らない。


僕と澪だけが知っている。


僕は、倒れたわけではない。


何かを解決したわけでもない。


いじめていた生徒たちが、急に優しくなったわけでもない。


見ていた生徒たちが、急に勇敢になったわけでもない。


ただ。


僕は知ってしまった。


誰もが少しずつ怖がっていて。


誰もが少しずつ自分を守ろうとしていて。


その結果として。


誰かが一人になることがある。


それが。


人間というものなのかもしれない。


僕は廊下を歩いた。


そして。


ふと振り返る。


さっきまで闇があった場所には、何もない。


ただの床。


ただの壁。


ただの窓。


なのに。


僕には、そこに黒いものが残っているように見えた。


それは闇ではなかった。


人間そのものでもない。


たぶん。


「自分には関係ない」と思った人間たちの間にできた、


見えない空白だった。


澪が隣に来る。


「直人くん」


「何?」


「今日の闇」


「うん」


「今までで一番、大きかったね」


僕は頷いた。


「でも」


澪は言った。


「一番怖かったのは、闇じゃなかったかもしれない」


僕は彼女を見る。


「何が?」


澪は、昼間の廊下を見渡した。


「みんなが普通に戻ってること」


僕も廊下を見る。


誰かが笑っている。


誰かが友達と話している。


誰かが走っている。


さっきまで誰かが傷つけられていた場所で。


何事もなかったように。


僕は思った。


闇は夜にしか現れない。


そう思っていた。


でも。


違った。


闇は、夜だから現れるのではない。


人間が自分の心を見ないときに現れる。


そして。


昼間のほうが。


ずっと多くの人間が、自分の心を見ないのかもしれない。


僕はそのことに気づいてしまった。


そして同時に。


もっと嫌なことにも気づいた。


僕自身も。


ずっと同じことをしていた。


「僕は悪くない」


そう言いながら。


僕は、自分の心を見ないでいた。


その言葉が正しいかどうかではない。


その言葉を盾にして。


僕は、何を見ないようにしていたのだろう。


その答えだけは。


まだ、分からなかった。


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