21.昼間に現れた闇
その日は、朝から少し変だった。
何が変なのかは分からない。
天気も普通だった。
先生も普通だった。
教室も、いつも通り騒がしかった。
僕も、いつも通り一人だった。
それなのに。
何となく、学校全体が落ち着かない。
そんな気がした。
理由を探そうとして。
やめた。
最近の僕は、何でも理由を探しすぎる。
誰かが笑っていれば、
「何がおかしいんだろう」
誰かが黙っていれば、
「何を隠しているんだろう」
誰かが親切にすれば、
「何のためだろう」
そうやって人間の裏側ばかりを考えていると、普通のことまで普通に見えなくなる。
だから、その日の違和感も気にしないことにした。
気にしない。
そうすればいい。
そう思っていた。
昼休みまでは。
◇
廊下が騒がしくなった。
最初は、ただの笑い声だった。
誰かがふざけている。
誰かがからかっている。
学校では珍しくない。
僕は教室から出なかった。
関わらない。
それが僕のやり方だった。
何か起きても、自分には関係ない。
そう思えばいい。
でも。
聞こえてきた声の中に、妙なものが混じっていた。
笑い声。
怒鳴り声。
そして。
助けを求めるような、小さな声。
僕は立ち上がった。
自分でも、どうして立ち上がったのか分からない。
廊下に出る。
人が集まっていた。
その中心に、一人の生徒がいた。
周囲には数人の男子生徒。
何かを言われている。
笑われている。
押されている。
その光景自体は、特別珍しいものではなかった。
だからこそ。
僕は怖くなった。
周囲には、たくさんの人がいる。
誰も止めない。
何人かは見ている。
何人かは笑っている。
何人かは、何も見ていないふりをして通り過ぎる。
そして。
僕は、その光景を見ながら思った。
――どうして誰も助けないんだろう。
その瞬間。
背筋が冷たくなった。
違う。
僕も、助けようとしていない。
僕も。
ただ見ている。
◇
そのとき。
廊下の奥が暗くなった。
昼間なのに。
窓から太陽の光が入っているのに。
そこだけ、まるで夜のように黒くなった。
僕は息を呑んだ。
「……闇?」
そう呟いた。
ありえない。
闇は夜に現れる。
少なくとも、今まではそうだった。
けれど。
そこにいた。
黒い。
大きい。
今まで見たどの闇よりも大きかった。
そして。
一人の人間から生まれているようには見えなかった。
何人もの人間の影が、重なっている。
「何、あれ……」
誰かが言った。
その声が響いた瞬間。
闇が動いた。
ゆっくりと。
廊下全体を覆うように。
手が震える。
怖かった。
でも。
それ以上に、分からなかった。
これは誰の闇なんだ。
◇
闇の中から、いくつもの声が聞こえた。
――僕には関係ない。
僕の心臓が跳ねた。
――あいつが悪い。
別の声。
――先生に言えば面倒になる。
また別の声。
――助けたら、次は自分が狙われる。
――かわいそうだけど、仕方ない。
――あの子も悪いところがある。
――見なかったことにしよう。
――誰かが助けるだろ。
僕は立ち尽くした。
一つ一つは、どこかで聞いたことのある言葉だった。
いや。
聞いたことがあるだけじゃない。
僕自身も、考えたことがある。
関わらない。
面倒だから。
自分には関係ない。
誰かが助けるだろう。
それは、人間にとって特別に悪い考えではない。
たぶん。
誰だって一度くらい思う。
誰かが困っている。
でも、自分には関係ない。
その気持ちを持っただけで、悪人になるわけではない。
問題は。
その気持ちが何人分も集まったときだった。
一人なら小さな逃げ道だったものが。
百人集まれば。
誰も助けないという現実になる。
◇
闇がさらに大きくなった。
その姿を見た瞬間。
僕は気づいた。
この闇には、一人の顔がない。
いくつもの顔がある。
怒っている顔。
怯えている顔。
笑っている顔。
見ないふりをしている顔。
そして。
何もしていない顔。
僕は、それが一番怖かった。
「……これ」
僕は呟いた。
「一人の闇じゃない」
隣に誰かが立った。
澪だった。
いつからそこにいたのか分からない。
「うん」
澪も闇を見ている。
「たくさんの人の闇が混ざってる」
僕は周囲を見た。
誰も動けない。
いや。
動こうとしない。
闇を見ている。
けれど。
誰も自分が関係しているとは思っていない。
その光景を見て。
僕は妙な気持ちになった。
闇が生まれた理由が、分かってしまったからだ。
誰か一人が悪いわけではない。
だからこそ。
誰も自分の責任だと思わない。
◇
「直人くん」
澪が言った。
「怖い?」
「……怖い」
「私も」
澪がそう言ったことに、僕は少し驚いた。
いつもなら、彼女はもっと強そうに見える。
でも。
今日は違った。
澪の手も震えていた。
「でも」
澪は言った。
「行かなきゃ」
僕は闇を見る。
あの中にいるのは。
一人の悪意ではない。
人間なら誰でも持っているかもしれない感情。
面倒だから関わりたくない。
嫌われたくない。
自分だけは巻き込まれたくない。
正しいことをしたいけれど、怖い。
誰かを助けたいけれど、自分が傷つくのは嫌だ。
そんな感情。
僕の中にもある。
「……どうして?」
「何が?」
「どうして助けるの?」
澪は僕を見る。
「目の前に困っている人がいるから」
「それだけ?」
澪は少し黙った。
それから。
「それだけじゃないと思う」
そう答えた。
「でも」
彼女は続ける。
「助けたいと思ったから、助ける」
僕はその言葉を聞いた。
以前なら、きっと簡単に正しいと思った。
今は違う。
人間の心を知りすぎたせいで。
正しい言葉ほど、疑いたくなる。
でも。
このときだけは。
それでもいいと思った。
理由が完全に純粋じゃなくても。
自分を守るためでも。
誰かに必要とされたいからでも。
助けたいと思ったなら。
助けるという行動を選ぶことはできる。
感情は選べない。
でも。
行動は選べる。
◇
その瞬間。
闇がこちらを向いた。
無数の目が開く。
その一つ一つが、僕を見ている。
――お前も見ていただけだ。
僕の動きが止まる。
――お前も何もしなかった。
息が苦しくなる。
――関係ないと思った。
その通りだった。
僕も最初は、教室に戻ろうとした。
僕も関わりたくなかった。
僕も。
「僕は悪くない」
そう言って逃げようとした。
闇が笑ったように見えた。
――じゃあ。
――誰が悪い?
答えられない。
誰か一人を指させば済む問題ではない。
あの男子生徒たちにも、何か理由があるのかもしれない。
周囲で見ている生徒にも、それぞれの恐怖がある。
止められない理由もある。
見て見ぬふりをした理由もある。
だからといって。
傷つけられている人がいるという事実が消えるわけではない。
人間は。
「事情がある」と「許される」を、簡単に混同してしまう。
僕は、それを知っていた。
だから。
今回は、誰かを理解しようとする必要はなかった。
まず。
目の前にいる人を助ければいい。
「澪」
「うん」
「行こう」
澪が頷いた。
二人で走った。
◇
闇が迫ってくる。
僕はどこからかでてきた銃を構えた。
けれど。
撃つ瞬間。
一つの声が聞こえた。
――助けて。
僕の指が止まる。
誰の声なのか分からない。
闇の声なのか。
あの生徒の声なのか。
それとも。
僕自身の声なのか。
分からない。
それでも。
僕は引き金を引いた。
闇が大きく揺れる。
黒いものが崩れていく。
その瞬間。
僕の頭の中に、いくつもの感情が流れ込んできた。
怖い。
嫌だ。
巻き込まれたくない。
でも。
本当は助けたい。
でも。
自分が傷つくのは怖い。
誰かに笑われたくない。
正義感ぶっていると思われたくない。
自分まで仲間外れにされたくない。
そんな感情。
誰一人として、完全な悪人ではなかった。
だからこそ。
僕は苦しくなった。
「……どうして」
僕は呟いた。
闇が崩れていく。
「どうして、誰も悪人じゃないのに……」
こんなことになるのか。
答えは出なかった。
◇
やがて。
闇は消えた。
昼間の光が戻る。
廊下は元の明るさになった。
そこには、何事もなかったように人がいる。
でも。
誰も、さっきの闇を覚えていない。
あの生徒も。
周囲にいた人たちも。
自分たちの心の中にあったものを知らない。
僕と澪だけが知っている。
僕は、倒れたわけではない。
何かを解決したわけでもない。
いじめていた生徒たちが、急に優しくなったわけでもない。
見ていた生徒たちが、急に勇敢になったわけでもない。
ただ。
僕は知ってしまった。
誰もが少しずつ怖がっていて。
誰もが少しずつ自分を守ろうとしていて。
その結果として。
誰かが一人になることがある。
それが。
人間というものなのかもしれない。
僕は廊下を歩いた。
そして。
ふと振り返る。
さっきまで闇があった場所には、何もない。
ただの床。
ただの壁。
ただの窓。
なのに。
僕には、そこに黒いものが残っているように見えた。
それは闇ではなかった。
人間そのものでもない。
たぶん。
「自分には関係ない」と思った人間たちの間にできた、
見えない空白だった。
澪が隣に来る。
「直人くん」
「何?」
「今日の闇」
「うん」
「今までで一番、大きかったね」
僕は頷いた。
「でも」
澪は言った。
「一番怖かったのは、闇じゃなかったかもしれない」
僕は彼女を見る。
「何が?」
澪は、昼間の廊下を見渡した。
「みんなが普通に戻ってること」
僕も廊下を見る。
誰かが笑っている。
誰かが友達と話している。
誰かが走っている。
さっきまで誰かが傷つけられていた場所で。
何事もなかったように。
僕は思った。
闇は夜にしか現れない。
そう思っていた。
でも。
違った。
闇は、夜だから現れるのではない。
人間が自分の心を見ないときに現れる。
そして。
昼間のほうが。
ずっと多くの人間が、自分の心を見ないのかもしれない。
僕はそのことに気づいてしまった。
そして同時に。
もっと嫌なことにも気づいた。
僕自身も。
ずっと同じことをしていた。
「僕は悪くない」
そう言いながら。
僕は、自分の心を見ないでいた。
その言葉が正しいかどうかではない。
その言葉を盾にして。
僕は、何を見ないようにしていたのだろう。
その答えだけは。
まだ、分からなかった。




