22.助けたくない
僕は、あの人たちを助けたくなかった。
それは、かなり正直な気持ちだった。
昨日までなら、もっと別の言葉を使っていたと思う。
「仕方がない」
「関係ない」
「自分で何とかすればいい」
そういう言葉なら、いくらでも思いついた。
けれど、今は違った。
僕は、自分が助けたくないと思っていることを、はっきり自覚していた。
だからこそ、苦しかった。
人間は、自分の気持ちを知らないほうが楽なのかもしれない。
知らなければ、正しいことをしているつもりでいられる。
知らなければ、自分の中にある嫌なものを、他人のせいにできる。
けれど、一度気づいてしまうと、それはもう消えてくれない。
僕の中には、確かにあった。
「あの人たちがどうなろうと、僕には関係ない」
そんな気持ちが。
それは、僕を無視していた人たちだった。
僕のことを笑った。
僕のことを勝手に決めつけた。
僕が何を言っても聞こうとしなかった。
僕が悪いことをしたわけでもないのに、僕をその場所に押し込めた。
だったら。
助けなくてもいいじゃないか。
そう思うのは、そんなに悪いことなのだろうか。
僕は、廊下の端に立っていた。
昼休みの学校は騒がしい。
昨日の出来事が嘘だったみたいに、いつもの声が聞こえている。
笑い声。
机を引く音。
誰かが先生を呼ぶ声。
誰も、昨日のことを覚えていない。
もちろん、僕も全部を覚えているわけではない。
闇のことを知っているのは、僕と澪だけだ。
だからこそ、余計に変な感じがした。
世界は、何も変わっていない。
変わったのは、僕のほうだった。
「直人」
後ろから声がした。
澪だった。
僕は振り返った。
けれど、廊下には何人かの生徒がいた。
澪は、それ以上何も言わなかった。
僕も何も言わない。
学校では、それが僕たちの決まりだった。
他の人がいるところでは、話さない。
理由は特にない。
ただ、そうしているほうがいいと思っていた。
澪はそのまま通り過ぎていった。
僕も少し遅れて歩き出した。
そして、人のいない階段まで来たところで、澪が立ち止まった。
「昨日のこと、考えてる?」
「……まあ」
「怖かった?」
「怖かったよ」
僕は素直に答えた。
澪が少し驚いた顔をした。
「珍しいね」
「僕だって怖いよ」
「うん」
「でも、それ以上に……」
言葉が止まった。
その続きを言いたくなかった。
澪は急かさなかった。
だから、余計に言わなければならなくなった。
「助けたくない」
澪は黙って僕を見た。
「誰を?」
「昨日の人たち」
それだけ言うと、胸の奥が少し軽くなった。
同時に、嫌な重さが増した。
自分の気持ちを口にすると、それが本物になってしまう。
「僕を傷つけた人たちなんだから」
澪は何も言わない。
僕は続けた。
「助ける理由なんてないだろ」
「……そうだね」
意外だった。
僕は澪を見る。
「否定しないの?」
「うん」
「僕が冷たい人間だって思わない?」
「思わない」
「どうして?」
澪は少し考えてから言った。
「助けたくないって思うことと、助けないことは同じじゃないから」
僕は黙った。
その言葉は、以前にも聞いたことがある気がした。
感情と行動は違う。
思うことと、することは違う。
それは簡単なことのようで、実際にはとても難しい。
僕は、誰かを嫌いになることを止められない。
腹が立つことも止められない。
傷ついたことをなかったことにもできない。
でも、自分が何をするのかは選べる。
それだけの話なのだ。
……本当に、それだけなのだろうか。
「じゃあ、助ければいいってこと?」
僕は少し皮肉っぽく言った。
「嫌いな人でも?」
「助けることと、好きになることは別だよ」
「許すこととも?」
「うん」
澪は迷わず答えた。
「助けたからって、許さなくちゃいけないわけじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、僕は少しだけ安心した。
僕は、誰かを許す準備なんてできていない。
たぶん、今だってできない。
傷つけられたことを「もういいよ」と言えるほど、僕は優しくない。
でも。
助けることまで拒否しなければならない理由もない。
そんなふうに考えれば、ほんの少しだけ動ける気がした。
そのときだった。
階段の下から、音がした。
何かを引きずるような音。
僕と澪は顔を見合わせた。
音は、少しずつ大きくなっていく。
そして、階段の踊り場に黒いものが現れた。
昨日の闇とは違っていた。
小さくない。
大きい。
けれど、昨日ほど多くの声はない。
その闇は、ただ一つの言葉を繰り返していた。
「助けたくない」
僕の背筋が冷たくなった。
「助けたくない」
また聞こえた。
「どうして僕が」
「どうして僕が、あいつらを」
僕は銃を握った。
手が重い。
「……僕の気持ちだ」
そう思った。
いや。
僕だけの気持ちではない。
人間なら、誰だって一度くらいは思うのではないか。
自分を傷つけた人間を、わざわざ助けたいなんて思えない。
それは、むしろ自然なことだ。
だからこそ、この闇は厄介だった。
悪い感情だから倒す。
そんな簡単な話ではない。
「直人」
澪が僕を見る。
「どうする?」
僕は答えられなかった。
銃を構えているのに、指が動かない。
闇の向こうに、あの人たちの顔が浮かんだ。
笑っている顔。
僕を見ている顔。
僕を無視している顔。
僕がどれだけ嫌な思いをしたのかも知らずに、普通に毎日を過ごしている顔。
その人たちを助ける。
考えるだけで、胸の奥が嫌になった。
「僕は……」
言葉が出ない。
そのとき、澪が一歩前に出た。
闇が澪へ向かって伸びる。
「澪!」
僕は反射的に澪の前に立つ。
闇が僕の目の前で揺れた。
「助けたくないんだろう?」
声がした。
「だったら、助けなければいい」
僕は黙った。
「嫌いなんだろう?」
「……そうだよ」
「許せないんだろう?」
「……そうだよ」
「じゃあ、どうして来た?」
僕は答えられなかった。
自分でも分からなかった。
ただ。
澪が危なかったから。
それだけだった。
僕は、あの人たちを助けたいわけではない。
許したいわけでもない。
仲良くなりたいわけでもない。
ただ、澪が傷つくのを見たくなかった。
それなら。
それは善意なのだろうか。
自分の大切な人だけを助けたいという、利己的な気持ちなのだろうか。
そんなことを考えているうちに、澪が言った。
「直人」
「何?」
「あなたは、あの子たちを助けたくないんじゃない」
僕は振り返った。
澪はまっすぐ僕を見ていた。
「助けたら、自分が負けたような気がするんでしょう」
胸を殴られたような気がした。
「……違う」
「うん」
「僕は負けてない」
「うん」
「僕は悪くない」
「うん」
澪は否定しなかった。
だから、僕は余計に苦しくなった。
「僕は悪くないんだから」
何度も言ってきた言葉。
僕を守ってくれた言葉。
僕が壊れないために必要だった言葉。
でも今は、その言葉が少しだけ違って聞こえた。
「それなら」
澪が言った。
「助けなくてもいい」
僕は目を見開いた。
「……え?」
「助けたくないなら、無理に助けなくていい」
澪は静かに言った。
「でも」
そこで、少しだけ笑った。
「私を助けて」
僕は何も言えなかった。
「私は、あなたに助けてほしい」
その言葉は、不思議だった。
正しいから助けるわけじゃない。
悪い人を助けるから善人になるわけでもない。
許すためでもない。
ただ、目の前にいる澪が、僕を必要としている。
それだけだった。
僕は銃を握り直した。
「……分かった」
闇が大きく揺れた。
「僕は、あの人たちを許さない」
一歩、前へ出る。
「まだ嫌いだ」
もう一歩。
「だからって、澪まで巻き込ませるつもりはない」
銃を構える。
「それだけだ」
引き金を引いた。
黒い闇が、音もなく崩れていく。
消えていく直前。
その闇の中から、最後に一つだけ言葉が聞こえた。
――それでいいのか。
僕は答えなかった。
それが正しいのかなんて、分からない。
誰かを助けることが正しい。
誰かを嫌うことが間違っている。
そんな単純な世界なら、こんなに悩む必要なんてない。
僕は、人を好きになれないことがある。
許せないこともある。
助けたくないと思うこともある。
それでも、誰かを助けることはできる。
その矛盾を抱えたままでも、人は行動できる。
たぶん。
それが、人間というものなのだ。
「ありがとう」
澪が言った。
僕は少しだけ笑った。
「何が?」
「助けてくれたから」
「……別に」
僕は前を向いた。
「澪だから助けただけ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
澪も何も言わなかった。
ただ、隣に立っていた。
その距離が、今日はいつもより少しだけ近く感じた。
僕はまだ、あの人たちを許していない。
これからも、すぐには許せないと思う。
もしかしたら、ずっと許せないかもしれない。
それでもいい。
誰かを許せない自分まで、無理に善人にする必要はない。
ただ。
自分の中にある「助けたくない」という気持ちを知ったまま、それでも何をするのか。
その選択だけは、自分で決められる。
そう思った。
けれど、その夜。
僕は一つだけ、気づいてしまった。
僕が澪を助けたのは、本当に澪のためだったのだろうか。
それとも。
僕を必要としてくれる人を、失いたくなかっただけなのだろうか。




