23.心の闇があらわれる
その日の夜、僕は学校に来ていた。
いつものように、誰もいない校舎を歩く。
昼間なら人の声で満ちている廊下も、今は静かだった。
窓の外には、街の明かりが見える。
教室の窓に映る自分の姿は、昼間より少しだけ大人びて見えた。
僕は自分の顔を見ながら考えていた。
僕は、悪くない。
何度も思ってきた。
僕がいじめられたのは、僕が悪かったからではない。
僕が嫌われるようなことをしたからでもない。
ただ、隣の席になった相手が悪かった。
それだけだった。
少なくとも、最初はそうだった。
だから僕は、自分を責めなかった。
責める必要がなかった。
むしろ、自分を責めることは、相手のしたことを正当化するような気がした。
だから僕は言い続けた。
僕は悪くない。
僕は悪いことをしていない。
それは、僕を守るための言葉だった。
けれど。
最近になって、その言葉が少しだけ怖くなった。
「悪くない」と言い続けることで、僕は何を見ないようにしていたのだろう。
廊下の先で、何かが動いた。
僕は足を止めた。
暗闇の中に、黒い影が立っている。
今まで見た闇とは違った。
大きさも。
形も。
気配も。
何より。
その闇を見た瞬間、僕はそれが何なのか分かってしまった。
「……僕?」
闇は答えない。
けれど、僕と同じように立っていた。
同じ背丈。
同じ姿勢。
顔だけが、真っ黒だった。
僕は銃を握った。
いつもなら、闇を見れば戦う。
それが僕たちのルールだった。
けれど。
撃てなかった。
「お前は、誰?」
闇が顔を上げた。
その瞬間、声がした。
僕自身の声だった。
「僕は悪くない」
心臓が跳ねた。
「僕は悪いことをしていない」
やめろ。
「僕は何もしていない」
やめろ。
「だから、僕には関係ない」
僕は耳を塞いだ。
けれど、声は消えなかった。
「僕は悪くない」
それは、今まで何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
僕は、その言葉を信じていた。
いや。
信じたかった。
闇が一歩近づいてくる。
「僕は悪くない」
もう一歩。
「僕は悪くない」
僕は銃を構えた。
「黙れ」
闇は止まらない。
「僕は悪くない」
「黙れ!」
僕は引き金を引いた。
弾丸が闇を貫く。
しかし、闇は消えなかった。
むしろ、黒い身体の中から何かが溢れ出した。
声だった。
たくさんの声。
怒り。
悔しさ。
寂しさ。
羨ましさ。
恐怖。
そして――。
「誰かに分かってほしかった」
僕は動けなくなった。
闇の中に、昔の自分がいた。
小学生の頃の僕。
みんなの前で話している僕。
笑っている僕。
誰かに頼られている僕。
その隣に、今の僕がいる。
教室の端に座っている僕。
誰にも話しかけられない僕。
何もしていないのに、最初から決めつけられた僕。
二つの僕が、同時に存在していた。
「僕は……」
言葉が出ない。
闇が言った。
「本当は、誰かに助けてほしかった」
僕は首を振った。
「違う」
「誰かに気づいてほしかった」
「違う」
「一人でも平気だって、言い続けたかった」
「違う!」
声が大きくなった。
「僕は一人でいい!」
闇は笑った。
笑ったように見えただけかもしれない。
「じゃあ、どうして澪が来てくれたとき、嬉しかった?」
僕は答えられなかった。
「どうして、夜の学校で僕を必要としてくれることが嬉しかった?」
「……」
「どうして、澪に『助けてほしい』と言われたとき、あんなに嬉しかった?」
僕は銃を下ろした。
その瞬間。
自分の中で、何かが崩れた。
僕は、ずっと「僕は悪くない」と言っていた。
でも。
それは本当に、ただの事実だったのだろうか。
もしかすると。
僕は「僕は悪くない」と言うことで、
「だから僕を責めないで」
「だから僕を嫌わないで」
「だから僕を見捨てないで」
そう言っていたのではないか。
僕は、自分でも気づかないうちに、誰かに助けを求めていた。
それを認めたくなかった。
助けを求めることは、負けることのように思えたから。
誰かを必要とすることは、その人に自分の弱さを渡すことのように思えたから。
だから僕は、一人でいいと言った。
僕は悪くないと言った。
僕は何も必要としていないと言った。
そうやって、自分を守った。
「……じゃあ」
僕は闇を見る。
「僕は悪い人間なのか?」
闇は答えない。
その代わり、僕の胸の奥から別の声がした。
――違う。
僕は悪い人間ではない。
でも。
――善い人間でもない。
その答えは、思っていたよりずっと自然だった。
人間は、善人か悪人か。
そんな二つに分けられるものではない。
誰かを傷つけたいと思うことがある。
誰かを助けたいと思うこともある。
誰かを嫌いながら、その人が困っていると手を差し出すこともある。
優しくしながら、自分が必要とされたいと思うこともある。
正しいことを言いながら、自分が正しいと思われたいこともある。
そして。
傷つけられたから、相手を許したくないと思うこともある。
それらは、全部同じ人間の中に存在する。
僕の中にも。
「……僕にも、闇があったんだ」
言葉にした瞬間、不思議なほど静かになった。
闇は僕を見ていた。
怒っているわけでもない。
笑っているわけでもない。
ただ、そこにいた。
僕は銃を見つめた。
この武器は、今まで僕を守ってくれた。
人と距離を取るための武器。
近づかれないための武器。
自分の弱さを見せないための武器。
でも。
もし僕が、自分の闇まで撃ち抜いてしまったら。
それは、本当に僕を守ることになるのだろうか。
僕は銃を下ろした。
「お前を消したら、僕じゃなくなる気がする」
闇は動かない。
「だから……」
僕は一歩近づいた。
「今は、消さない」
その瞬間、闇の姿が少しずつ変わっていった。
黒い塊だったものが、薄くなる。
やがて、人の形もなくなった。
最後に残ったのは、僕の声だった。
「僕は悪くない」
そして。
その声は、今までとは違う意味に聞こえた。
誰かを責めるための言葉ではなかった。
自分を守るための言葉でもなかった。
ただの事実として。
僕は悪くない。
でも。
僕だけが正しいわけでもない。
その二つは、同時に存在できる。
それが分かっただけで、胸の奥にあった重さが少しだけ変わった。
「直人」
後ろから声がした。
振り返る。
澪が立っていた。
僕は驚かなかった。
たぶん、来る気がしていた。
「見てた?」
「少しだけ」
「……最初から?」
「ううん」
澪は首を振った。
「最後のほうだけ」
僕は少し安心した。
全部を見られていたら、きっと恥ずかしかった。
「僕にも、闇があった」
「うん」
「知ってた?」
「なんとなく」
「ずるいな」
「そう?」
「僕より僕のこと知ってるじゃん」
澪は少し笑った。
「でも、私も自分のこと全部分かってるわけじゃないよ」
その言葉を聞いて、僕も笑った。
人間は、自分の心を全部知ることなんてできない。
他人の心も。
自分の心も。
だから僕たちは、何度でも間違える。
何度でも誰かを誤解する。
そして、何度でも自分を誤解する。
僕は窓の外を見た。
夜の街は静かだった。
「ねえ、澪」
「なに?」
「僕が悪くないって言ったら、どう思う?」
澪は少し考えた。
「そうだと思うよ」
「……即答なんだ」
「だって、直人が全部悪いわけじゃないから」
「でも、僕にも嫌なところがある」
「うん」
「それでも?」
「うん」
澪は笑った。
「嫌なところがあることと、悪い人になることは、同じじゃないから」
僕は黙った。
その言葉を、今度はちゃんと受け取れた気がした。
僕は悪くない。
けれど。
僕にも闇がある。
その二つは、矛盾しない。
僕は初めて、それを矛盾だと思わなくなった。
窓に映る自分を見る。
そこにいたのは、特別な人間ではなかった。
善人でも。
悪人でもない。
ただの中学生だった。
傷ついて。
怒って。
意地を張って。
誰かに助けてほしいと思いながら、それを認めたくなくて。
それでも、ときどき誰かを助けたいと思う。
そんな、どこにでもいる人間だった。
僕は自分の姿から目をそらさなかった。
もう、自分の中に闇がないとは言えない。
でも。
闇があるからといって、自分を嫌いになる必要もない。
そのことだけは、少しだけ分かった。
そして僕は思った。
たぶん、本当に怖いのは闇そのものではない。
自分の中に闇があることを、最後まで認めないことなのだ。
その夜。
僕は初めて、自分の心から逃げなかった。




