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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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24/24

24.悩め若き少年

翌朝。


僕は、いつもより少しだけ早く学校へ来た。


理由はなかった。


早起きしたから。


それだけだった。


昨日、自分の中にある闇を見た。


それだけなのに、世界が少し違って見えた。


教室も。


廊下も。


窓から見える校庭も。


何も変わっていない。


変わったのは、たぶん僕のほうだ。


教室に入る。


誰も僕を見ない。


誰も僕に話しかけない。


以前なら、そのことに腹を立てていた。


どうして僕だけ。


どうして誰も。


そう思っていた。


今も、そう思わないわけではない。


寂しい。


腹が立つ。


悔しい。


そんな気持ちは、昨日の夜に消えたわけではない。


むしろ。


自分の中にあることを知ったから、前よりはっきり感じられるようになった。


僕は席に座った。


机の上に教科書を置く。


窓の外を見る。


朝の光が校庭を照らしている。


普通の朝だった。


普通すぎる朝だった。


だからこそ、少しだけ安心した。


僕は特別な人間になったわけじゃない。


闇を知ったからといって、人の心が全部分かるようになったわけでもない。


むしろ逆だった。


分からないことが増えた。


人は、どうして優しくするのか。


どうして誰かを嫌うのか。


どうして助けたいと思うのか。


どうして助けたくないと思うのか。


どうして寂しいのに、一人でいたいと言うのか。


どうして必要とされたいのに、必要とされることを怖がるのか。


僕には、まだ分からない。


たぶん。


これからも全部は分からない。


昼休み。


僕は一人で校舎の階段を上った。


屋上へ続く扉を開ける。


風が吹いた。


空が広かった。


「やっぱりここにいた」


声がした。


振り返ると、澪がいた。


「……どうして分かった?」


「なんとなく」


「便利だな、その『なんとなく』」


「直人もよく使うじゃん」


そう言って、澪は笑った。


僕たちは少し離れた場所に座った。


昼間の屋上は、夜とは違う。


夜なら隠れているものが、昼間は全部見える。


空も。


校舎も。


街も。


そして、自分自身も。


「昨日さ」


澪が言った。


「うん」


「少しは眠れた?」


「まあまあ」


「悩んだ?」


「かなり」


「そっか」


澪は満足そうに頷いた。


「じゃあ、よかった」


「何が?」


「悩め若き少年」


僕は思わず笑った。


「いや、澪も僕と同学年だろ」


「そうだった」


澪も笑った。


風が吹いた。


しばらく、二人とも何も話さなかった。


沈黙は、不思議と嫌ではなかった。


昔の僕なら、沈黙が怖かった。


誰かといるなら、何か話さなければならないと思っていた。


沈黙は、嫌われた証拠のように感じていた。


でも今は違う。


何も話さなくても、隣にいることはできる。


それだけのことが、少しだけ嬉しかった。


「ねえ、直人」


「何?」


「闇って、なくなるのかな」


僕は空を見上げた。


「分からない」


「そっか」


「たぶん、なくならないんじゃないかな」


澪は黙って聞いている。


「嫉妬とか、怒りとか、寂しさとか。そういうのって、なくそうと思ってなくせるものじゃないだろ」


「うん」


「だから、闇がなくなることが正しいとは思わない」


僕は少し考えてから続けた。


「自分の中にあるものを知って、それでもどうするかを決めるしかないんじゃないかな」


澪は笑った。


「ずいぶん哲学者になったね」


「誰のせいだよ」


「私?」


「たぶん」


また風が吹いた。


僕はフェンスの向こうを見る。


街では、たくさんの人が動いている。


誰かが笑って。


誰かが怒って。


誰かが泣いて。


誰かが誰かを好きになって。


誰かが誰かを嫌って。


その一つ一つの心の中に、僕たちには見えないものがある。


たぶん。


僕が知らないだけで。


今日もどこかに闇はいる。


それを考えると、少し怖い。


でも。


以前ほど、人間が嫌いではなくなっていた。


人間の心が綺麗だからではない。


むしろ。


綺麗じゃないことを知ったからだ。


誰だって、自分でも嫌になるようなことを考える。


誰だって、誰にも言えない感情を持っている。


誰だって、自分を守るために嘘をつく。


それでも。


人は誰かに優しくできる。


誰かを助けることもできる。


そして、また間違える。


その繰り返しなのだろう。


僕もそうだ。


澪もそうだ。


たぶん、あの人たちもそうだ。


だから僕は、これからもあの人たちを好きになれないかもしれない。


許せないかもしれない。


それでも。


「悪い人間だから、何をしてもいい」


そんなふうには、もう思えない気がした。


それは、相手のためではない。


自分のためだった。


誰かの闇を理由にして、その人間全部を決めつけてしまったら。


僕自身もまた、自分の闇を理由にして、自分を決めつけることになる。


それだけは嫌だった。


「澪」


「なに?」


「ありがとう」


澪は少し首を傾げた。


「何が?」


僕は空を見た。


「……分からない」


澪は笑った。


「何それ」


「僕にも分からない」


「じゃあ、ありがとうって言いたかったんだね」


「たぶん」


「そっか」


それ以上、澪は聞かなかった。


それが、ありがたかった。


僕は空を見上げた。


雲がゆっくり流れている。


僕の中には、まだ闇がある。


これからもきっと、何度も現れるだろう。


怒ることもある。


妬むこともある。


誰かを嫌いになることもある。


誰かに必要とされたいと思うこともある。


一人になりたいと思うこともある。


誰かに助けてほしいと思うこともある。


その全部を、無理に消す必要はない。


ただ。


それを自分の心の中に見つけたとき。


「そんなものは僕にはない」と目を背けるのではなく。


「これも僕の一部なんだ」と、見つめてみる。


それだけで。


もしかしたら、人は少しだけ違う選択をできるのかもしれない。


僕はまだ、答えを知らない。


この先も、たぶん悩み続ける。


それでいい。


悩むということは。


自分の心から目を逸らさないということだから。


「直人」


「ん?」


「帰ろうか」


「うん」


僕たちは立ち上がった。


屋上の扉へ向かう。


僕は一度だけ振り返った。


何もない。


ただ、青い空が広がっている。


けれど。


その空のどこかに。


誰にも見えない闇があるような気がした。


僕はもう、それを怖いとは思わなかった。


闇があることと。


闇に支配されることは。


同じではない。


僕たちは、まだ何も解決していない。


僕も。


澪も。


この学校も。


きっと、これからも誰かが誰かを傷つける。


誰かが誰かを助ける。


その中には、優しさも。


悪意も。


寂しさも。


欲望も。


きっと全部、混ざっている。


だから僕は、これからも悩むのだろう。


自分は正しいのか。


間違っているのか。


誰かを助けるべきなのか。


助けないべきなのか。


誰かを許すべきなのか。


許さなくてもいいのか。


その答えは、たぶん一つじゃない。


そして。


答えが一つじゃないからこそ。


人間は、自分で選ばなければならない。


僕は澪と並んで歩いた。


昼間の学校では、僕たちは他人だった。


誰も知らない。


僕たちだけが知っている。


夜の学校で見たものも。


人の心の中にあるものも。


そして。


自分自身の中にあったものも。


階段を下りる。


教室へ戻る。


また、いつもの学校生活が始まる。


僕はもう一度、自分に言った。


僕は悪くない。


そして今度は、その言葉の後ろに、もう一つだけ続けた。


――でも、僕にも闇はある。


それでいい。


その日の夜。


学校のどこかで、誰にも知られないまま。


またひとつ、闇があらわれた。


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