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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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05.闇というもの

 闇という言葉について、僕は少し考えるようになっていた。


 夜だから闇がある。


 そういう単純な話ではない。


 昼間だって、教室には闇がある。


 笑い声の中にもある。


 先生の「仲良くしなさい」という言葉の裏側にもある。


 そしてたぶん、僕の中にも。


 それを認めるのは、少し腹が立った。


 僕は悪いことをしていない。


 その考えだけは、まだ変わっていなかった。


 ただ、それと、


 僕の中に何も悪いものがない。


 ということは、どうやら同じ意味ではないらしい。


「直人」


 放課後、昇降口で澪が声をかけてきた。


「何?」


「今日、夜どうする?」


「どうするって?」


「闇」


「ああ」


 僕は少し考えてから言った。


「倒す」


「うん」


「それだけ?」


「それだけ」


 澪は平然としている。


 僕は、その平然さが少し気になった。


「澪ってさ」


「なに?」


「闇を倒すの、怖くないの?」


「怖いよ」


「嘘だろ」


「なんで?」


「だって、いつも普通に銃持ってるじゃん」


「銃を持ってる人が怖がっちゃいけないって法律はないよ」


「ないけど……」


 僕が言葉に詰まると、澪は小さく笑った。


「怖いから、倒すんだよ」


 その言葉は、妙に印象に残った。


 怖くないから戦うのではない。


 怖いから戦う。


 僕には、少し理解できなかった。


 僕は今まで、怖くないふりをすることで、自分を守ってきた。


 嫌なことを言われても平気な顔をする。


 無視されても気にしていない顔をする。


 誰かに「大丈夫?」と聞かれたら、「大丈夫」と答える。


 そうしていれば、本当に大丈夫になれる気がした。


 でも澪は逆だった。


 怖いことを、怖いと言う。


 それでも進む。


「変なの」


「直人に言われたくない」


「なんでだよ」


「夜の学校に毎日来る中学生も、十分変だから」


「それは……」


 反論できなかった。


 僕たちは二人で校門を出た。


 夕方の街は、まだ人が多かった。


 自転車が走っている。


 スーパーの前には買い物袋を持った人がいる。


 犬を連れて歩いている人もいる。


 世界は普通だった。


 僕たちだけが、夜になると学校へ戻る。


 それが少しだけおかしかった。


「ねえ、澪」


「ん?」


「闇って、結局なんなの?」


 澪はすぐには答えなかった。


 しばらく歩いてから、


「人の心」


 と言った。


「それは知ってる」


「じゃあ、もう知ってるじゃん」


「そういう意味じゃない」


 僕は足を止めた。


「人の心って、そんな簡単に怪物になるの?」


 澪も立ち止まった。


「ならないよ」


「じゃあ、なんで闇になる?」


「……たぶん」


 澪は空を見た。


「自分でも見たくないものが、たまっていくからじゃないかな」


「見たくないもの?」


「嫉妬とか、怒りとか、寂しさとか。誰かを嫌いだと思う気持ちとか。

 自分だけ得をしたいと思う気持ちとか」


「普通じゃん」


「うん」


「誰でも持ってる」


「うん」


 澪は頷いた。


「だから、闇は誰にでもある」


 僕は黙った。


 誰にでもある。


 その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 同時に、少しだけ重くなった。


 僕だけではない。


 それなら安心できる。


 でも。


 僕だけではないということは、僕も例外ではないということだ。


「じゃあ、闇を持ってる人は悪い人なの?」


「違うよ」


「なんで?」


「怒っただけで悪い人にはならないでしょ」


「でも、誰かを嫌いになる」


「それも悪いこと?」


「……」


 答えられなかった。


 僕は誰かを嫌いになったことがある。


 今もいる。


 むしろ、かなりいる。


 あいつらなんて嫌いだ。


 そう思うことは、僕にとって自然だった。


 僕は悪いことをされている。


 だから嫌いになる。


 それは当然だ。


 罪には相対的に罰がある。


 僕はそう考えている。


 誰かが僕を傷つけたなら、その人を嫌う理由が僕にはある。


 それは間違っていない。


 ……たぶん。


「じゃあさ」


 僕は言った。


「人を嫌いになるのは悪くないとして、どこから悪くなるの?」


 澪は少し考えた。


「わからない」


「え?」


「私にもわからない」


「澪でも?」


「私だからわからないのかも」


 澪は笑った。


 その笑顔は、昼間に見るものと同じだった。


 けれど、その奥に何かあるように見えた。


「でも」


 澪は続けた。


「私は、自分の中にそういう気持ちがあることを忘れないようにしてる」


「どうして?」


「忘れると、たぶん自分は優しい人間だって思いすぎちゃうから」


 その言葉に、僕は少し驚いた。


「澪って、自分が優しいと思ってるだろ」


「思ってるよ」


「じゃあ矛盾してない?」


「してるね」


 あっさり言った。


「私、優しいよ」


「自分で言うなよ」


「でも、優しくないところもある」


「どんな?」


「秘密」


「なんだそれ」


「直人にもあるでしょ?」


「ない」


「あるよ」


「ない」


「ある」


「ない」


「ある」


「……しつこい」


「直人もね」


 澪は笑った。


 僕は笑えなかった。


 なぜか、その会話が胸に引っかかった。


 僕には闇がある。


 澪はそう言っている。


 でも、僕は認めたくなかった。


 僕の闇は、あいつらへの怒りだ。


 でも、それは正当な怒りだ。


 だったら、それは闇じゃない。


 そう考えればいい。


 そう考えれば、何も問題はない。


 その日の夜。


 僕たちは三階の音楽室で闇を見つけた。


 それは、これまで見たものとは少し違った。


 ピアノの前に座っていた。


 鍵盤に触れている。


 けれど、音は出ていない。


 黒い指が鍵盤の上を何度も往復しているだけだった。


「これ、何?」


「わからない」


 澪が銃を構える。


 僕も武器を出した。


 闇がこちらを向いた。


 顔はない。


 それでも、僕を見ていることだけはわかった。


 そして。


 僕の頭の中に、知らない感情が流れ込んできた。


 ――聞いてほしい。


 ――気づいてほしい。


 ――私だってできる。


 ――どうしてあの子ばかり。


 ――私だって。


 僕は息を止めた。


「……また嫉妬?」


「たぶん」


 澪が答える。


 でも、今回は少し違った。


 嫉妬の下に、別のものがある。


 寂しさ。


 認めてほしいという気持ち。


 そして、それを認めるのが恥ずかしいという気持ち。


 だから、


 「あの人が嫌い」


 という形に変わっている。


 僕は思った。


 人間は、感情をそのまま持てないのかもしれない。


 寂しいから怒る。


 羨ましいから嫌う。


 怖いから強がる。


 助けてほしいから、一人でいいと言う。


 そう考えると、昼間の学校で見ていた人間たちの言葉が、少しだけ違って聞こえてくる。


「直人」


 澪の声がした。


「今だよ」


「わかってる」


 二人で走った。


 闇が大きく腕を振り上げる。


 僕は避けた。


 澪が反対側から攻撃する。


 闇が揺らぐ。


 僕は一歩踏み込んだ。


 そして、銃を撃った。


 闇は音もなく崩れた。


 黒いものが空中へ散っていく。


 その瞬間。


 また、誰かの感情が見えた。


 教室の隅で、一人で練習している少女。


 何度やっても上手くできない。


 その向こうでは、別の少女が簡単にできている。


 悔しい。


 羨ましい。


 消えてほしい。


 でも、本当は。


 ――私も褒めてほしい。


 それだけだった。


 僕は目を閉じた。


 その感情が、あまりにも普通だったから。


 僕はその少女を知っている。


 昼間、何度か見たことがある。


 いつも明るくて、友達も多い。


 僕とは違う人間だと思っていた。


 でも。


 あの子も同じだった。


 羨ましい。


 寂しい。


 認めてほしい。


 誰かに見つけてほしい。


 そんな感情を抱えていた。


「ねえ」


 僕は言った。


「澪」


「うん」


「これ、本人に教えたらどうなると思う?」


「何を?」


「お前、本当は寂しいんだって」


 澪は黙った。


「お前、本当はあの子が羨ましいんだって」


 沈黙。


「言われたら、嫌じゃない?」


「……嫌だと思う」


「じゃあ、どうすればいい?」


 澪は少し考えてから言った。


「何もしないほうがいいこともあると思う」


「でも、原因を知ってるのに?」


「原因を知ってることと、原因を解決できることは違うよ」


 その言葉は、僕の中に深く残った。


 僕たちは闇を倒す。


 人の心を見る。


 でも、それだけだ。


 その人の人生を変える権利まで、僕たちにあるわけではない。


 むしろ。


 心の中を知られてしまうことほど、人間にとって怖いことはないのかもしれない。


「……じゃあ、闇って何のために倒してるの?」


 僕が聞くと、澪は答えなかった。


 窓の外を見る。


 夜の街が広がっている。


 たくさんの家。


 たくさんの人。


 その一つ一つに、僕には見えない心がある。


「わからない」


 澪が言った。


「でも、闇を放っておくと、人が苦しくなる」


「倒したら?」


「少しだけ、楽になるのかもしれない」


「本人は知らないのに?」


「うん」


「じゃあ、僕たちは何をしてるんだろう」


 澪はしばらく黙っていた。


 そして、少しだけ笑った。


「たぶん、掃除」


「掃除?」


「心の掃除」


「雑だな」


「でも、小説のタイトルにもできそう」


「絶対売れない」


「じゃあ直人が考えて」


「嫌だよ」


 二人で笑った。


 くだらない会話だった。


 なのに。


 僕はその夜、なかなか眠れなかった。


 闇とは何なのか。


 悪意なのか。


 悲しみなのか。


 嫉妬なのか。


 それとも、人間が自分自身に隠している感情のことなのか。


 もしそうなら。


 僕の中にも、きっとある。


 僕が見ないようにしているものが。


 でも僕は、それを闇とは呼びたくなかった。


 だって。


 それを闇と呼んでしまったら。


 僕は、自分が正しいと思ってきたことまで、疑わなければならなくなる。


 そして僕はまだ。


 自分だけは正しいと、信じていたかった。


 その夜。


 学校のどこかで、誰にも知られないまま。


 ひとつの闇が消えた。


 けれど僕の中では。


 まだ名前のついていない何かが、少しずつ形を持ちはじめていた。


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