04.知ってしまったこと
翌朝、僕は少しだけ早く学校へ着いた。
理由はなかった。
ただ、早く目が覚めた。
朝食を食べているときから、昨日のことが頭から離れなかった。
図書室。
黒い闇。
白石さん。
そして、闇を倒したあとに見えた誰かの心。
僕は朝から、知らない誰かのことを考えていた。
その誰かが誰なのか、僕には分からない。
顔も知らない。
名前も知らない。
何組なのかも知らない。
それなのに、その人が誰かを羨ましいと思っていたことだけは知っている。
不思議な感覚だった。
知らない人間なのに、その人の秘密だけを知っている。
普通なら、仲良くなってから少しずつ知っていくものなのだろう。
好きな食べ物。
好きな音楽。
家族のこと。
将来の夢。
そういう表面的なことから始まって、時間をかけて、その人が本当に考えていることを知っていく。
でも僕は違う。
名前より先に、その人の醜い部分を知ってしまう。
その人が誰かに嫉妬していること。
誰にも言えない悪口を心の中で言っていること。
そんなことだけを知っている。
もしこれが「人を知る」ということなら、人間関係というものは、ずいぶん変なものだと思う。
「おはよう」
教室に入ると、誰かが言った。
「おはよう」
僕も返した。
それだけだった。
僕たちは、お互いのことを何も知らない。
僕はその子が昨日何を食べたのか知らない。
何時に寝たのかも知らない。
家で何があったのかも知らない。
好きな人がいるのかも知らない。
でも、もし昨夜の闇の中にいた人だったら。
僕は、その人の心の奥を知っている。
そう考えると、妙におかしかった。
そして少しだけ、優越感があった。
その感情に気づいた瞬間、僕は自分自身に腹が立った。
人の心を知っていることが、そんなに偉いことなのか。
そもそも、本人の許可なく知っているだけだ。
盗んだのと変わらない。
そう思った。
でも。
盗んだものは返せる。
人の心は返せない。
僕はそのことを、授業中ずっと考えていた。
五時間目が終わった頃。
廊下を歩いていると、前方に一人の女子がいた。
昨日、闇の中で見た映像に出てきた女子だった。
たぶん。
顔ははっきり見えなかった。
でも、机の上のテスト。
九十八点。
その隣の百点。
そして、あの感情。
――どうして私じゃないの。
僕は足を止めた。
女子も僕に気づいた。
一瞬だけ目が合った。
僕は目を逸らした。
それから、何となく後ろを振り返った。
女子は友達と話している。
笑っている。
とても楽しそうだった。
僕は、急に気持ちが悪くなった。
笑っている。
けれど、僕は知っている。
この人は、本当は誰かを羨ましいと思っている。
僕だけが知っている。
その事実が、僕と彼女の間に妙な壁を作った。
いや。
壁を作ったのは僕だった。
彼女は何も知らない。
僕だけが知っている。
それなのに僕は、彼女を少し違う人間に見てしまった。
昨日までは、ただのクラスメイトですらない女子だった。
今は違う。
僕は彼女の中にある「闇」を知っている。
それだけで、彼女を見る目が変わった。
そのとき、僕は初めて気づいた。
闇は人間を傷つける。
でも。
闇を知ることも、人間を変えてしまう。
その日の放課後。
僕は一人で廊下を歩いていた。
すると、前から白石さんがやってきた。
「朝倉くん」
「白石さん」
「今日も来る?」
「もちろん」
自分でも驚くほど、即答だった。
白石さんは少し笑った。
「楽しみ?」
「……まあ」
「私は楽しみ」
「闇退治が?」
「それもある」
「それも?」
「朝倉くんと話すのが」
僕は黙った。
こういうことを普通に言えるのが、彼女のすごいところだと思う。
「じゃあ、夜ね」
「うん」
白石さんは手を振って、自分の教室へ戻っていった。
僕はその後ろ姿を見ながら思った。
僕は昨日まで、学校へ行くのが嫌だった。
でも今は、夜が楽しみだった。
学校が二つあるみたいだった。
昼の学校。
人間が僕を勝手に判断する場所。
夜の学校。
人間が僕を判断しない場所。
そして僕は、夜の学校のほうが好きになっていた。
それが少し怖かった。
夜の学校には、白石さんがいる。
そして、闇がいる。
闇を倒せば、人間の心が見える。
人間の心が見えるから、僕は人間を理解できる。
でも、人間を理解すればするほど、僕は人間から遠ざかっていく。
矛盾している。
僕はその矛盾を、まだ楽しんでいた。
夜。
僕たちは体育館へ向かった。
「今日はここ?」
「うん」
「広いね」
「闇も広いよ」
「広いって何?」
「大きいってこと」
「最初からそう言って」
体育館の中央。
暗闇の中に、それはいた。
昨日までより大きい。
腕が二本。
足が二本。
頭らしきもの。
けれど顔はない。
僕は銃を構えた。
「今日の闇は、なんだろう」
「分からない」
「倒したら分かる?」
「たぶん」
「便利だね」
「便利って言わないの」
白石さんが笑った。
闇がこちらを向いた。
僕は引き金を引いた。
白石さんも撃つ。
闇が走ってくる。
僕は避けた。
床が大きく揺れた。
「危ない!」
白石さんの声。
僕は転がった。
闇の腕が、僕のいた場所を叩いた。
「これ、今までで一番強くない?」
「そうかも」
「笑ってる場合?」
「朝倉くんが無事だから」
「理由がよく分からない!」
二人で攻撃を続ける。
やがて闇が崩れた。
黒い霧が体育館いっぱいに広がる。
そして、また。
僕の頭の中に誰かの感情が入ってきた。
今度は、昨日とは違った。
――怖い。
――嫌われたくない。
――一人になりたくない。
――でも、あの子とは一緒にいたくない。
僕は目を開いた。
「……これ」
白石さんを見る。
「何だった?」
「分からない」
僕は少し考えた。
「誰かを嫌ってる」
「うん」
「でも、一人になるのが怖い」
「うん」
「だから、その人のことを嫌いだと言えない」
白石さんは黙っていた。
僕は思った。
人間は、本当に面倒くさい。
嫌いなら嫌いと言えばいい。
好きなら好きと言えばいい。
友達になりたいなら、そう言えばいい。
そんなに簡単ではないことくらい、僕だって分かっている。
でも。
分かってしまうと、余計に面倒だった。
「明日、この人を探す?」
僕が聞いた。
「どうして?」
「困ってるんじゃない?」
「たぶんね」
「だったら助けたほうがいい」
白石さんが僕を見た。
「どうしたの?」
「朝倉くんが、自分から人を助けたいって言うの、珍しいなと思って」
僕は少し考えた。
「……そうかな」
「うん」
「闇のことを知ったから」
「それだけ?」
「それだけ」
白石さんは、それ以上何も言わなかった。
僕たちは体育館を出た。
帰り道。
僕は考えていた。
誰かの闇を知った。
その人を助けたいと思った。
それは善意なのだろうか。
それとも。
ただ、僕だけが秘密を知っているという優越感なのだろうか。
その違いが、僕には分からなかった。
そして、分からないままでいることが、少し心地よかった。
人間は、自分の善意でさえ疑わなければならない生き物なのかもしれない。
それでも翌日。
僕は、その女子生徒を探した。
彼女が誰なのか。
何を考えているのか。
誰を嫌っているのか。
僕は、知りたかった。
――知りたい。
その気持ちは、最初は小さかった。
でも、今思えば。
それが始まりだった。
闇を倒すことよりも。
闇の中にいる人間を知ることのほうが、僕には面白くなっていた。
そして、人間の心というものは。
一度覗き込んでしまうと。
なかなか目を逸らせないものだった。




