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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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03.誰も僕を知らない

 学校には、知らない人間がたくさんいる。


 中学生になって、それを知った。


 小学校の頃は、知らない人間なんてほとんどいなかった。


 同じ学年なら、だいたい名前を知っていた。


 誰が足が速いとか、誰が給食を残すとか、誰が先生に怒られやすいとか。


 誰が誰を好きだとか。


 誰と誰が喧嘩したとか。


 誰の家に犬がいるとか。


 そんなことまで知っていた。


 人間関係というものは、狭い世界では勝手に人間の身体へまとわりついてくる。


 僕は、それが嫌ではなかった。


 むしろ好きだった。


 誰かのことを知ることも。


 誰かに自分のことを知ってもらうことも。


 だから、小学校の卒業式の日。


 僕は泣かなかった。


 中学校に行っても、また同じような毎日が始まると思っていたからだ。


 しかし、中学校という場所は、僕が思っていたよりずっと広かった。


 教室が増えた。


 先生が増えた。


 生徒も増えた。


 そして、人間同士の距離も増えた。


 僕のことを知らない人が増えた。


 僕のことを知らない人が、僕について話すようになった。


 これは、考えてみればおかしな話だった。


 知らない人間について、どうして人は話せるのだろう。


 僕なら、知らない人間について話すことなんてできない。


 知らないのだから。


 けれど人間は、知らないからこそ話せるのかもしれない。


 知らないものには、好きな名前をつけられる。


 僕はいつの間にか、


 「不良の隣にいた奴」


 という名前になっていた。


 それからしばらくして、


 「不良と仲がいい奴」


 になった。


 さらにそのあと、


 「調子に乗っている奴」


 になった。


 最後には、


 「なんとなくムカつく奴」


 になった。


 僕の知らないところで、僕はどんどん変わっていった。


 本人の許可もなく。


 まるで、学校という巨大な編集者に勝手に書き換えられていくみたいに。


「朝倉」


 放課後。


 担任の先生に呼ばれた。


「最近、クラスで何か困っていることはないか?」


「ありません」


 僕は答えた。


 先生は少し困った顔をした。


「本当に?」


「はい」


「何かあったら言ってくれよ」


「はい」


 先生が去っていく。


 僕はため息をついた。


 困っている。


 ものすごく困っている。


 けれど、それを先生に言ったところで、どうなるのだろう。


 先生が不良たちを注意する。


 不良たちは一日だけ大人しくする。


 次の日から、もっと面倒になる。


 そういう未来が簡単に想像できた。


 だから僕は何も言わない。


 我慢しているのではない。


 そう自分に言い聞かせている。


 僕は、状況を理解しているだけだ。


 それが大人というものなのだろう。


 そう思った。


 でも、帰り道でふと気づいた。


 僕はまだ中学生だった。


 大人になるには、少し早かった。


 その日の夜。


 僕はまた学校へ向かった。


「遅い」


 校門のところで白石さんが待っていた。


「何分?」


「二分」


「二分で遅いって言う?」


「待っている側には長いよ」


「それなら待たなければいいのに」


「それは寂しいでしょう」


 白石さんは真顔で言った。


 僕は少し驚いた。


「……白石さんって、寂しいとか思うんだ」


「思うよ」


「なんか意外」


「どういう意味?」


「いつも一人で本読んでるから」


「一人が好きなのと、寂しいのは違うよ」


 僕は黙った。


 それは、思った以上に正しい言葉だった。


 一人でいること。


 一人にされること。


 一人を選ぶこと。


 一人しか選べないこと。


 全部、似ているようで違う。


 僕は今、一人でいる。


 でも、これは僕が選んだ一人なのだろうか。


「今日の闇は?」


 僕が聞くと、白石さんは校舎を見上げた。


「まだ分からない」


「じゃあ、今日は帰っていい?」


「駄目」


「即答だね」


「二人でやるって決めたから」


「僕、そんな約束したっけ?」


「したよ」


「記憶にない」


「私は覚えてる」


「証拠は?」


「私」


「証拠として弱いな」


 白石さんは笑った。


 僕も笑った。


 その瞬間、妙なことに気づいた。


 僕は学校で笑うことが減った。


 けれど夜の学校では笑っている。


 昼間より、夜のほうが楽しい。


 そんなことを考えたら、少しだけおかしかった。


 普通の人間は、昼に学校へ行って、夜になったら家へ帰る。


 僕は逆だ。


 昼間は学校で息を殺し、夜になったら学校で息をする。


「朝倉くん」


「何?」


「今日は図書室」


「図書室?」


「うん」


「本が好きなの?」


「好きだよ」


「じゃあ闇も本を読んでるの?」


「分からない」


「読んでたら?」


「一緒に読む」


「闇と?」


「うん」


 僕は少し考えた。


「それ、倒す必要ある?」


「あると思う」


「読書してるだけなのに?」


「闇だから」


「本を読む闇なら、ちょっといい奴じゃない?」


「そういう問題じゃないよ」


 僕たちは図書室へ向かった。


 扉を開ける。


 真っ暗だった。


 白石さんが電気をつける。


 何百冊もの本が棚に並んでいる。


 昼間なら、ここには生徒がいる。


 勉強する生徒。


 本を読む生徒。


 友達と話す生徒。


 今は誰もいない。


 僕は本棚を眺めた。


 タイトルが並んでいる。


 恋愛。


 冒険。


 推理。


 歴史。


 科学。


 哲学。


 人間は昔から、人間について考えてきた。


 どうして人を好きになるのか。


 どうして人を憎むのか。


 どうして善いことをするのか。


 どうして悪いことをするのか。


 どうして生きるのか。


 どうして死ぬのか。


 そういうことを何千年も考えて、それでもまだ答えが出ていない。


 僕はそのことを考えると、少し安心する。


 大人だって分からないのなら、中学生の僕が分からなくても仕方がない。


「いた」


 白石さんが言った。


 僕は振り返った。


 図書室の中央。


 本棚の影。


 黒いものが蠢いていた。


 昨日より大きい。


 そして、何かを抱えている。


「本?」


「そう見えるね」


「闇って、本を読むんだ」


「たぶん違うと思う」


 黒い影が、本を開いた。


 ページをめくる。


 その動作だけは、妙に人間らしかった。


 僕は銃を構えた。


「待って」


 白石さんが止めた。


「どうしたの?」


「まだ撃たないで」


「なんで?」


「見て」


 闇が本をめくっている。


 けれど、ページは真っ白だった。


 一文字も書かれていない。


「……何も書いてない」


「うん」


「じゃあ、何を読んでるの?」


 白石さんは答えなかった。


 僕たちはしばらく闇を見ていた。


 すると突然。


 白紙だったページに、一文字だけ浮かび上がった。


 ――羨。


 次のページ。


 ――ましい。


 さらに次。


 ――あいつが。


 僕は息を止めた。


 闇が抱えていた本は、その人間の心だった。


 書かれているのは文章ではない。


 言葉になる前の感情。


 本人でさえ認めたくない気持ち。


 誰かを羨ましいと思う心。


 自分より優れた人間を見たくない心。


 そして。


 誰かが失敗したときに、少しだけ嬉しいと思う心。


 僕は、目を逸らした。


 僕にも覚えがある。


 テストで僕より低い点を取った人間を見て、安心したことがある。


 運動会で僕より遅かった人間を見て、少し嬉しかったこともある。


 僕より人気のある人間を見て、羨ましいと思ったこともある。


 そんなことは、誰にも言わなかった。


 言う必要もないと思っていた。


 だって、それは僕の心の中だけのことだから。


 誰にも迷惑をかけていない。


 そう思っていた。


 でも。


 闇は、それを見逃さない。


「朝倉くん」


 白石さんが言った。


「何?」


「撃てる?」


 僕は銃を握り直した。


「うん」


「怖い?」


「怖い」


「じゃあ、一緒に撃とう」


「うん」


 僕たちは同時に引き金を引いた。


 銃声が二つ。


 黒い影が大きく揺れた。


 そして、消えた。


 僕の頭の中に、また知らない人間の感情が流れ込んできた。


 誰かを羨ましいと思っていた。


 でも、その誰かもまた、別の誰かを羨ましいと思っていた。


 そしてその誰かも。


 さらに別の誰かを。


 嫉妬は、一人の心の中で完結しない。


 人間から人間へ、見えない糸のようにつながっている。


 僕はそのことを知った。


 闇が消えたあと。


 白石さんは、本棚から一冊の本を取り出した。


「何してるの?」


「読もうと思って」


「今?」


「今」


「闇を倒したあとに?」


「うん」


「切り替え早すぎない?」


 白石さんは本を開いた。


「朝倉くんも読む?」


「何の本?」


「哲学」


「難しそう」


「じゃあ恋愛小説」


「なんで僕にそれを勧めるの?」


「中学生だから」


「理由になってない」


 白石さんが笑った。


 僕も笑った。


 それから、僕たちは図書室に並んで座った。


 本を読んだ。


 しばらく何も話さなかった。


 でも、不思議と気まずくなかった。


 昼間の学校では、沈黙は怖い。


 何か話さなければいけない。


 何か面白いことを言わなければいけない。


 誰かに嫌われないようにしなければいけない。


 でも、夜の学校では違った。


 黙っていても、誰も僕を評価しない。


 誰も僕のことを、


「つまらない」


とか、


「調子に乗っている」


とか、


言わない。


 僕はただ、僕だった。


 それだけだった。


 そのとき、僕は初めて思った。


 もしかしたら。


 誰も僕のことを知らない場所というのは。


 それほど悪い場所ではないのかもしれない。


 僕の過去も。


 僕の評判も。


 ここでは関係がない。


 誰も僕を知らない。


 だから僕は、何者にもならなくていい。


 そう思った。


 それは自由だった。


 同時に。


 少しだけ怖かった。


 人間は、誰かに知られることで自分を確認する生き物なのかもしれない。


 誰にも知られなければ。


 誰にも嫌われない。


 でも。


 誰にも好かれない。


 誰にも傷つけられない。


 でも。


 誰にも救われない。


 僕はその矛盾を、まだ言葉にできなかった。


 だから、その夜は考えるのをやめた。


 隣では白石さんが本を読んでいる。


 ページをめくる音だけが聞こえる。


 僕はその音を聞きながら、目を閉じた。


 明日も学校がある。


 昼間の僕は、きっとまた嫌われる。


 机を蹴られるかもしれない。


 悪口を言われるかもしれない。


 それでもいい。


 夜になれば、ここへ来られる。


 そう思った。


 僕には、秘密ができた。


 僕には、武器がある。


 僕には、闇を倒す理由がある。


 そして。


 僕には、白石澪がいる。


 その最後の考えだけは、なぜか少し恥ずかしくて。


 僕は自分でも気づかないふりをした。


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