第3部12話 名前、呼んでよ…蓮
第3部12話
屋敷には、いつも通りの静かな時間が流れていた。
差し込む光。
整えられた廊下。
何も変わらない、はずの風景。
——ただ一つを除いて。
「……おはようございます」
低く、落ち着いた声が響く。
振り返ると、そこには黒瀬蓮が立っていた。
姿勢を正し、視線を落とし、隙のない所作。
完璧な執事。
「……おはようございます、黒瀬さん」
陽葵は、柔らかく微笑んだ。
その呼び方に、ほんの一瞬だけ——
蓮の指先が、わずかに動いたが、それだけだった。
「本日のご予定をお伝えいたします」
何事もなかったかのように、淡々と告げる。
距離は、保たれたまま、近づく事はない。
「……お願いします」
陽葵は頷き、自然に応じる。
そこに、違和感はない。
——陽葵には。
廊下の端で、その様子を見ていた奏が小さく舌打ちをした。
「……クソ真面目かよ」
小さく呟く。
だが、その声は届かない。
いや——
届いても、変わらない。
あの事件の後、廃屋から撤退し全員が無事であったことを確認すると天音さんが陽葵さんに
「きっと、蒼真が守ってくれたんでしょう」と話した。
だが、陽葵さんは…。
「……蒼真って…誰ですか?」
その場の全員の時間が止まってしまった。
その後、奏は天音から陽葵が預かっていた文献を読んだ。
陽葵の記憶を戻す手がかりを探していたのだ。
だが、文献には…。
―壊す力が消えゆく時、守る者は契約の元に代償を負うであろう。
陽葵の代償は契約者であった蒼真と蓮の記憶の消失だったのだ。
結が楽しそうに話している。
陽葵はそれに優しく相槌を打つ。
穏やかな光景。
その少し離れた位置に、蓮は立っていた。
「お嬢様、こちらを」
蓮は紅茶を差し出す。
自然な動き。
何の迷いもない手つき。
「……ありがとうございます」
陽葵はカップを受け取り、そっと口をつける。
——甘い。
その瞬間。
ほんの僅かに、陽葵の動きが止まった。
「……あれ……」
胸の奥が、かすかにざわつく。
―私はこの味を知っている?
「…どうかされましたか」
変わらない声が、すぐそばから届く。
「……いえ」
陽葵は小さく首を振る。
それ以上、何も言わなかった。
蓮は、静かに一歩下がり距離を保った。
それが当然であるかのように。
(……なぜだ)
ほんの一瞬だけ、蓮は思考がよぎったが
その答えを探ることはなかった。
ーこれで、いい。
陽葵の傍にいることが出来るのなら。
天音さんも橘さんも、それは俺が辛いだけだろう。と言った。
でも、違う。
こうして傍にいることしか俺は怖くてできないんだ。
失う事の方が辛い。
何も変わらない日常。
ただ一つ。
決して戻らない距離だけが、そこにあった。
—夜風が心地よい。
昼間の夏の暑さを忘れさせてくれる。
少しだけ涼しい風が秋が近づいているのを教えてくれる。
陽葵は庭のベンチに腰掛け、夜空を眺めていた。
このベンチがなぜか落ち着く。
「…陽葵様、夜は冷えますよ」
黒瀬さんだ。
そっと私の肩にストールを掛けてくれる。
「…ありがとうございます」
「……こんな時間に、どうされました」
「……少し、眠れなくて」
陽葵は、困ったように微笑んだ。
蓮は小さく頷くと、手にしていたカップを差し出す。
「温かいものを」
湯気が、ゆらりと揺れる。
「……ありがとうございます」
カップを受け取る。
そっと、口をつけた。
——甘い。この味…。
その瞬間。
陽葵の手が、わずかに止まる。
「……これ…」
言葉が、続かない。
胸の奥が、ざわつく。
懐かしいような。
「…どうされました?」
黒瀬さんの声。
変わらない、距離。
「……いえ」
陽葵は小さく首を振る。
それでもカップを持つ手が、少しだけ震えていた。
蓮は、カップを差し出した後
ほんのわずかに、視線を落とした。
(……なぜ、これを選んだ)
ただ——
これがいいと、思っただけだった。
陽葵は、俺の淹れたはちみつ入りの紅茶が大好きだったから。
ただ、それだけだ。
思い出してほしい。なんて思っていない。
ただ、好きなものを出してやりたい。
それだけだ。
夜風が髪を撫でた。
「……れ…ん…?」
陽葵は呟いた。
蓮の名を。
「……お嬢様?」
蓮は驚いたが、陽葵の名は呼ばなかった。
だが、陽葵の顔を覗き込む。
陽葵は泣いていた。
「……どうして……?」
ああ…どうして忘れていたんだろう。
こんなにも優しくて、暖かい、不器用で
寂しがり屋なあなたの事を。
「名前、呼んでよ…蓮」
「……っ!」
「……ずっと、寂しかったでしょ」
「…陽葵っ…」
思い出したのか?
ぎゅっと蓮は拳を握りしめた。
陽葵はゆっくりと立ち上がると蓮を見つめ、蓮へ歩み寄る。
陽葵の足が一歩動いた瞬間。
蓮は陽葵を抱き寄せていた。
「……遅せぇよ…」
ーーーただ静かに。
夏の夜風が2人を祝福するように静かに流れていった。




