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皇帝になった日

アイゼルの即位は、風が向きを変えるように——驚くほど早く決まった。


反対する声はひとつも上がらなかった。

皇太子だから、という肩書きだけの理由ではない。

すでに人心は彼へと傾き、支持は揺るぎないものとなっていた。


皇帝代理として矢継ぎ早に公務をこなし、

国中を巡って視察し、人々の声に耳を傾け続けてきた皇太子。

その姿勢は、国民にとって「求めていた主」そのものだった。


かたや、先代皇帝は国民を顧みず、

ひたすら軍事力の増強にのみ執着してきた暴君。

どちらを戴くべきかは——誰の目にも明白だった。


とはいえ、皇帝“代理”と皇帝“本人”では、背負うものの重さが桁違いだ。


ここ数日、アイゼルはほとんど寝ていない。

新帝としての準備、継承式の段取り、詔の作成、各国への通達、軍・魔術師団・議会との調整……

山のように積み上がった業務に、容赦というものはなかった。


「……これは現実か?」


珍しく逃げるような声が漏れる。

アイゼルらしからぬ弱音に、ノクスが肩を竦めた。


「残念ながら、現実です」


その声音は淡々としているが、ほんの少しだけ労わりが滲む。


アイゼルは、人前では決して弱った姿を見せない。

国民の前でも、臣下の前でも、崩れたことなどなかった。

だがノクスの前でだけは——時折、こうして人間らしい疲れを見せることがある。


確かに、彼は権限を欲してはいた。

進めようとしていた政策の多くは、“皇帝”としての決裁なしには動かないものばかりだったからだ。


しかし、即位が突然すぎる。


「計画の再調整だけでも数ヶ月かかるな……」

「まあ、頑張れよ。——陛下」


さらりと告げられた呼び名に、アイゼルは一瞬だけ僅かに眉を寄せた。

慣れていないというより、まだ実感が追いついていないのだ。


それでも彼は、深く息を吐いて立ち上がる。


「……やるしかないか」


その横顔には、疲労も迷いもある。

だがそれ以上に、新たな国を築く覚悟があった。


アイゼルは、山積みの書類を手早く処理しているノクスに歩み寄ると、低く呟くように声を掛ける。


「——ノクス」

「何ですか?」

「これからは、公務以外では俺様を“アイゼル”と名前で呼べ」


一瞬、何を言われたのかわからず、ノクスが固まる。

そして、その意味を飲み込んだ途端、眉をひそめた。


「いや、立場上無理です」


皇族の名を呼べるのは、皇族同士かその配偶者だけ。

側近程度が気軽に口にしていいはずがない。

だが、アイゼルは一歩も引かなかった。


「他者がいない時ならば問題ない」


アイゼルはノクスの執務机に両手を置き、静かに告げる。

その声音には感情がほとんど乗っていない。

いや——複雑すぎて、表に出せないのかもしれない。


「もう私の名を呼ぶ者はいない。……だから、一番近しい場所に立つ貴様に、その権利をやる」

「………」


本来なら、断つべき線引きだ。

……しかし。


今ここで拒めば、アイゼルは二度と弱さを見せなくなる気がした。

ノクスにだけ見せている僅かな“人間らしさ”すら、閉ざしてしまうだろう。

そうなれば、彼はまた一人で全てを抱え込む。


それは、嫌だった。


「……わかりました。アイゼル……様」


ギリギリの妥協のつもりでそう呼んだが——


「“様”はいらん。敬語も不要だ」


即座に却下された。


(どこまで要求してくるんだよ……)


そう思いながらも、不思議と今度は断る気が起きなかった。


躊躇いはある。……それでも。


「……わかった、アイゼル」


思ったより自然に、言葉がこぼれた。

アイゼルは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべ、机から手を離す。


「上出来だ」


満足げな声色でそう言うと、そっとノクスの頭を撫でてから、自分の執務机へ戻っていった。


——その瞬間。


ノクスの思考は一拍遅れて固まった。


(……は?)


本当に軽く触れただけだった。

なのに、妙に胸の奥が熱くなる。


(何してんだ、あんた……!)


反射的に身を引くどころか、声すら出なかった。

その手の感触だけが、なぜか頭に焼きついて離れない。


撫でられたこと自体は初めてじゃない。

なのに——今日の手つきは、いつもより妙に優しかった。

だからこそ、タチが悪い。


(最悪だ……っ。こんなんに反応すんなよ、俺……)


気づけば頬が微かに熱を帯びているのを、自分でも自覚していた。

だが、撫でた張本人はもう自席に腰掛け、何事もなかったかのように書類に視線を滑らせている。


その無自覚な態度が、余計に腹立たしい。

……自分だけ、さっきの掌の温度がずっと残ってしまっていることが、やけに悔しかった。


乱れた前髪を指先で軽く整えながら、ノクスはアイゼルの様子を伺う。

先程よりは調子が戻ったようだが、書類をさばく仕草に、ほんの僅かだが乱れが残っていた。

全てにおいて完璧な彼でさえ、突然の事態に心が追いついていないのだろう。


少女の処刑の件で、先帝とアイゼルの間にはぎこちない距離があった。

それでも、彼は父親を憎んでいたわけではなかったと思う。


皇帝は地方視察の途上で、敗残兵に襲われ殺害されたと伝えられた。

長年属国に苛烈な圧政を敷いてきたため、恨みを買うのは当然だ。

……そういう最期を迎える可能性は、確かにあった。


とはいえ。

どれほど問題のある人物であっても、アイゼルにとってはただ一人の父親だ。

唯一の肉親が遠い地で崩御し、その報せを受けた途端、感傷に浸る間もなく帝位の重圧がのしかかってきた。

崩れない方が、不思議なくらいだ。


だから、ノクスにできることは——ひとつ。


側で、支えること。


(……放っておけるわけねぇだろ)


せめて、早くいつもの彼に戻ってほしい。

今は、それだけだった。



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