第九話 大丈夫だからね
戌の日は、十月の晴れた日だった。
朝の補給を終えると、ミナトは早瀬と居住区を歩いた。東の端には、内地との境の柵を背にして神社の森がこんもりと茂っている。その裏手へ回りこむと、古い木戸が見えてきた。近づいてみれば、戸と柱のあいだに指一本ぶんの隙間がある。鍵の金具は赤茶けた錆に覆われ、留め具から外れて斜めに垂れ下がっていた。
「壊れてるって言ってたよな」
「三年前から、と聞いています。報告の欄がないので」
早瀬は木戸を押しも引きもせず、隙間に一度目をやっただけで宿舎のほうへ引き返した。ミナトもあとを追う。途中、鳥居の脇の絵馬掛けが目に入った。下がっている枚数は、この前来たときと変わっていない。
昼前、宿舎の前に装甲車が横づけされた。開いた後部の座席では、医官が計器の箱を膝にのせ、留め金をひとつずつ確かめている。玄関の上のスピーカーは、さっきから同じ文面を繰り返していた。
『未生獣警報、レベル三。第六区画。担当部隊は直ちに出動。補給班は第二防衛線へ移動してください』
五度目の警報だった。四度目の襲撃から、まだ四日しかたっていない。これまでは判で押したように一週間おきに来ていたし、区画も四日前と同じ第六だ。
ミナトが車のステップに足をかけたとき、スピーカーの調子が変わった。
『後方区画に少数の侵入を確認。居住区の全員は屋内へ避難してください。繰り返します、居住区の全員は屋内へ』
車の脇に控えていた早瀬がさっと顔色を変えた。
「後方に出ることなんて、あるのか」
「あり得ません。四十年で一度も起きていないはずです」
早瀬は腰の無線機を耳に当て、向こうの声にしばらく聞き入ってからミナトを見た。
「東の端です。神社のあたり。アンカーは出動を保留して、医療棟で待機——」
言い終わらないうちに、泣き声が届いた。
遠くではない。宿舎の裏手の、東の方角だ。赤ん坊の声が二つ、三つと重なっている。
ミナトはステップから足を下ろし、そのまま宿舎の裏へ駆けだした。
「また走る気ですか……!」
背中に早瀬の声が飛んでくる。追ってくる足音は、前に追いかけられたときよりずっと速い。「もう走らないよ」と早瀬に言ったのは、ほんの半月前のことだ。覚えてはいたが、ミナトは足を緩めなかった。
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鳥居をくぐると、泣き声の主たちが見えた。
小さい。九月の夜に交差点で見た一体は、ビルの三階に頭が届いていた。いま目の前にいるものは、どれも大型犬ほどの大きさしかない。出来かけの手足で地面を這い、口だけの顔から赤ん坊の泣き声をこぼしている。
五体とも同じ方向へ這っていき、通ったあとの砂利には湿った黒い筋が残った。
向かう先に、人がいた。
女性だった。絵馬掛けの下にしゃがみこみ、両腕を体の前で固く組んでいる。前を開けたコートの下で、お腹がわずかにふくらんでいた。
女性は迫ってくる五体のほうを見ようともしない。目をぎゅっとつぶり、お腹に顔を寄せるようにして、何度も話しかけている。
「大丈夫。大丈夫だからね……」
泣き声にかき消されそうな、震える声だった。
五体のうちの一体が、ぴたりと這うのをやめ、頭を少しだけ横に傾けた。
ミナトはそれを目の端に入れただけで、足は止めずに女性のもとへ駆け寄った。腕をつかんで引き上げる。
「立ってください!」
「……えっ」
「いいから、早く!」
半ば抱えるようにして走った。よろける体を支えながら社務所の裏手へ回りこみ、板壁に背中をつける。
泣き声の調子が変わった。
こちらへは追ってこない。それどころか、鳥居のまわりを行ったり来たりしている。五体とも地面に顔をこすりつけるようにして向きを変え、心細げに鳴いていた。何かを探しあぐねている声だ。
「……見失った?」
追いついた早瀬が、社務所の角から顔をのぞかせた。
「あれが、標識になる女性を見失うはずがないのに……」
標識という言葉の意味をミナトが問い返す前に、女性がその場にへたりこんだ。
「う……っ」
お腹を抱えて背中を丸め、歯を食いしばっている。ミナトはつかんでいた腕を放し、女性の前に膝をついた。
五体がいっせいにこちらを向いた。探していた声が、獲物を見つけた歓声に変わった。砂利をかきむしって這う音が、みるみる近づいてくる。
ミナトは咄嗟に女性の手を握った。
泣き声は、また迷子の声に戻っていった。
角の向こうで、早瀬が小さく息を呑んだ。何が起きているのか、ミナト自身も手探りのまま、女性の耳元へ顔を寄せた。
「手を離すと見つかります」
返事はない。女性は痛みをこらえて、体を固く丸めたままでいる。
そのこわばった顔が、少しずつほどけていった。つないだ手のひらを通って、ミナトの魔力が流れ出ていく。補給拠点で少女たちの傷のガラスを押し戻すときと、同じ手応えがあった。
女性がおずおずと目を開けた。
「……あ」
自分のお腹を見下ろし、ミナトとつないだ手を見て、もう一度お腹に目を落とす。
「動いた……」
ささやくような一言のあとに、震える息が続いた。
「今まで一度も動かなかったのに。……本当に、初めて」
女性は空いているほうの手でそっとお腹に触れ、泣きだしそうになりながら笑った。
「もう一回……ほら、今も」
胎動まではミナトには分からない。それでも女性には、お腹の中の動きがはっきりと届いているようだった。
「いるわ。ちゃんと生きてる」
ミナトは何も言えず、握った手に少しだけ力をこめた。
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防衛軍の一隊は、それから十分後に駆けつけた。
八人の隊員が鳥居から踏みこみ、ライフルで五体を撃った。乾いた銃声が森にはね返り、泣き声がひとつ、またひとつと途切れていく。最後の一体が黙ると、境内には火薬の匂いだけが残り、あたりは急にしんと静まり返った。
先頭の隊員が社務所の裏手を確かめに来た。空いた手でお腹をかばっている女性に目を留め、コートの下のふくらみに気づいたとたん、手にしていた無線機を落としかけた。
「特区の中に、妊婦が……?」
「私が引き継ぎます」
早瀬が角から歩み出た。隊員は早瀬の顔と腰の無線機に目をやると、黙って敬礼し、鳥居のほうへ引き返していった。
女性は社務所の縁側に腰を下ろした。ミナトもその隣に座る。日を吸った板がほんのりと温かい。手はつないだままだった。
「ツムギと申します」
女性はそう名乗った。二十四歳。夫は仕事に出ていて、今日は一人で来たのだという。妊娠五ヶ月を目前にした戌の日に合わせて、祈祷用の帯を持ってきていた。膝にのせた手提げ鞄の口から、きちんと畳んだ白いさらしがのぞいている。
「……ミナトです」
つられて名乗ると、ツムギは小さく頭を下げた。
「ここ、昔はとても有名だったんです。祖母も母も、ここで帯を巻いてもらったと聞いていて……どうしても諦めきれなくて」
「柵を越えて入ってきたんですか」
「あの木戸が、開いていたんです」
ツムギが申し訳なさそうに見ても、早瀬は目を伏せたまま、手元の無線機のつまみをいじっている。
「やっぱり、ひどく怒られますよね」
「規定では、即座に強制退去です」
「ただ、退去させる前に未生獣と出くわしてしまったので、手続きの順番が狂いました。順番がきたら手続きをします」
「……その順番は、いつごろになりますか」
「今日は来ないと思います」
ツムギはきょとんと目を瞬かせ、やがて肩の力をわずかに抜いた。
ツムギが落ち着くのを待って、早瀬は無線で報告を上げた。侵入者一名、妊婦、外傷なし。そこで少し声を落とし、ミナトが手を握っているあいだは敵が対象を見失う、と付け足す。
短い声が返ってきた。隣に座るミナトの耳にも届く音量だった。ツムギがはっと顔を上げた。
『記録に残しなさい、全部』
神楽坂ユノ長官だ。九月の終わりの朝、病室で「あなたの代わりはいません」と告げた声を、ミナトは覚えていた。侵入事案の公式な記録のことだろう、とミナトは受け取った。
ほどなくして、第二防衛線から戻った医官が装甲車で乗りつけた。前線の戦闘はもう片づいたという。
医官はツムギのお腹と、つないだままの二人の手と、砂利に残った黒い這い跡を順に見ていった。
「性別判定は受けていますか」
「……いえ、まだです。来週、受ける予定で……」
ツムギは医官の顔を見ずに答えた。来週、と言うところで、声がわずかに細くなった。
「受けるまでもありません」
医官は迷わずに言い切った。
「男の子です。そうでなければ、あれがここまで群がってくる理由がありません」
ミナトの手の中で、ツムギの指がこわばった。
先週の夕方、チトセが掃いていた境内で読んだ絵馬には、どれも『女の子でありますように』と添えてあった。書いた人たちが男の子を憎んでいたわけではない、とチトセは言っていた。いま隣で凍りついているこの人は、あの絵馬の書き手たちがいちばん恐れていた知らせを、たったいま聞かされた。ミナトは、ツムギの指先が少しずつ冷えていくのを感じていた。
「……判定を受けていない以上、公的な記録の上では不明扱いです」
医官はツムギから目を外し、早瀬のほうへ向き直った。
「判定の期限は妊娠二十週。現在は十五週ですね。受けなければ、そのまま期限を過ぎることになります」
早瀬は足元の砂利に目を落とした。
「男の子だと……どうなってしまうんですか」
ツムギが震える声で尋ねた。医官はわずかに間を置いた。
「生まれる前に亡くなります。未生境界の魔力毒のせいです。胎児だけでなく、母体に毒が逆流して命を落とす危険も高い。ですから事前の判定制度があり、判定のあとには処置が定められています。母体の命を救うための、正当な医療行為です。……規定上、私が説明できるのはここまでです」
「その先は……どうなるんですか」
「その先は、私が決めることではありません。判定を受けるかどうかの自己決定権はあなたにあります。判定を受けなかったからといって、誰にもあなたを咎める権利はありませんし、私が責めさせません」
医官は胸元からペンを抜き、ノートの新しいページに書きはじめた。ツムギは自分のお腹をじっと見つめている。二人は一度も目を合わせない。それでもミナトには、どちらももう何かを決めてしまったように見えた。
「お腹の痛みはありますか」
「今は……全然ありません。この方に手を握っていただいてから、すっと引いていきました」
「握られる前は」
「ここ一ヶ月ほど、毎日じわじわと痛んでいて。主治医には、妊娠中期特有の症状だと言われていたんですけど……」
医官はうなずき、もう一行書き足した。
「ノートには、暫定的な魔力毒の兆候と記載しておきます。……もっとも、確定診断を下す手段は公的な判定検査しかありませんので、医学的には断定しません」
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ツムギは木戸から内地へ帰ることになった。
早瀬が戸を押すと、錆びた蝶番が軋んで隙間が広がり、舗装された歩道と、葉を落としかけた街路樹の並びがのぞいた。同じ町の続きのはずなのに、瓦礫ひとつ落ちていない。ツムギの家はこの通りを少し行った先にあり、通っている産院もその近くだという。
ミナトが手を離すと、ツムギはすぐに自分のお腹へ手を添えた。痛みがぶり返した様子はない。守るように触れるのが、もう癖になりかけている。
「また……手を握っていただけますか」
ツムギはすがるようにミナトを見上げた。
「もう二度と、ここには入れないと思いますので……」
「俺は、勝手に特区の外へは出られない決まりになっていて」
ミナトが言いよどむと、早瀬がすっと二人のあいだに入った。
「……その産院までなら、公用車で十五分程度です」
ミナトは驚いて早瀬の顔を見た。
「内地には出られないって話じゃなかったか」
「私は、あなたに同行して監視するよう命じられています。ついて行くだけです」
早瀬は手帳を閉じて、胸ポケットにしまった。
「定期的な動態報告の義務はあります。それが私の職務ですから」
「誰にも知られたくないんだけど」
早瀬はしばらく黙っていたが、やがて何事もなかったように口を開いた。
「……本日の私は、後方への侵入事案の事後処理で手一杯でした。特筆すべき異常は何も確認していません」
ツムギは木戸をくぐって内地の道へ出た。数歩進んだところで振り返り、深々と頭を下げる。歩きだしたツムギは、お腹の子に向かって小さく唇を動かしていた。声は境内まで届かない。それでも、何を言っているのかは口の形で分かった。
大丈夫だからね。
「……鳥居をくぐったとき、何か見ましたか」
隣で早瀬が胸ポケットから小さな手帳を取り出した。
「一体だけ、首をかしげてた。あの人がお腹に話しかけてたときに」
早瀬は何も言わずにうなずき、手帳に何か書きつけはじめた。
鳥居を出る前に、ミナトは絵馬掛けを振り返った。
ツムギがしゃがみこんでいた場所のすぐ上で、真新しい白木の絵馬が一枚、風に揺れている。朝に通りかかったときにはなかった一枚だ。墨はもう乾いていて、今日の日付と、短い願いが一行だけ書かれていた。
『無事に生まれますように』
その下に、『女の子でありますように』の二行目はなかった。
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夜も更けてから、階段を上がってくる靴音が聞こえた。ミナトが部屋の扉を開けると、前線の後始末から戻ったばかりのヒサメが廊下を歩いてくるところだった。着替えもしていない。コートの裾に、乾いた泥がはねている。
「後方に出たそうね」
「五体だけな。小さいやつだったよ」
「四十年で初めてよ。何か理由があるはずだわ」
「医官の話だと、お腹の男の子に引き寄せられたんじゃないかって」
ヒサメは廊下のパイプ椅子に腰を下ろした。
「あなたが手を握っているあいだ、あれが相手を見失ったって聞いたわ」
言いながら、ヒサメはミナトの右手に目を落とした。今朝の補給で、いつものように三分握っていた手だ。
「早瀬さんから聞いたのか」
「無線は全部隊が聞いているわ」
ヒサメは椅子の背もたれに体を預けた。
「私たちは標識よ。体内の受信機が開いたその日から、あれに位置を特定され続ける側の存在。見失ってもらえたことなんて、これまで一度だってない」
「……俺が手を握ってれば、標識も隠せるのか」
「いいえ。私はあなたに触れられていても捕捉される。現に今日も前線で狙われたわ」
それきりヒサメは黙り、椅子の上で腕を組んだ。今夜もそこから動かないつもりらしかった。
部屋に戻ったミナトは、窓を開けて冷えた夜気を入れた。
東の端の神社の森は闇に沈み、鳥居の形も見分けられない。あの暗がりのどこかに、今日、白木の絵馬が一枚増えた。
木戸の向こうの産院までは、車なら十五分だ。
ミナトは窓を閉めた。大丈夫だからね、とお腹に話しかけていたツムギの声が、まだ耳に残っていた。




