第八話 冬を越した魔法少女
十月の三週目が終わるころには、ミナトの髪は耳をすっぽり覆うほど伸びていた。
元の世界にいたころから先延ばしにしてきた散髪は、こちらへ来て三週間あまりたったいまも手つかずのままだ。この世界では「散髪」という言葉さえ、誰の口からも聞いたことがない。少女たちの髪も誰かが整えているはずだが、どこで誰が切っているのかまでは知らずにいる。
その夜、洗面所の水の冷たさに首をすくめて戻ると、濡れた前髪が額に貼りつき耳の上の髪も重く垂れていた。ミナトが指でかき上げていると、部屋の前のパイプ椅子からヒサメが言った。
「切りなさいよ。鬱陶しいし、蒸れるでしょう」
ヒサメがミナトの髪のことを口にしたのは、これが初めてだった。
「切るって、どこでだよ」
「宿舎の洗面所。私が切ってあげるわ」
「切れるのか? 人の髪なんて」
「候補生の部屋で、みんなで切り合っていたの。十歳のときからね。誰も上手くはなかったけど、文句を言う子もいなかったわ」
ヒサメは腰まで届く銀の髪をひと筋すくい、指先でつまんでみせた。
「これは伸ばしたままにしているの。切っても、生えてくるのはこの色だから。……あなたのは、まだ黒いもの。切っても、同じ色が生えてくるわ」
「このままでいいよ」
「そう」
ヒサメはそれきり勧めを引っこめるでも重ねるでもなく、黙って廊下の先に目を戻した。
ところが翌朝扉を開けると、足元にハサミが一本置いてあった。持ち手の塗装があちこち剥げた古いハサミで、刃先だけが鋭く研いである。
「施設を出るときに、持ってきた唯一の私物よ」
その夜は、ミナトが何か聞くより先に椅子のヒサメが言った。
「部屋の六人で使い回していたハサミ。最後は私の手元に残ったの。……持っていても、もう切ってあげる相手もいないけれど」
ミナトはハサミを使わなかった。かといって返す気にも捨てる気にもなれず、机の引き出しの奥にしまった。回収室のチトセが古い紙片について言った「ほかに、捨てる場所がありませんから」と、どこか似ている気がした。
その翌朝、補給を終えたところで医官が月末の改定の話をしてくれた。
「月末の夕方に能力測定があります。A級以上の魔法少女が中央広場で魔法を全力で出し、その強さを計器で測るんです。氷堂さんは氷を、火神院さんは火を。出た値は上限に対する割合にして、順位表の右上に書き込まれます」
「上限って、どれくらいなんだ?」
「過去四十年の観測記録で、いちばん大きな値です。歴代のS級が出した最高の数字ですね。氷堂さんは九月の終わりから、その上限を超えています。計器の針が振り切れてしまうので、超えた分は測れません。順位表には『超』とだけ書かれます」
「カグヤは?」
「今の値で97%です。先月の測定では95%でした。ひと月で2%も上げるのは、これまでの記録を見てもあまり例がありません。相応の火を絞り出さないといけませんから」
医官はペンを胸ポケットに差した。
「魔力を使いすぎれば、そのぶん髪の色が抜けていきます。火神院さんも、根元の銀が先月より広がっていますよ。紅く染めているので、ふだんは目立たないだけです」
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施設の話は、その日の夜に聞いた。
ミナトから尋ねたわけではない。扉のノブに手をかけたミナトの横で、ヒサメは椅子に深く腰かけ、蛍光灯の下で独り言のように話しはじめた。
「施設は内地の外れにあったわ。身寄りのない子どもが二十人ほど集められていた。私は物心ついたときからそこにいたの。名前は施設が適当につけたものよ。『氷堂』はその建物の名前で、『ヒサメ』は生まれた日に冷たい氷雨が降っていたから」
「……そうだったのか」
「十歳のとき、魔力の受信機が開いた。その日のうちに迎えの車が来て、候補生宿舎へ連れて行かれたわ。施設には二度と戻っていないし、戻る理由もなかった。特務省が私の家よ。あなたがここへ来る前から、そして、あなたが元の世界へ帰ったあとも」
帰ったあと、という言葉をヒサメは明日の天気の話でもするようにさらりと口にした。ミナトは聞き流すことも問い返すこともできず、扉のノブに手をかけたまま立っていた。
「候補生の部屋は六人部屋だった。私と、ほかの五人。全員が十歳で、同じ日に連れてこられた仲間だった。……去年の冬まではね、その六人の名前を毎晩唱えていたの。声には出さずに、心の中で」
「今は、唱えないのか?」
「もう唱えないわ。自分が減ってしまうから」
ヒサメは膝の上に置いた左手を一度握り、ゆっくりと指をほどいた。
「六人のうち、私以外の五人はみんな、あの金属の箱に入ってしまった。最後の一人が砕けたのが、去年の冬。地下の回収室、三段目の棚の、右から二番目にある箱よ」
ミナトは回収室の三段目の棚を思い浮かべた。サキの箱が置かれていた段だ。右から二番目の紙片も一度は目にしたはずなのに、名前がどうしても出てこない。端に小さく書かれた十七という数字だけを覚えていた。
「十八の冬を無事に越えられた魔法少女なんて、私はこれまで一人も見たことがないの」
ヒサメが言った。
「『十八まで持った』って、九月に言ったでしょう。でも、まだ秋なのよ。冬を越せるかどうかは、実際に越してみるまで分からないわ。……私はね、今年中に砕け散るつもりで生きてきたの。あなたが現れるまでは」
九月の夜、交差点で左腕をなくして倒れていたヒサメが口にした言葉だ。
「今は……どう思ってるんだ」
「今は、冬を越せるかもしれないって思ってしまっている。それが、たまらなく怖いのよ」
ヒサメが顔を上げ、まっすぐにミナトを見た。その目がかすかに揺れている。
「砕けて死ぬと決めていたころは、何ひとつ怖くなかった。順位表も、回収される箱も。でも、生き延びられるかもしれないと期待した途端、すべてが恐ろしくてたまらなくなった。……全部、あなたのせいよ」
「……悪かった」
「謝らないでよ。……もっと怖くなるじゃない」
ヒサメはさっと顔を背け、また向かいの壁を睨んだ。唇を固く結んで、もう何も言おうとしない。ミナトは部屋に入って扉を閉めた。
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四度目の警報が鳴ったのは翌日、三度目の襲撃からちょうど一週間後のことだった。
『未生獣警報、レベル三。第六区画。担当部隊は直ちに出動。補給班は第二防衛線へ移動してください』
補給拠点の無線が中型の接近を数えていく。三体、四体。重なる泣き声は十近く、レベル二だった前回よりはっきり多い。
『氷堂隊、中型二体と交戦中! ……一番、負傷! 左上腕、軽傷!』
医官が計器を並べていた手を止めた。
「一番が、負傷……?」
「軽傷だって言ってるぞ」
「九月のあの夜以来、氷堂さんはかすり傷ひとつ負っていませんでした。いくら軽傷でも、初めてのことです」
十分ほどして、一人ぶんの靴音が廊下を近づき、扉の前で止まった。担架の音はしない。
「一番、入ります」
ヒサメは自分の足で入ってきた。コートの左袖が大きく裂け、のぞいた二の腕の傷口の縁が指の幅ほど透明なガラスになって光っている。
「中型の爪がかすったのよ。凍らせきる前に届いてしまった。……二体同時は、少し厄介だったわ」
「一番、左上腕。結晶化、進行中」
医官が手早く計器を留める。ヒサメは迷わず左手を差し出した。生え戻ったほうの手だ。ミナトはその手を握り、もう片方の手のひらを裂けた袖からあらわになった二の腕に当てた。
「んっ……」
ヒサメの肩がわずかに跳ねた。傷口を縁取っていたガラスが、手のひらの下で手首のほうへ押し戻されながら薄れていき、十秒とたたずに消えた。
「結晶化、停止しました。消費は5%です」
医官はノートに書き込み、いつもの調子で告げた。
「二分経過しました」
ヒサメは手を離さない。
「あと一分」
「氷堂さん、傷の結晶化はもう治まっています」
「三分よ」
医官はノートに目を落とし、小さく息をついてから「三分」と書き入れた。
ヒサメは指先に力をこめたまま、浅い息を繰り返している。裂けた袖から赤い傷口がのぞいていた。
「……ちゃんと、戻るのね」
目を閉じたまま、ヒサメがつぶやいた。
「一度生えた腕なのに、普通の腕と何ひとつ変わらない」
「当たり前だろ。あんたの腕なんだから」
「そうね……当たり前、か」
三分が過ぎると、ヒサメは名残を惜しむように手を離し、破れた袖に目をやった。ガラスの光はもうどこにもない。傷口はまだ開いているが、魔法少女の体なら一晩で塞いでしまう。
「一番、戦線に戻るわ」
ヒサメが扉を開けると、すぐ目の前にカグヤが腕を組んで立っていた。
まくり上げた右の二の腕に、また赤い火傷の痕が増えている。カグヤはヒサメの裂けた袖から、処置室の中のミナトへ目を移して鋭く睨んだ。
「怪我をするなんて、ずいぶん珍しいじゃない」
「中型が二体、同時に突っこんできたのよ」
「まさか、わざと怪我をしたわけじゃないでしょうね?」
ヒサメの足が止まった。
「わざと怪我をするような魔法少女なんて、私は見たこともないわ」
「そうかしらね?」
カグヤは鼻で笑い、ヒサメの脇をすり抜けて処置室に入ってきた。廊下で一度だけ立ち止まってカグヤの背中に目をやると、ヒサメは黙って歩いていった。
カグヤは左手の黒い手袋を引き抜いた。人差し指から薬指までの三本は、指先が白く濁ったままだ。その手でミナトの手を掴み、ヒサメが出ていった扉を睨んだまま二分を待った。
「月末の改定まで、あと九日よ」
手を握ったまま、カグヤが早口で言った。
「数値を3%引き上げて、一番の座をもぎ取ってみせるわ。……そうしたらね、わざとだろうが何だろうが、怪我をしたときは私が最優先よ」
97%に3%を足せば上限に届き、計器の上ではヒサメの『超』と並ぶ。
「わざと怪我をするような真似は、絶対にやめろ」
「やめるかどうかは、月末の結果を見てから決めるわ」
カグヤは乱暴に手袋をはめ直し、背を向けて出ていった。この前のように扉を蹴りはしなかったが、閉める音はあのときより重く響いた。
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戦闘の音がやんでしばらくすると、ゲートの向こうから担架を引きずる音が近づいてきた。チトセだった。
B級の少女が二人、並んで横たわっている。一人は右腕に、もう一人は左脚に包帯を巻いていて、どちらも包帯の端から指先ほどのガラスがのぞいている。
ミナトは後ろの持ち手を握った。二人ぶんの重みで枠が傾き、右側の少女の腕が外へ垂れかける。ミナトはその手首を掴んで引き戻し、そのまま握って歩いた。百メートルほど進んだところで、その子の右腕の包帯の端から、透明なガラスがすっと消えた。
左側の少女の手首には、とうとう手が回らなかった。
補給拠点の前で担架を下ろしたとき、左側の少女の包帯には透明な結晶が残ったままだった。自分の脚の包帯を見て、隣の子の腕を見て、最後にミナトを見上げた。恨み言も泣き言も口にせず、右腕の子に支えられて医療班のほうへ歩きだす。
「名前、なんていうんだ」
ミナトは右側の少女に尋ねた。三度目の襲撃の日には、同じように担架の上で手首を握ったB級の子の名前を聞きそびれている。
「……森アヤカです。B級第二小隊の」
「アヤカ。……あっちの子の名前は?」
左側の少女はもう十歩ほど先を、足を引きずりながら歩いていた。振り返るそぶりはない。アヤカが声をひそめて、代わりに答えた。
「中野です。中野ミク。同じ小隊の子です。……あの子、名前を聞かれたりするのをすごく嫌がるから、私が代わりに言いました。あとですごく怒られちゃいます」
「怒られるのか?」
「はい。でも、名前を聞いてくれた人なんて、今まで一人もいませんでしたから。たぶん、ちょっと怒るだけで許してくれます」
「そうか。……教えてくれてありがとう」
アヤカはぺこりと頭を下げ、ミクの背中を小走りに追っていった。
ミナトは自分の両手を開いて見下ろした。片方は担架に取られ、残る片方で握れるのは一人の手首だけだった。
処置室に戻ると、医官はモニターの数字をノートに写しているところだった。
「5%、減っています」
「担架を運ぶのに、力を使ったんだ」
「用途不明の消費……これで二度目です。この欄で通せるのは出動一回につき10%まで、と前にも申し上げましたね」
「覚えてるよ」
「今回は5%です。一回の出動で10%を超えてしまえば、もう記録を誤魔化しきれません。そこから先は、書けないのではなく、私が書かないことにするかもしれません……」
医官はペンを机に置いた。
「ノートに書けないものはこの基地では『存在しなかったこと』として処理されますから、記録の外に置かれた少女は、いなかったことになってしまうんです。誤魔化せるうちに、なんとか記録を収めておきますが」
医官はもう一度ペンを取り、用途不明の欄に二行目を書き入れた。
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「来週、戌の日ですね」
宿舎へ戻る装甲車の中で、護衛の早瀬がそう切り出した。
「何の日なんだ、それ」
「安産祈願の日ですよ。十二日に一度めぐってくる吉日です。……居住区の東にある神社の裏木戸から、たまに人が忍び込んでくるんです。内地からわざわざ、戌の日に腹帯を巻いてもらうために。見つけ次第、追い返すのが規則になっています」
「追い返すのか?」
「特区は全域が避難指定区域ですからね。妊婦を立ち入らせる規定は、どこにもありません」
「もっとも、私は一度も追い返したことはありませんよ。一度も見かけたことがありませんから。……裏木戸の鍵は、もう三年前から壊れたままだと聞いていますが、上へは報告していません。書類にそんな些細なことを書く欄なんて、ありませんからね」
早瀬の表情は少しも動かない。妹の話をしてくれた日には、特区にいるわけを「本当に、それだけの理由ですよ」と言い切った人だ。今日は何も付け足さなかった。ミナトはその横顔をしばらく黙って見ていた。
宿舎に戻ると、部屋の前の廊下にいつものパイプ椅子が出ていた。座っているはずのヒサメは、装備の点検からまだ戻っていないらしい。
ミナトは椅子の脇を抜けて部屋に入り、机の引き出しを開けた。塗装の剥げたハサミが、しまったときのまま奥に収まっている。ミナトは手を触れずに引き出しをそっと閉めた。
冬を越せるかもしれないと思ってしまうのが怖い、とヒサメは言っていた。ミナトのほうは、自分がこの世界で冬を越すのかどうか、まだ一度も考えてみたことがない。
ミナトは耳にかぶさった髪をひと筋つまみ、指のあいだに挟んで眺めた。根元から毛先まで、まだどこも黒かった。




