第七話 治りますから
回収係の一日は、担架の点検から始まる。
回収室に通いはじめて一週間あまりたったこの日、ミナトは朝の点検からチトセに付いていった。朝六時、医療棟の裏手の物置には八台の担架が並んでいる。チトセは一台ずつ広げて布の張りを確かめ、持ち手の留め具を締め直していく。緩んだままだと、運んでいる途中で担架が折れるのだという。実際に二度折れたことがあると、チトセは手を休めずに教えてくれた。
「二度目のときは載せていた方が落ちてしまい、もう砕けていたので、箱に入れ直すことになりました」
話の中身に比べて、声の調子は少しも揺れない。ミナトは返事のかわりに、隣の担架を広げた。
「これ全部、一人でやってるのか」
「一人です。特区全体には回収係が三人いますが、居住区の担当は私だけですから」
「三人しかいないのか?」
「単因子型は数が少ないので」
ミナトは反対側の留め具に指をかけて締めた。金具は硬く、指の腹にじんと痛みが残る。チトセは毎朝八台ぶんをこの小さな手で締めている。
物置の入口には早瀬が立っていた。手を貸すそぶりは見せず、背筋を伸ばしてこちらを見ている。
「早瀬さんは手伝ってくれないのか」
「手伝うと、報告書の欄がひとつ増えてしまいます。『回収係の業務に対する隊員の介入』という欄です」
「そんな欄、本当にあるのか?」
「ありません。増やしたくないので、手伝いません」
早瀬は表情を変えずに言い切った。留め具を締めていたチトセが手を止め、早瀬を見上げる。口の端がほんの少しだけ持ち上がった。チトセがかすかにでも笑うのを、ミナトはこのとき初めて見た。
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七時には地下の回収室へ下りる。
冷えきった部屋で貼り替えの紙片を何枚目か貼り終えたころ、チトセがふと机を離れ、棚の片隅の前でしばらく動かずにいた。視線の先に、金属の箱がひとつ置かれている。
識別番号の札も名前の紙片も貼られていない。ほかの箱と同じ規格の、同じ金属の箱で、札だけが欠けている。初めてここへ来た日も、目で追っていたのは紙片の名前と年齢だけで、札のない箱は数の外に置いたまま見過ごしていた。
チトセが机に戻るのを待って、ミナトは箱を指さした。
「これは?」
「誰のものか分からなくなってしまった破片です」
チトセは鉛筆を動かしたまま答えた。
「回収のときに箱へ収めきれなかった破片を、あとから見つけて拾い集めました。どなたの破片なのか見分けがつかないので、識別番号を振れませんし、紙片も貼れません」
「ずっと、ここに置いたままなのか」
「送る先がありませんから」
ミナトは箱の前へ行き、両手で持ち上げてみた。ほかの箱よりずっと軽い。それなのに棚へ戻すとき指先がかすかに震えた。
「私は毎朝、その箱の前で困って立ち尽くしてしまいます」
背中のほうでチトセが言った。
「ほかの箱には、私が困るからと言って名前を書いた紙片を貼れます。でも、あの箱には何も貼れないので、ただ立っています。毎朝、一度だけ」
振り返ると、チトセはもう机に向き直り、次の紙片に鉛筆を走らせていた。
処置室で朝の補給を済ませ、八時に食堂へ入ると、チトセはいつもの隅の席に、いつもどおり一人で座っていた。ミナトがその向かいにトレイを置くと、近くの卓の少女たちがいっせいにこちらを見て、すぐに目を逸らした。
「見られてますね」
「俺が見られてるだけだよ。もう慣れた」
「私も慣れています。誰からも見られないことには」
言われてみると、少女たちの目はミナトの顔で止まり、お椀を両手で持ち上げたチトセの上は素通りしていく。
「回収係が食堂で誰かと向かい合って食べるのは、たぶんこれが初めてです。私の知る限りでは」
「迷惑だったか?」
「いいえ。お味噌汁の味が少し違って感じられます。いつもと同じはずなのに」
隣の卓ではA級三番の石田リンが箸を止めてこちらを見ていた。目が合うと、リンはあわてて椀に口をつけた。
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九時、チトセのあとについて防壁のあいだの通路に出た。早瀬は数歩うしろをついてくる。
風が吹き抜けるたびに、乾いたコンクリートの粉が足元で小さく舞う。戦闘のない日も、チトセは空の担架を一台引いてこの道を見回る。転がっている瓦礫はどけ、動かせない大きさのものは場所を覚えておく。暗いなかで担架を引いても、つまずかずに済むようにするためだ。
通路の端で、何かが日の光を跳ね返した。
指先ほどのガラスの欠片だった。チトセは担架を止め、手袋をはめた手でそれを拾って腰に下げた布袋へ入れた。
「……それ、誰の」
「分かりません」
チトセは袋の口の紐を絞った。
「瓦礫が動くと、ときどき出てきます。いつの、どなたのものかは分かりません。それでも拾います」
袋の底には同じような欠片がいくつも沈んでいた。どれもあの番号のない箱に入っていく分だ。
少し先の道の脇に、根元から折れた標識が倒れていた。『第四区画 指定避難経路』。九月の夜に歯医者の壁で見たのと同じ書式の標識だ。チトセはここを通るたびに足を止めるのだという。この日も担架を止め、標識の前に立った。
「どうして、ここで止まるんだ?」
「ここで、四人の方を拾いましたから」
チトセは標識に小さく頭を下げ、また担架を引きはじめた。ミナトは黙ってそのあとを追った。
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昼、チトセは三度目の襲撃の日に医療班から借りたままだった担架を、第一防衛線の裏手の平屋へ返しに行った。
中には、二度目の襲撃の日に小林サキの担架の脇で手を止めていた白衣の医師が、二人ともそろっていた。黙って担架を受け取ったあと、一人がチトセの手袋に目を留めた。擦り切れて糸がほつれている。その医師は何か言いかけたが、口を閉じて奥へ戻っていった。
平屋を出たところで、チトセが足元の瓦礫に足を取られた。
体を支えようと崩れたコンクリート壁の角に手をつく。手袋の縁と袖口のあいだにのぞいていた左の手首が、角に擦れて裂けた。赤い血がにじんでくる。
ミナトは咄嗟にチトセの腕を掴んで引き起こしたが、魔力が抜けていく感じは少しもしなかった。
「……大丈夫です」
「血が出てるぞ」
「切れば、血は出ますから」
チトセは左の袖をまくり上げた。前腕に、古い包帯が巻かれたままになっている。サキの箱を内地へ送り出した朝、袖口からのぞいていた包帯だ。
少しずらすと、古い傷が今日の傷のすぐ隣に並んだ。
古いほうはようやく赤黒いかさぶたになりかけたところだった。縁は赤く腫れている。透明なガラスも、白く濁った結晶も、どこにも見当たらない。
この三週間でミナトが見てきた裂け傷は、どれも縁からガラスに変わっていた。リンの肩も、サキのすねも、三日前のB級の子のすねも。
「……結晶化してない」
「しませんから」
チトセは今日の傷を袖口で押さえた。
「魔法を使えないので、身体から削れるものがないのだと思います」
「普通に治るのか?」
「はい、普通に治ります。ただ、とても時間がかかります。十日前の傷も、まだこのとおりですから」
この十日間、チトセはその腕で担架を引いてきた。
「治りますから」
チトセはそう言って、通路のほうへ歩き出そうとした。
ミナトは追いついて、その小さな手を握った。
チトセは目を丸くしたが、手を振りほどこうとはしなかった。握られたまま、ミナトの顔を見上げている。
「三番の肩は二十秒で肌に戻ったんだ。……試させてくれ」
チトセは迷うように少し間を置き、小さくうなずいた。
五番の腕にしたように、ミナトはもう片方の手を今日の傷のすぐ脇に当てた。
「くっ……」
傷口に手が触れるかと思い、チトセは一瞬体を固くする。
三十秒たち、一分たった。今日の切り傷からは血がにじみ続け、十日前のかさぶたもそのままだ。
「……何も感じません。温かくなると、聞いていたのですが」
チトセが言った。
この世界で目を覚ました日、病室でヒサメも「……何も流れてこない」とつぶやいた。何も起きていないことは同じでも、あのときのミナトは空っぽだった。今は違う。今朝の補給のあと、医官の測定では80%が残っていた。これだけ満ちているのに、指先ひとつぶんも伝わっていかない。
ミナトは一度両手を離して、もう一度片手で手を握り直し、もう一方の手を傷の脇に当て直した。しかし、何も変わらなかった。
「医官のところへ行こう」
「私は構いませんが……」
「俺が知りたいんだ」
チトセは自分の手首を見下ろし、うなずいた。
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医官は二人の手首に計器を巻き、三分のあいだ黙ってモニターを見ていた。
「使用量ゼロ。魔力の移動はありません」
「どうしてだ」
「分かりません」
医官は首を横に振った。少し考え、言葉を選びながら推測を口にする。
「魔法少女の体には、魔力を受け取る器官があります。受信機です。ミナトさんの原初魔力も、おそらくそこを通って入っていくのでしょう。単因子型の方には、その受信機がありません。あくまで推測ですが、通り道がなければ、どんな力も届かないのでしょう。……単因子型に関する研究資料は封印指定になっていて、私の権限では閲覧できませんので」
「封印指定……」
「長官直轄です」
チトセは丸椅子に腰かけ、手首の計器をじっと見ていた。医官は今日の傷を消毒して包帯を巻く途中で、十日前の傷に目を留め、しばらく手を止めた。
「……傷が自然に治癒していく人間を、この基地に来て三年、初めて診ました」
包帯の端を留めながら、医官は少し低い声で付け加えた。
「怪我が普通に治るというのは、本来なら当たり前のことです。この特区では、それが異常に見えてしまうだけで」
チトセは頭を下げて礼を言い、地下の回収室へ下りていった。
ミナトは処置室の前の廊下に残った。
順位表に名前のある子なら、S級でもA級でも手を握れば結晶は引いていく。順位表に載らないB級の子でも、規定の外で手首を握ってしまえば引いた。サキでさえ手首までは肌の色が戻った。
チトセにだけは届かない。どの等級にも入れられていないのに、最初から手の届く範囲の外に置かれている。前線にいながら、ミナトが何ひとつしてやれない相手はチトセ一人だ。
試させてくれと頼んだとき、チトセは驚きながらも手を預けたままでいた。何も起きないことを初めから知っていて、それでもミナトの気が済むまで握らせてくれたのだ。
廊下の曲がり角に、ヒサメが立っていた。いつからそこにいたのかは分からない。ヒサメはミナトに目をやり、チトセが下りていった階段の奥へ視線を移した。
「あの子の手も、握ったのね」
「握ったよ。何も起きなかった」
「……そう」
ヒサメは短く息を吐いた。肩のあたりからわずかに力が抜けたように見えた。ヒサメはそれきり何も言わず、廊下を引き返していった。
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夕方、早瀬に聞いていた神社へ行ってみた。
回収の要請がない日は、チトセがそこを掃除しているのだという。早瀬は鳥居の外で足を止めた。居住区の東の端、防壁のすぐ内側に取り残された神社だ。石灯籠は倒れたままで、手水舎の水もとうに涸れているのに、境内だけはきれいに掃き清められていた。
チトセは竹箒を手に、境内の奥を掃いていた。腕を動かすたびに、左の手首に巻いた新しい包帯が袖口からのぞく。
ミナトは古い絵馬掛けの前に立った。雨風にさらされて墨の薄れた絵馬が、何十枚も重なって下がっている。読めるものを一枚ずつ拾い読みしていくうちに、どれも同じ形をしていることに気づいた。無事なお産を願う言葉のあとに、決まって同じ一行が添えてある。
『女の子でありますように』
字の読める絵馬には、一枚残らずその一行があった。
「……これは」
「男の子を身ごもると、生まれる前に亡くなってしまうので」
チトセは箒の手を止めずに答えた。
「お母さんの命まで危なくなると聞いています。ですから、女の子でありますように、と書くのです。お母さんたちが男の子を憎んでいたわけではないと思います。……私は、そう信じています」
ミナトはもう一度絵馬を端から見ていった。何十枚もの絵馬が風に揺れている。どの一枚も願いが一行書かれたきりで、書いた母親の名前も、これから生まれてくる子の名前も、そこにはなかった。
チトセが掃き寄せた落ち葉の山を、ミナトは足元の塵取りへ寄せてやった。乾いた葉が縁に当たって、かさかさと鳴る。
「毎日、ここを掃いてるのか?」
「回収の要請がない日は。……ここには、もう誰もお参りに来ませんから」
「誰も来ない場所を、どうして掃除するんだ」
「神主さんは、特区ができたときに内地へ移られたそうです。私が掃かないと、誰も掃かないので」
チトセは竹箒と塵取りを境内の隅の物置へしまうと、絵馬掛けを振り返った。
「名前の書かれた絵馬を、私はここで一度も見たことがありません」
チトセはそう言うと、袖口を引き下ろして包帯を隠し、鳥居のほうへ歩いていった。
ミナトは日の暮れかけた境内に残り、絵馬掛けのいちばん端の一枚に指先で触れた。墨はほとんど消えかけていて、二行目だけがかろうじて読めた。
翌朝もミナトは七時に回収室へ下りた。
紙片の貼り替えなら、力が届かなくても手伝える。何枚目かを貼り終えたころ、チトセが机を離れて棚の片隅の箱の前に立った。ミナトも手を止め、黙ってその隣に立った。毎朝、一度だけ。
やがてチトセは作業机へ戻り、鉛筆を手に取った。ミナトは次の紙片を受け取りに、そのあとについていった。




