第六話 用途不明
三度目の襲撃までの五日間、ミナトは毎日回収室へ下りた。
早瀬は毎回医療棟の地下まで付いてきて、鉄の扉の脇でミナトが出てくるのを待っていた。部屋の中ですることは決まっている。チトセが湿気で字の掠れた紙片を新しい紙に書き写し、ミナトがそれを受け取って棚の箱に貼り直す。古いほうはセロハンテープごと剥がして作業机の引き出しにしまう。新しい紙片を貼るたびに、ミナトは名前と年齢を一度だけ口の中で読んだ。手伝いと呼べるほどの量ではないが、チトセは一度も断らなかった。そのかわり口数が増えることもなく、冷えた部屋では鉛筆の芯が紙を走る音とテープを千切る音が代わる代わるしていた。
ヒサメは三度目の警告をしなかった。夜になると廊下のパイプ椅子はいつもの場所に出ている。ミナトが部屋に戻る足音を聞いても、ヒサメは顔を上げもせず、回収室の話を持ち出そうとはしない。
医官は毎朝、補給が終わるとノートに数字を書きつける。五日のうちのある朝、ペンを動かしていた医官が一度だけ顔を上げた。
「ノートにはですね、用途不明と記す欄があるんですよ」
「……なんの話だ?」
「あなたの魔力が規定の補給以外で減ったときのための欄です。計器はこれから、出動のあいだもずっと着けていてもらいます。減った理由が分からなければ、用途不明と書くしかありません。そう書いて通せるのは、出動一回につき10%まで。超えたら、もう通せません」
「通せなくなったら、どうなるんだよ」
「書類に書けない出来事は、最初から起きなかったことにするしかありません」
二度目の襲撃の日、ミナトは計器を手首に巻かずに医療班へ走り、小林サキの手を握った。だから外させないのか、とミナトは思った。
医官はノートを閉じ、補給で使った計器をケースに収めた。ミナトのほうはもう見ずに、次の書類を引き寄せていた。
---
三度目の襲撃の日の朝、ミナトは宿舎三階の廊下の窓から広場を見下ろしていた。
朝の走り込みを終えたA級の五人が、ヒサメの前に一列に並んでいる。何か短く言い渡されるたびに、いっせいに散って広場の端まで駆け、また戻ってくる。窓ガラス越しでは号令の声までは届かず、乾いた土を蹴る足の動きだけが見えた。朝日を受けた五つの頭には、それぞれ違う量の銀が混じっていた。半分近くまで色の抜けた子もいれば、一房だけ抜けた子も、細い束がひと筋だけの子もいる。
列の右端の少女に、ミナトは見覚えがあった。二週間前、左肩を裂かれて処置室へ運ばれてきた三番だ。三階の窓からでも顔の見分けがつく。その肩を、今は列の誰よりも大きくぐるぐると回していた。
「三番の子は、氷堂さんの小隊ですよ」
後ろに控えていた早瀬が言った。
「A級の五人は、全員が氷堂隊か火神院隊のどちらかに入っています。三番と六番が氷堂隊で、四番と五番と七番が火神院隊ですね。……実を言うと、私も名前まで知っているのは三番の子くらいなんです」
「早瀬さんでも知らないのか?」
「隊員は魔法少女を識別番号か階級で呼ぶことになっていますから。名前で呼び合うのは同じ小隊の仲間うちだけです。決まりというわけではないんですが、ここにいるとみんな自然にそうなっていくんです」
広場のヒサメがもう一度何か言った。五人はそろって敬礼し、宿舎のほうへ小走りで戻ってくる。その途中で三番の少女だけが、傷ひとつない右手の甲を、何か嫌なものでも貼りついているかのように見つめながら走っていた。
---
三度目の警報は、昼下がりに鳴った。
『未生獣警報、レベル二。第四区画。担当部隊は直ちに出動。補給班は第二防衛線へ移動してください』
警報でレベル二と聞くのは初めてだった。数字が小さいほど敵の規模も小さいのだと、第二防衛線へ向かう装甲車の中で早瀬が教えてくれた。これまでの二回はレベル三とレベル四だ。
補給拠点の監視窓から見えるのは、赤い光の柱が一本と、建物のあいだを這う白い冷気の霞がひとところだけで、前の二回よりずっと少ない。柱はカグヤの炎で、霞はヒサメの氷だ。泣き声は五つか六つで、耳で数えられるほどだった。無線のやりとりにも急いた調子はない。言われたとおり、ミナトの手首には宿舎を出るときから計器が巻かれていた。医官は机の上でノートを開き、ときどきその針に目をやっている。
処置室の扉の脇には、ミナトが初めて補給拠点に詰めた日と同じ隊員が立っていた。三番を番号で呼ぶ理由をミナトが尋ねたとき、『識別番号の方が伝達速度が速いためです』と答えた隊員だ。今日も無線機を握って直立している。顔はもう覚えたが、名前はまだ聞きそびれている。
戦闘が始まって二十分ほどで、扉が叩かれた。この日、処置室に入ってきた担架は、結局その一台きりになる。
「三番、右手甲に結晶化。進行中」
担架の上にいたのは、今朝広場で自分の手を見つめていた三番の少女だった。右手の甲の十円玉ほどのところが、透きとおったガラスになっている。ミナトがその手を両手で包むと、数秒で薄れて消えた。
「1%も使っていませんね。ですが規定どおり、記録上は5%の補給として処理します」
医官がノートにペンを走らせ、担架を運んできた隊員が持ち手を握り直した。運び出される直前、ミナトは思わず声をかけていた。
「……名前、なんて言うんだ?」
少女は不安そうに扉の脇へ目を走らせた。無線機を手にした隊員は、こちらを見ずに手元へ目を落としている。
「……番号で名乗るよう、指導されていますので」
「俺が知りたいだけなんだ。教えてくれないか」
少女は眉を寄せ、左手で右手の甲をぎゅっと押さえたまま、少しのあいだ迷っていた。結晶はもうどこにもないのに、指の腹で何度もそこをさすっている。
「……石田リン、です。十七歳になります」
順位表の三番の横で、一度は読んだはずの名前だった。襟元の名札には『石田』とだけ刻まれている。
「リンか。三番って呼ばれるより、ずっといい名前だな」
「……あの、ミナトさん。噂で聞いたんですけど……本当に、B級の子のところまで走ってくれたんですか?」
リンは担架の上で顔を上げていた。
「……行ったよ」
「助けが、間に合わなかったって」
「……ああ。間に合わなかった」
リンは天井に目を向けて、担架の上でしばらく唇を噛んでいた。
「……私たちだって、来月には対象外に放り出されるかもしれないんです。査定の改定は毎月ありますから。もしA級から滑り落ちたら、その瞬間にもう手は握ってもらえなくなる。……今、三番なんかに甘んじてる私が口にしていいことじゃないですけど」
「言っていいよ。我慢しなくていい」
「言ったって、どうにもならないのは分かってます。でも……あなたが走ってくれたって聞いたとき、もしかしたらって、ほんの少しだけ救われた気がしたんです。……ただの、自分勝手な思い込みですけど」
間に合わなかった話で救われたと言われて、ミナトはどう返せばいいのか分からなかった。言葉を探しているうちに担架が動きだし、リンは部屋の外へ運ばれていった。扉の脇の隊員は、最後まで無線機から目を上げずにいた。名乗るところは聞かなかったことにしたらしい。
石田リン、とミナトは口の中で一度だけ繰り返した。
次に来た七番の少女は、担架に乗らず自分の足で歩いてきた。左のすねに、指先ほどの結晶がぽつんと浮いている。ミナトが手を取ると、握ったそばから消えていった。
「名前、聞いてもいいか?」
七番は小さく首を横に振った。
「私は番号で十分です」
ミナトはうなずいて七番を送り出した。名乗りたい子もいれば、名乗りたくない子もいる。
外の泣き声は、一時間もたたないうちに途絶えた。
---
戦闘が終わると、回収係が前線を通る。
第一防衛線の裏手から第二防衛線のゲートまで、担架を一人で引いて歩くのだ。載せてくるのは、砕けた子の破片を収めた箱ばかりとは限らない。医療班の担架に乗りきれなかった軽傷の子も、回収係が拾って運んでくるのだと早瀬から聞いていた。前線の医療班は、いつも人手が足りていない。
ミナトは早瀬と補給拠点を出て、ゲートの脇まで歩いた。しばらくすると、B級の少女を乗せた担架を、チトセが小柄な体で引いてくるのが見えた。
間近まで来ると、少女の白と紺のコートがあちこち擦り切れているのが分かった。意識はあって、薄く目を開けていた。左のすねに雑に巻かれた包帯の端から、透きとおった結晶がのぞいている。七番のすねにあったのと同じ、指先ほどの大きさだ。手を握っていれば消せる。
ミナトは駆け寄り、黙って担架の反対側の持ち手を持ち上げた。早瀬は一歩下がってミナトの後ろについた。防壁の内側で担架を持つぶんには、規則違反に当たらない。
後ろの脚がコンクリートの割れ目にかかって、担架が大きく傾いた。少女の細い腕が枠の外へ滑り落ちかける。ミナトは咄嗟にその手首を掴んで担架の上へ戻し、そのまま握っていた。片手で持つ担架はずしりと重く、持ち手の金具が指の付け根に食いこんでくる。前を引くチトセの肩は、一歩ごとに小さく上下していた。
補給拠点までは、百メートルほどある。
歩きはじめてしばらくすると、少女がおそるおそる自分の足元を見た。包帯の端の結晶が、見る間に薄くなっていく。目を見張った少女に横顔を見上げられても、ミナトは前を向いたまま足を運んだ。
「道が荒れてて揺れるから、落ちないように掴んでるだけだ」
少女は何も言わず、前で担架を引くチトセも、後ろからついてくる早瀬も、口を開こうとしない。三人の歩く速さが、いつのまにかそろっていた。
補給拠点の前で担架を下ろしたときには、すねの結晶はすっかり消えていた。少女はゆっくり身を起こし、信じられない様子で自分のすねを撫でた。それからミナトに向かって、首だけで小さく頭を下げた。
一度目の襲撃の夜、掲示板の前でサキに会釈されたとき、ミナトは返すのが一拍遅れた。今度はすぐにうなずき返せた。
少女は駆けつけてきた医療隊員に肩を借り、居住区へ続く道をゆっくり歩いていった。その細い背中を見送っているうちに、ミナトは名前を聞いていないことに気づいた。手首を握って5%を流しこむことで頭がいっぱいで、聞くこと自体を忘れていた。
今度こそはと思ったものの、B級の子の名前は順位表に一行も載っていないし、次にいつ会えるのかも分からない。
---
補給拠点に戻ると、医官がミナトの手首の計器に目をやり、すっとノートを開いた。
「……5%、減っていますね」
「担架が、思ったより重かったんだよ」
医官はミナトの顔をしばらく見ていた。それから、迷う様子もなくペンを動かした。
「——用途不明、と」
医官は書いたばかりの字に目を落としたまま、ペンを置いた。
「……10%までですよ」
「ああ、分かってる」
「分かっているなら、二度と言わせないでください」
そこへ、処置室の扉が勢いよく叩かれた。
「一番、入ります」
入ってきたヒサメのコートの肩で、霜が溶けて細かな水の粒になっていた。目立つ怪我はない。医官が「数値は満です」と言い終える前に、ヒサメはもう左手を差し出していた。
「規則だから」
ミナトはその手を握った。指先まで冷えきっている。ヒサメは目を閉じて深く息を吐き、いつもの三分のあいだじっと手を預けてから、自分で手を離して机の上のノートに目を落とした。医官が書きつけたばかりの字を、上からゆっくりと目でなぞっていく。
「……用途不明、ね」
「担架が、本当に重かったんだ」
「そう。ずいぶん重労働だったのね」
ヒサメは返事のかわりに、さっきまでB級の少女の手首を握っていたミナトの右手をじっと見た。
次に扉が叩かれたかと思うと、外の隊員が番号を読み上げる前に、カグヤが自分で扉を押し開けて入ってきた。
火傷に布が触れないよう、右の袖を肘の上でつまみ上げている。二の腕の白い肌に、赤く焼けた跡が帯になって走っていた。焦げた匂いがかすかにする。ガラスになったところはどこにもない。
「魔力を出しすぎちゃったのよ。リミッターぎりぎりまで出力を上げると、最近腕が焼けるように熱くなるの。……前はこんなこと、なかったのに」
「それ、俺の手を握れば治るのか?」
「治るわけないでしょ、ただの火傷なんだから。ねえ医官、これってノートのどの欄で処理するのよ」
「通常の補給の管轄外ですね。あとで医療班で軟膏を受け取ってください」
「あっそ。どうせそんなことだろうと思ったわ」
カグヤは左手の手袋を乱暴に引き抜き、ミナトの手をぎゅっと掴んだ。大きく息を吸い、奥歯を噛みしめて壁の一点を睨む。押し戻す結晶はどこにもなく、二分のあいだ、ミナトの手からはただ温かさがカグヤのほうへ流れていく。
「……石田、って言ったの?」
壁を睨んだまま、カグヤが聞いた。
「……誰から聞いた」
「扉の前で待たされてたんだから、嫌でも耳に入るわよ。担架を担いでた隊員たちが話してたの。三番の子の名前でしょ」
「石田リン。十七歳だってさ」
「……知らなかったわ」
カグヤはぱっと手を離し、手袋を素早くはめ直した。
「もう三ヶ月も同じ前線で背中を預け合ってきたっていうのに。私、三番の名前すら今の今まで知らなかった。……今日で二人目よ。顔を合わせていながら、名前を知らなかった子が」
「一人目は……誰なんだ」
「あの日砕けた、B級の子よ」
カグヤは扉のほうへ歩きながら、ミナトのほうを見ずに言った。
「私ね、余計なことなんて何も知らないまま戦ってる方が、ずっと楽だと思ってたの。……今だって、半分はそう思ってるわよ。でもね、残りの半分は……そうでもないのかもって、少しだけ思っちゃったのよ。……月末の査定改定まで、あと十六日だからね」
言い終えると、カグヤは扉を蹴って出ていった。
---
装甲車が第二防衛線を離れると、早瀬が口を開いた。
「担架、ずいぶん重そうでしたね」
「……ああ。すごく重かったよ」
「司令部への報告書にも、そう書いておきます。『運搬作業の補助を行ったため、疲労が見られた』と」
早瀬は膝の上の無線機にそっと手を添えた。
「私には監視と警護の義務がありますから。担架が重かったのは紛れもない事実ですし、事実だけをありのまま報告します。……ミナトさんが誰の手首を握っていたかなんて、私は一切見ていませんでした。ずっと、担架のバランスだけを見ていましたから」
「……ありがとう、早瀬さん」
「お礼を言われるようなことではありませんよ。私はただ、後ろを歩いていただけですから」
装甲車が鈍く揺れて、防壁のゲートをくぐった。ミナトは右手を開き、もう一度ゆっくり握った。あの子に5%を流した手だ。擦り切れたコートも、左のすねに雑に巻かれた包帯もはっきり目に浮かぶのに、あの子を呼ぶ名前だけが出てこない。
---
その夜、夕食を済ませて三階へ上がると、廊下の蛍光灯の下でヒサメがいつものパイプ椅子に座っていた。
「三番の名前を聞き出したそうね」
「……石田リンだ」
「知っているわ」
ヒサメは廊下の先の暗がりに目を向けたまま、表情も変えずに言った。
「あの子は私の小隊員よ。名前なら全員分知っているわ。年齢も、出身地も、受信機が開いてしまった日のことだって。……ただ、口にしないだけ」
「それも、自分がすり減るからか」
「そうよ。すり減るから。……最初から何も知らずにいようとするのと、知っていてあえて口を閉ざすのは、全然違うのよ。カグヤは知らないままでいようとする側。私は、知っていながら言わない側。どちらの生き方がより楽かなんて、私にも分からないけれど」
ヒサメは椅子の上で座り直した。
「でも、あなたは違うわね。自分から聞いて、覚えて、そうやって自分の心をすり減らしていく側の人間よ」
「……俺のこと、すり減ってるように見えるか?」
「まだね」
ヒサメはそう言って、また廊下の先を見た。
ミナトは部屋に入り、扉を閉めた。上着を椅子の背に掛けたとき、左手の指の付け根に赤い筋が残っているのに気づいた。担架の持ち手の金具が食いこんだ跡だ。医官のノートに今日一行だけ増えた用途不明の四文字が誰の分なのかを、医官も早瀬もヒサメも聞いてこなかった。ミナトは右手の親指でその筋をなぞり、明かりを消した。




