第五話 私が困るので
処分はなかった。
サキが砕けた翌々日の朝、補給を終えたばかりの処置室で医官が長官からの指示を読み上げた。補給班の護衛を一名増やす。ミナトの外出は隊員一名の同行があれば第一防衛線より内側に限って認める。以上。
「お咎めなし、ってことか?」
「閉じ込めておくより、目を行き届かせる方が確実だという判断です」
医官はノートをぱたんと閉じた。
「長官の言葉ですよ。私の意見ではありません」
十月最初の襲撃の夜、この医官は補給拠点の処置室で、すねを裂いたサキを「境界線の問題です」と言って医療班へ回させている。
「じゃあ、医官自身はどう思ってるんだよ」
「私は境界線の上に立っているだけの人間です。線の引き方に私情を挟む余地はありません」
医官は小さく息を継いでから言い足した。
「……挟まないように決めているんです。この三年間、ずっとそうやって職務をこなしてきましたから」
補給そのものは、いつもの順番で済んでいた。ヒサメが三分。それからカグヤ。
このごろは左手にだけ黒い手袋をはめて来る。外すのはミナトの手を握る直前で、離せばすぐにはめ直す。素手になっているあいだも、白く濁った三本の指先はミナトがどれだけ強く握っても肌の色に戻らない。カグヤは自分の指には目もくれず、前より少し高いところにある壁の一点を睨んでいた。
医官が指示を読み終えると、カグヤは手袋の端を手首のほうへぐいと引き、吐き捨てるように言った。
「月末の改定まで、あと三週間よ」
「きっちり一番を取り返してみせるわ。そうしたら、あんたの手なんて毎朝の義務以外で握る必要もなくなるんだから」
「朝は握る気なんだな」
「規定で決まってるんでしょ。義務よ、義務」
カグヤは扉のノブに手をかけたところで、ぴたりと動きを止めた。振り返らず、背中を向けたまま低い声で聞く。
「……B級の子。本当に、砕けちゃったの」
「……ああ。砕けた」
「……そう」
金属のノブを握った左手に力がこもり、手袋の甲に指の骨の形が浮いた。
「B級なんて、名前も顔も知らない連中ばかりよ。そんなの、最後まで知らずにいればいいって……そう思ってたのに」
カグヤはノブを回して出ていった。いつもなら蹴って開ける扉を、今朝は手で押していた。
ヒサメは椅子に座ったまま、閉まった扉をしばらく見ていた。やがて目を自分の手元に戻して言う。
「処分が下りないのは、長官があなたを持て余していない証拠よ。本当に困っているなら、すぐに新しい規則で縛るわ。そうしないで護衛を増やしたのは、あなたがどこへ向かうのかを確かめたいからよ」
「確かめて、どうするつもりなんだ」
「さあね。あの人は、ただ知りたいだけなのかもしれないわ」
ヒサメはそれ以上は何も言わずに椅子を立ち、処置室を出ていった。
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食堂はしんとしていた。
もともと騒がしい場所ではないが、今朝は器を置く音さえ控えめだった。B級の卓の端に、席がひとつ空いている。トレイを持った少女が二人、その席の前で足を止め、目を見交わしただけで隣の卓へ移っていった。
空いた席の向かいには、あの日、医療班の担架で顔を覆っていた少女が座っていた。包帯はもう取れている。少女は皿に目を落としたまま箸を動かし、目の前の空席を一度も見なかった。
小隊長らしい少女が不意に立ち上がった。何か言うのかと思ったら、自分の食器を重ねて返却口へ運んでいった。献立は昨日と同じで、入口の掲示板の順位表も一字も変わっていない。二枚目のいちばん下には、今朝も『B級以下は補給の対象外とする』の一行がある。B級の子たちはその前を素通りしていく。
ミナトは通路を挟んだ反対側の卓から、それを見ていた。耳にかぶさる黒髪を指でかき上げる。ここへ来てから二週間、一度も切っていない髪だ。指を離すと、すぐにまた耳の上へ落ちてくる。
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朝食のあと医官に呼ばれて処置室へ戻ると、机の脇に隊員が一人立っていた。今日からの外出の同行役だという。
二度目の襲撃の日、補給拠点を飛び出したミナトを追いかけてきた女性隊員だった。
年は二十代の半ばくらいに見える。髪は自然な黒のままだ。魔法少女たちの白と紺のコートとは違う飾り気のない灰色の制服を着て、腰に無線機と拳銃を提げていた。防衛軍の正規兵だ。
「名前、聞いてもいいか?」
ミナトが尋ねると、隊員は少し目を見開いた。名前を聞かれるとは思っていなかったらしい。
「……早瀬です」
「早瀬さん。この前は、急に走り出して悪かった」
「もう無茶に走らないでくだされば結構ですよ」
早瀬は苦笑いを浮かべ、腰の無線機の位置を直した。
「あのときは本当に肝が冷えました。全力で走っていく人を追いかけるなんて、訓練でもやったことがありませんから。軍のやり方だと、止めるなら制圧するか撃つかの二択なんです。そのどちらもしてはいけない相手の後ろを、ただ走るしかないなんて……正直、勘弁してほしいと思いましたよ」
「もう走らないよ」
「ぜひそうしてください。私の足腰のためにも」
真顔のまま言うので、冗談なのかどうか分からなかった。
ついでに、机でノートをつけていた医官にも名前を聞いてみると、顔も上げずに答えが返ってきた。
「私のことは医官とお呼びください」
「名前くらい、あるだろ」
「ええ、ありますよ。ですが、名前で呼ばれ慣れてしまうと、引くべき境界線が鈍りますから」
医官はそこでペンを止めた。
「私の仕事は、計器の数値を読んで記録して、決められた規定をお伝えすることです。名前で呼び合う相手に『規定ですから』と告げるのは、番号で呼んでいる相手に告げるよりずっとこたえるんです。ですから、私はただの医官でいいんです。これまで、それで不都合はありませんでした」
「……本当に、平気なのか?」
「平気なのだと、自分に言い聞かせているだけですよ」
医官は穏やかな声のまま言い終え、ペンを持ち直してノートの次の行に何か書きつけた。
線を引いたのは長官で、引き直せるのも長官だけだ。この先を聞けば、名前で呼ばせないというこの人の線まで削らせることになる。ミナトは黙って医官の手元を見ていた。
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早瀬と並んで、居住区の中を歩いた。
十月の風は乾いていて、防壁の影に入ると首筋がひやりとする。宿舎と医療棟と食堂、訓練用の広場、それに特務省の庁舎。今日まで、ミナトが足を踏み入れたことのある場所はそれで全部だった。早瀬は端末の地図を見ることもなく先に立ち、角を曲がるたびに行き先を短く教えてくれた。倉庫に車両整備棟、その先に候補生たちの宿舎がある。
「候補生の宿舎って、こっちにあったのか」
「私の妹がいるんです」
早瀬は前を見たまま、ぽつりと言った。
「今年で十二歳になります。去年の適性検査で、受信機が開いてしまって」
「……妹さんがいるから、早瀬さんも軍に?」
「魔法少女を一人でも出した家には、内地の居住権が下りるんです。食料や物資の配給も優先されます。うちの家族も、去年から内地で暮らしています。私がこの特区で隊員をしているのは、妹のそばにいたかったから。……本当に、それだけの理由ですよ」
早瀬は腰の無線機に手を添え、目を前に向けたままでいる。ミナトは短く相づちを打つだけにして、早瀬の隣を歩いた。
候補生宿舎の横を通りかかると、二階の窓から体操着の少女が三人こちらを見下ろしていた。早瀬が胸の前で小さく手を振る。真ん中の小柄な子がぱっと顔を明るくして、窓枠から身を乗り出すほど大きく手を振り返してきた。
「あの子が、私の妹です」
早瀬の口元がわずかにゆるんだ。妹の髪は艶のある黒で、銀は一筋も混じっていない。まだ一度も魔法を使ったことのない髪だった。
「……妹さんが前線に出るのは、怖くないのか?」
「怖くてたまりませんよ」
早瀬は歩く速さを変えずに答えた。
「だから軍に入ったんです。いつか前線に送られる日を遠い内地で震えながら待つくらいなら、いちばん近くで見ていたい。……そう思って志願したんですけどね。それが本当に妹のためになっているのか、今でも分かりません」
窓の三人は、ミナトたちが角を曲がるまで手を振っていた。
候補生宿舎を過ぎたところで、ミナトは足を止めた。
「回収係のいるところにも、行けるか」
早瀬は少しだけ間を置いた。
「医療棟の地下です。居住区の中ですから、規定の範囲ですね」
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冷えきった階段を地下まで下りると、突き当たりに分厚い鉄の扉があった。部屋の名前を書いた札はどこにも掛かっていない。早瀬は扉を二度叩き、返事を待たずに押し開けた。自分は戸口の脇に残り、ミナトだけを中へ通す。
部屋の空気はひやりと冷たく、薬品の匂いがかすかにする。天井の蛍光灯が一本、低く唸っていた。造りは倉庫そのもので、壁際に金属の保管棚が並び、その上に銀色の角箱が整然と置かれている。黒い数字の識別番号を刷った札が、名前のある箱にはどれも貼られていて、そのすぐ下に手書きの紙片がセロハンテープで一枚ずつ留めてある。
三段目の棚に見覚えのある名前があった。小林サキ。鉛筆で一画ずつ丁寧に書いてある。
ミナトはその前で足を止めた。閉じた蓋の下には、医療班でチトセがたたんで入れた紺色のコートの襟がある。
チトセは部屋の奥の作業机にいた。湿気で字の掠れた古い紙片を脇に置き、新しい紙へ鉛筆で書き写している。棚の前で立ち止まったミナトに気づくと、鉛筆を止めた。
「……ここにある間だけ、なんですよ」
「何がだ?」
「その、名前を書いた紙です。内地のご遺族へ送るときには剥がして、識別番号の札だけになります。ご家族に届く戦死通知書にも、識別番号しか載っていません。ですから、ご家族は番号で受け取ることになります」
「……どうして名前を書いてやらないんだよ。遺族に送るんだろ」
「ご家族なら、言われなくても我が子の名前くらい知っていますから」
「じゃあ、この紙は誰のために貼ってあるんだ」
チトセは小さく首をかしげた。鉛筆の先は、紙の上で止まったままだ。
「誰のため、というわけではないです。ただ……ここに預かっている間くらい、番号だけで呼ぶのは……」
チトセは言葉を探すように目を動かした。合う言い方が見つからなかったのか、飾り気のない声で短く言った。
「私が、困るので」
チトセは机に向き直り、また鉛筆を動かしはじめた。
ミナトは棚の箱を端から順に見ていった。二十の箱に、二十枚の紙片。小林サキのほかは知らない名前ばかりで、どれにも小さな数字で年齢が書き添えてある。十五、十六、十七、十六。どれもミナトより若い。
「……この子は?」
ミナトが十五と書かれた紙片を指さすと、チトセは手元から目を上げずに答えた。
「田村ユイ。十五歳。B級第一小隊所属でした。先月の戦闘です」
九月、ミナトがこの世界に来るより前に、この子はもう箱に入っていた。
「こっちの子は」
「佐藤マイ。十六歳。A級の四番でした」
「A級の魔法少女も、ここに来るのか……」
「ええ、来ますよ。順位表の上の方に名前がある人も、載せてもらえない人も、全身が砕けてしまえばみんな同じ箱に入ります」
鉛筆が紙をこする音が、一定の速さで続いている。
「この箱の規格は、階級に関係なく全員同じですから。中身の重さも、誰のものでもほとんど変わりません」
「サキの箱は、いつ送り出すんだ?」
「明日の朝の定期便です」
「明日? ずいぶん早いんだな。先月の子の箱だって、まだここにあるのに」
「身元と手続きが済んだ箱から、順に送ります。手続きが止まっている箱は、ここに残ります」
ミナトは三段目の棚に目を戻し、小林サキの紙片をしばらく見ていた。
「……運ぶの、俺にも手伝わせてくれ」
チトセはそこで初めて、机から顔を上げた。
「結構、重いですよ」
「知ってるよ。あの日、俺も担架を持ったからな」
チトセは返事のかわりに、明日の便が出る時刻を告げた。朝の補給が終わってすぐの時間だった。
翌朝、言われた時刻に早瀬と回収室へ下りた。
サキの箱を台車に載せるところから、ミナトが手を貸した。小柄なチトセが一人で抱え上げるには、どう見ても無理のある重さだ。箱が台車に収まると、チトセは紙片をそっと剥がし、作業机の引き出しを開けた。剥がしたものも書き写して用済みになった古いものも、何十枚と重ねてしまってある。
「それ、ずっと取っておくのか?」
「ほかに、捨てる場所がありませんから」
チトセは小林サキの紙片をいちばん上に重ね、引き出しを閉めた。
搬送口は地上にある。荷物用の昇降機で台車を上げると、幌をかけたトラックが荷台の後ろを開けて待っていた。荷台には、ほかの区画の回収室から集めてきた同じ形の箱が、もういくつも並んでいる。朝の空気は冷たく、排気の匂いが混じっている。制服の運転手は、手元の伝票にサキの箱の識別番号だけを書き写した。名前の欄は、どこを見ても見当たらない。
「……あんな番号だけで、ちゃんと家に届くのか?」
「届きますよ。番号で照合されますから」
チトセはトラックの巻き上げた土埃が消えるまで、ゲートのほうを見ていた。それから何事もなかったように作業着の袖口を引っぱって整えたが、その拍子に左の前腕の包帯がのぞいた。
「おい、怪我してるじゃないか」
「回収の現場で、少し。崩れた瓦礫に引っかけただけです」
「見せてみろよ。すぐに手当てを——」
「平気です。たいした傷ではありませんから」
チトセは袖をさっと下ろして包帯を隠し、言い聞かせるように付け足した。
「自然に治りますよ。……ほかの人たちより、少し時間はかかりますけど」
時間はかかる、という言い方が耳に引っかかった。一度目の襲撃で左肩を裂かれた三番は、翌朝には傷が塞がっていたと医官から聞いている。魔法少女の体は驚くほど早く治る。そのかわり、傷口からガラスに変わっていく。チトセの言う「治る」が肉の塞がる治り方なのか、ガラスに変わる治り方なのか聞こうとしたときには、もう軽く頭を下げて、空の台車を地下へ押していくところだった。
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宿舎の階段を三階まで上がる途中で、後ろをついてきていた早瀬が口を開いた。
「……単因子型の子は、昔からああいう扱いなんです」
「ああいう扱いって、どういうことだ」
早瀬は少しのあいだ口をつぐみ、報告書を読み上げるような調子で続けた。
「十歳前後になると、全員が適性検査を受けます。受信機が開いていれば魔法少女の候補生に、開いていなければそのまま市民として家に帰されます。でも単因子型の子だけは、どちらとも違う枠に振り分けられるんです。候補生にはなれない。かといって、内地の暮らしに戻されることもない。行き先は、ああいう回収係か特務省の裏方の事務員です」
「どうして市民に戻してやらないんだよ。魔法が使えないなら、普通に暮らしたっていいだろ」
「それは分かりません。私が物心ついたころから、ずっとそういう決まりなんです」
早瀬はそれきり、黙って段を上がっていく。
「早瀬さんは……あいつのこと、どう思ってるんだ」
「いつも担架が重そうで、大変そうだなと思っていますよ」
早瀬は踊り場で足を止め、ミナトをまっすぐに見た。
「それ以上のことは、思わないようにしているんです。あの医官と同じですよ。……この特区で暮らしている大人は、たいていそうやって毎日をやり過ごしています」
早瀬は先に立って残りの段を上がり、三階の廊下の手前で振り返った。ミナトが部屋の扉を閉めるまで、早瀬はそこから動かずに立っていた。
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その日の夜も、部屋の前の廊下にはパイプ椅子を出したヒサメが腰掛けていた。
九月の終わりにこの宿舎へ移った夜から、椅子は毎晩同じ場所に出ている。扉を開けて目が合ったことは何度もあるが、椅子に座ったヒサメと言葉を交わしたことは、これまで一度もなかった。
「……毎晩、こんなところで何やってるんだ」
「警護よ」
「あんたの部屋、すぐ隣だろ。わざわざ外にいなくても」
「ここにいる方が、いざというときの迎撃が確実でしょう」
ヒサメはミナトと目を合わせず、蛍光灯に白く照らされた向かいの壁を見ていた。ミナトは自分の部屋のノブを握ったまま、扉を開けずに立っていた。
「回収室に行ったそうね」
「……ああ。行ってきた」
「あの箱を見たの」
「見たよ。棚に二十、並んでた。……今朝、そのうちのひとつを送り出した」
ヒサメは膝の上に置いた左手をぎこちなく握りこみ、ゆっくりと開いた。
「あのうちの三つは、私の部隊にいた子たちよ。去年の冬の防衛戦でね。……名前は教えてあげないけれど」
「名前を口にすると、自分がすり減るからか?」
「そうよ。すり減るから」
ヒサメは顔を背けたまま、冷えた声で言った。
「あそこへ通うのはもうやめなさい。あなたの身が持たなくなるわ」
「それ、前にも言われたよ」
「誰に」
「あんたにだよ。あの日、装甲車の中で」
ヒサメは小さく息を呑み、唇を噛んだ。しばらくして、諦めたように細く息を吐く。
「……そう。私、すでに二度も警告していたのね」
「二度、しっかり言われた」
「なら、三度目はもう言わないわ。あなたはどうせ聞き入れないでしょうから」
ミナトは扉を押し開けて部屋に入った。
明かりはつけずにベッドの端へ腰を下ろし、ここ数日で新しく知った名前を指折り数えた。早瀬、チトセ、小林サキ、田村ユイ、佐藤マイ。全部で五つある。棚に残った十九の箱のうち、名前まで知っているのは二つだけで、残りの十七人は紙の端の年齢しか覚えていない。
九月の夜にこの世界へ放り出されたときには、ひとつも持っていなかった名前だ。ミナトは折った指を開かずに、膝の上で握ったままにしていた。
廊下のパイプ椅子は、夜が明けるまで一度もきしまなかった。




