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未生獣 〜十八の冬を越えた魔法少女はいない〜  作者: 春凪一


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第四話 小林サキ、十六歳

 朝の補給は、三分になっていた。


 最初の三日、ヒサメは二分きっかりで自分から手を離していた。補給が始まって四日目の朝、医官が「二分です」と声をかけると、ヒサメは「数値が安定していない」と返して手を離さず、もう一分握り続けた。それからは毎朝同じやりとりが繰り返されている。計器の針はいつも上限に張りついていて、数値はどう見ても安定していた。医官もそれを分かったうえで、ノートに目を落としたまま何も言わずにいる。


 カグヤの手順は変わらない。深呼吸をして、掴んで、壁を睨み、離して、自分の手を見る。ただ、補給に来るころには、その指先が小刻みに震えるようになっていた。夜明け前から広場で火を出す訓練をしているのだと、処置室を出たところでヒサメが教えてくれた。


「改定は月末よ。それまでに測定値を上げる気でいるの」


「上がるのか、そんなことで」


「上がるわ。使えば使うほど魔法は強くなるから。……髪の色も抜けるけど」


 ヒサメは腰まで届く自分の銀髪には目もやらずに言った。



 ある日の昼、ミナトは広場を横切る途中で、走り込みをしている隊列とすれ違った。B級の小隊らしい。列のいちばん後ろに、耳の後ろに一筋だけ銀の束が混じった黒髪の少女がいた。右脚をわずかに引きずっているのに、前の子との間をあけずについていく。


 向こうもミナトに気づき、走りながら小さく顎を引いてみせた。最初の襲撃の夜、掲示板の前で会釈をくれた子だ。


 すねの結晶は止まったのだろう、とミナトは思った。医官も、たいていは止まると言っていた。名前を聞くなら今だという考えが頭をかすめたが、隊列を止めてまで聞くことでもない気がして、ミナトは足をゆるめずに通り過ぎた。


---


 二度目の警報は、最初の襲撃からちょうど一週間後の午後に鳴った。


『未生獣(アオロイ)警報、レベル四。第六区画。全部隊出動。B級三個小隊は第一防衛線に配置。補給班は第二防衛線へ』


 レベル四は、ミナトがこの世界に来た夜に聞いたのと同じ数字だった。


 補給拠点の監視窓の向こうには、前回は一本だった赤い光の柱が二本立ち、それとは別に、白く霞んだ一帯が低く広がっている。赤ん坊のような泣き声は、十を超えたあたりで数えきれなくなった。


 処置室の無線からは、途切れることなく声が流れ続けている。


『氷堂(ひょうどう)隊、中央。火神院(かぐいん)隊、東。A級は各隊に随伴。B級は第一防衛線を維持せよ』


 開戦から十分ほどたったころ、扉が叩かれはじめた。


「三番、右腿。進行中!」


「五番、左前腕。進行中!」


「六番、脇腹。進行中!」


 担架は五分とあけずに運び込まれてきた。三番の手を握ると、流れたものが腕を上り、体の中を回ってから右腿の傷へ下りていくのが手のひらで分かった。ガラスが退きはじめるまでに二十秒あまりかかる。


 五番は手首のすぐ上から肘まで透けていた。ミナトは五番の手を握ったまま、待ちきれずに空いているほうの手を前腕のガラスの縁に当てた。


 手のひらの下で、縁が目に見えて退いていった。体を回りこんでいた流れが、当てた手のほうへまっすぐ寄ってくる。十秒とかからずに、前腕は肌の色に戻った。


「今のは」


 医官が計器から顔を上げた。


「振れは同じです。早さだけが違います」


 医官はノートに何か書き足した。六番の担架が運びこまれると、ミナトは片手で六番の手を握り、もう片方を脇腹のガラスの縁に当てた。こちらも数えるほどのあいだに消えた。


 三番が10%、五番が10%、六番が15%。医官が数字を読み上げ、ノートの上をペンが走る。名前を名乗る者は一人もいないし、ミナトのほうにも尋ねる暇がない。


 四人目は、自分の足で歩いて入ってきた。


 付き添ってきた隊員が「二番——」と読み上げかけたところで、低い声がそれを遮った。


「その呼び方——」


 カグヤだった。隊員はかまわず読み上げを続ける。


「二番、左手。手首まで進行中。それと……」


 隊員はそこで言葉を濁した。カグヤは自分の手で扉を閉め、左手をミナトの前に突き出した。


 手首から先が、すっかりガラスになっている。それより目を引いたのは指先だった。人差し指と中指と薬指の三本だけ、第一関節から先が曇りガラスのように白く濁り、向こう側が透けて見えない。


 ミナトはすぐにその手を両手で包んだ。手首から肌の色が戻りはじめ、手の甲、指の付け根、指の腹へと広がっていく。そして第一関節まで来たところで、ぴたりと止まった。


 握り直しても、力を込めても、白い指先はびくともしない。


「結晶化が完了しています」


 医官が告げた。


「もう元には戻りません」


 医官はペンを持ったまま、白い指先を目で示した。


「透明なうちは進行中、白く濁れば完了です」


 カグヤは自分の指先を見下ろしていた。白いのは三本とも、爪とそのすぐ下までだ。


「……レベル二なら、戻るの?」


「前例がありません。氷堂さんの腕は欠損であって、結晶化の完了ではありませんでしたから」


 カグヤはしばらく唇を噛んで黙っていた。やがて付き添いの隊員に向き直り、いつもの調子をどうにか取り戻して言った。


「手袋を持ってきて。左手だけでいいわ」


 手袋が届くまで、カグヤは左手を背中に回していた。ミナトにも医官にも、その手を見せようとしない。隊員が駆け足で持ってきた黒い手袋を左手にだけはめると、カグヤは扉を蹴りつけるようにして開け、戦場へ戻っていった。


 その直後、無線から切迫した声が飛び込んできた。


『第一防衛線、B級第三小隊、負傷三名! うち一名、胸部まで結晶化! 医療班では対応不能、回収係を要請する!』


「回収って……」


 ミナトは振り返り、壁際に控えていた護衛の隊員を見た。灰色の制服を着た若い女性で、腰に無線機を提げている。


「戦死者の……回収係です」


「まだ死んでないだろ! 負傷って言ったじゃないか!」


「……胸まで達していたら、もう助かりません」


 隊員はそう言って目を伏せた。


 ミナトは椅子を鳴らして立ち上がった。


「どこだ」


「第一防衛線の裏にある医療班です……ミナトさん、いけません! ここを離れないでください!」


「この前の三番の肩も、さっきの腿も、10%で戻せたんだ!」


「B級は補給の対象外です! それに、あなたがいないあいだに一番や二番が運ばれてきたらどうするんですか!」


「手を握るだけだ。すぐに戻る!」


 ミナトは扉を押し開けた。隊員が慌てて前に回り込み、両腕を広げかけて途中で止めた。ミナトには素手で触れるなと命じられている。隊員にできるのは、体ごと進路に立ちはだかることくらいだ。


 ミナトはその脇をすり抜けた。背後で医官が無線に向かって何か叫んでいる。隊員は追ってきたものの、やはり手は出せずに横に並んで走った。


「せめて走らないでください!」


 第二防衛線のゲートを抜けると、二重の防壁に挟まれた通路に出た。泣き声がいっぺんに耳元まで迫ってくる。空気は肌を刺すほど冷たく、路面にはヒサメが魔法を使ったあとの白い霧が低く這っていた。


 医療班の平屋は、第一防衛線のすぐ裏手に建っていた。開けっぱなしの扉の奥から、せわしない声が漏れてくる。


 床には担架が三つ並んでいた。手前の二人は意識があり、包帯を巻かれている最中だ。いちばん奥の担架の脇には白衣の医師が二人立っていたが、どちらも手を動かしていない。


 近づいたところで、ミナトは息を止めた。黒髪に、耳の後ろの銀の束。


 コートの前が開かれていた。ワンピースの襟もとからのぞく肌は、喉を越えて顎の下まで白く濁りきっている。顔だけはまだ元のままで、見開いた目がぼんやりと天井を映している。


 右手だけが、人の肌の色を残していた。その手首の内側から手のひらへ、透明な縁がじわじわと下りてきている。


 ミナトが床に膝をつくと、少女は目だけを動かしてミナトを捉えた。唇がかすかに震えたが、声にはならなかった。


「結晶化が完了しています」


 医師の一人が、医官とそっくりの平らな調子で言った。


「胸と喉はすでに。手首から先は進行中ですが——」


 ミナトは少女の右手を取った。


 握った指先から透明な縁が引きはじめ、手のひらから手首のもう少し上まで肌の色が戻っていく。けれど白く濁った境目の手前で止まり、握り直しても力を込めても先へ進まない。透明なところは消えたのに、白いところは白いままだ。


 少女はまだミナトを見ていた。かける言葉を探したが、あのすねの傷は、あの日の三番の肩よりも範囲が狭かったはずなのに、とは口に出せなかった。担架の上から「すみません。間違えて運ばれただけです」と言った声は、耳に残っている。けれど名前は知らない。本人には一度も聞かずにきたからだ。


 不意に、小さな音がした。


 氷の割れる音だった。交差点の夜、ヒサメの背後で聞いたのと同じ音だ。ただ今度はずっと小さく、すぐ目の前で鳴った。


 少女のまぶたが落ちた。自分で閉じたのか、閉じかけた形のまま固まったのか、ミナトには見分けがつかない。


 握っていた手が、指の形をなくしていく。


 担架の上にガラスの破片が散らばった。いくつかは音を立てて転がり、いくつかは細かな粉になって崩れる。紺色のコートの襟だけが、元の色のまま布の上に残った。


 手前の担架で手当てを受けていた少女が、両手で顔を覆った。肩が細かく震えている。包帯を巻く医師の手は止まらない。


 ミナトはその場から動けずにいた。膝の下で、ガラスの破片がじゃりと鳴った。


 背後の扉が開いた。


 入ってきたのは小柄な少女だった。美しい黒髪を首の後ろでひとつに束ねていて、その黒には銀が一本も混じっていない。肌は陶器のように白く滑らかだ。目鼻立ちは驚くほど整っているのに、表情はほとんど動かない。折り畳んだ担架と金属の箱を、護衛もつけずに華奢な腕で抱えている。


 医師たちは少女に声をかけず、少女のほうも誰にも話しかけない。医師の脇を通り抜けてミナトの隣まで来ると、静かに膝をついた。


 少女は散らばった破片を見下ろし、見なくても分かっているはずの襟元の名札にも、一度だけ目を落とした。


「小林サキ(こばやし さき)。十六歳。B級、第三小隊」


 低く澄んだ声だった。誰かに話しかける口ぶりでもない。医官が測定値を読み上げるときと同じ調子で、少女は数字の代わりに一人の名前を読み上げた。


 厚手の手袋をはめ、金属の箱の蓋を開けると、大きな破片からひとつずつ拾いはじめる。


「……知ってたのか」


 ミナトの声はかすれていた。


「はい」


「友達だったのか」


「いいえ」


「じゃあ、どうして名前を」


 少女は破片を拾う手を休めずに答えた。


「回収するので」


 そこで少しだけ間を置き、言葉を足した。


「言わないと、誰も言わないので」


 ミナトは布の上に残った襟を見た。『小林』とだけ刻まれた名札がついている。姓だけだ。あの夜、補給拠点の扉の脇の隊員は、これを見て等級を確かめた。あのときミナトは、その名札に目を向けようともしなかった。


「俺は……知らなかった」


「名札には姓が書いてあります」


 責める響きは少しもない。いっそなじられたほうがずっと楽だったと、ミナトは思った。


 破片は箱の半分ほどを埋めた。細かな粉は、少女が持ってきた刷毛で丁寧に掃き集められていく。最後に少女は襟元から名札を外して箱に入れ、紺色の襟を小さくたたんでその上に重ねた。蓋を閉め、広げた担架に載せる。


 前の持ち手を両手で握り、少女は持ち上げようとしたが、少しも浮かない。ガラスは重いのだ。少女は握った手を離さず、床の上を引きずって進みはじめた。


 ミナトは考えるより先に、反対側の持ち手を掴んでいた。


 少女が顔を上げ、初めてまっすぐにミナトを見た。


「触れてはいけないと聞いています」


「担架越しなら問題ないだろ」


 少女は少し考えてから、小さく頷いた。二人で持ち上げると、背丈が違うせいで担架が斜めに傾く。ミナトは腰を落として、どうにか水平に保った。


 医療班の建物を出ると、追いかけてきた隊員が入口の脇に立ち尽くしていた。もう止めようとはせず、腰の無線機を口元に寄せて「対象を発見。無傷です」と短く報告する。


 二重の防壁のあいだを、担架を挟んで歩いた。泣き声は少しずつ遠のき、そのぶん白い霧が濃くなっていく。


「名前、なんていうんだ」


 今度はミナトのほうから尋ねた。


「チトセ」


「チトセ。俺はミナトだ」


「知っています」


 数歩進んでから、チトセがぽつりと付け加えた。


「全員が知っています」


 後ろをついてきていた隊員が、足を速めてミナトに耳打ちした。


「ミナトさん。その子は単因子型(モノ・コード)ですよ」


「なんだそれ」


 隊員は口をつぐんだ。チトセは前を向いたまま、担架の持ち手を握り直した。


「生まれつきの体質です」


 チトセが自分から言い添えた。


「魔法が使えません。だから回収係をしています」


「そうか」


 ミナトにはそうとしか返せなかった。魔法が使えないのは、自分も同じだ。


 隊員はそれきり黙りこみ、三人ぶんの足音だけが通路に響いた。



 第二防衛線のゲートをくぐった先に、ヒサメが立っていた。


 白と紺のコートの肩口に、霜がうっすらと積もっている。怪我はどこにもない。補給拠点から出てきて、ここで待っていたらしい。ヒサメはミナトから担架へ、担架からチトセへと順に目を移し、最後にもう一度ミナトを見た。


「どこに行っていたの」


「B級の医療班だ」


 ヒサメは担架の上の金属の箱に目をやったが、そのことには何も触れずに口を開いた。


「護衛の対象が勝手に消えたら、誰の責任になると思っているのよ」


 低く、硬い声だった。


「……戻ったら、いなかったから」


 続いたひと言は、さっきよりもかすかに震えていた。何を言われたのか、ミナトにはすぐには呑み込めなかった。


「報告は私が上げておくわ」


 ヒサメの視線を受けて、チトセは担架を持った姿勢のまま小さく頭を下げた。ヒサメは何も言わずに脇へ退き、道を譲った。


 補給拠点の前まで来ると、チトセは担架をそっと地面に下ろした。


「ここからは一人で運べます。段差はありませんので」


「重いだろ」


「引きずっていけますから」


 チトセは箱を載せた担架の持ち手を握り、防壁の内側の通路を一人で引いていった。コンクリートをこする音が、少しずつ遠ざかっていく。護衛はつかず、呼び止める者もいなかった。


---


 帰りの装甲車で、ヒサメは向かいの座席に腰を下ろした。


 一週間前の車では目を閉じていたヒサメが、今日は目を開けたまま、窓のない鉄の壁をじっと見ている。


「名前は、聞かないほうがいいわ」


 車が走りだしてしばらくたってから、ヒサメはそう言った。


「覚えると、減ってしまうから」


「何が」


「自分がよ」


 ヒサメは壁から目を離さずに続けた。


「候補生宿舎にいたころ、同じ部屋に六人いた。昔は全員の名前を覚えていたわ。でも、今はもう呼べない。思い出そうとすると、自分が削れていく気がするの」


 ミナトは何も言い返せずに、床の鉄板の継ぎ目を見ていた。宿舎に着くまで、二人とももう口を開かなかった。


 その夜、医官のノートには『使用量55%』と書き込まれた。処置室で握った四人の分だ。医療班でサキに流した分は計器を通していないから、どこにも記録が残らない。


 扉の向こうの廊下では、今夜もヒサメのパイプ椅子が小さくきしんでいる。ミナトはベッドに入り、目を閉じる前に、声には出さずにその名前を繰り返した。


 小林サキ。十六歳。


 自分が減るというなら、減ってしまえばいい。そう思いながら、ミナトは心の中でもう一度その名前を呼んだ。


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