第十話 長官印
神社での出来事があってから三日のあいだ、何も起きなかった。
処分が下りないのは、これで二度目になる。一度目はサキが砕けた日。ミナトは補給拠点を飛び出し、サキの運ばれた医療班まで走っていった。今度は、今日こそ庁舎へ呼ばれると身構えて毎朝目を覚まし、そのたびに肩すかしを食った。
朝の補給も、いつもどおりに済んだ。医官は計器の数値を読み上げてノートに書きつけ、ヒサメは三分、カグヤはきっちり二分、ミナトの手を握った。離すとすぐ、カグヤは左手に黒い手袋をはめ直す。順位表は貼り替えられず、食堂の献立表も先週と同じ並びのままだった。後方に未生獣が出た件は、廊下のスピーカーが一度だけ「後方区画の安全を確認」と流したきりだ。触れずにおくのが、この居住区の作法になっている。
ただ、食堂で少女たちがミナトを見る目は少し変わった。配膳の列でミナトのうしろについた子が半歩ぶん間をあける。向かいの卓では二人が顔を寄せて何か言い交わし、ミナトと目が合うと、そろって皿に目を落とした。あれを見失わせる男を、少女たちは遠くから確かめるように見ている。
「何も言われないな」
食堂を出たところで、ミナトは隣を歩く早瀬に言った。
「何も言われないことこそが、最大の返答ですよ」
早瀬は歩く速さを変えずに答えた。この三日も、早瀬はいつもと同じように居住区の見回りをこなし、神社のある東の端だけは避けて通っていた。
四日目の朝、朝食を済ませて玄関を出ると、宿舎の前に見慣れない車が停まっていた。
装甲車ではない。白い小ぶりな乗用車だ。内地の道を走っているほうが似合いそうな車で、居住区の乾いた砂ぼこりのなかでは妙に浮いて見えた。運転席のドアが開き、早瀬が降りてきた。
「補給班の公務外出です。申請書を出しておきました」
「申請って、誰に?」
「長官です。決裁が下りました。ツムギさんの産院にも、昨日のうちに伝えてあります。今朝十時に伺う、と」
早瀬は一枚の用紙を差し出した。いちばん上に「外出許可証」と刷ってある。行き先の欄は空白のままで、有効期間の欄には「当面」とだけ書かれていた。右下には、朱色の印がくっきりと押してある。長官印だった。
特区の外へ出るには、この長官の許可証が要る。
「行き先が真っ白だけど」
「記入欄はあります。空欄のままでも受理されました。書かれていない以上、私にも分かりかねます」
早瀬は許可証を丁寧に折りたたみ、ジャケットの内ポケットにしまった。
「帽子とマスクをお願いします。若い男の人が昼間の町を歩いていたら、たちまち人だかりができますから」
「もし集まったら?」
「集まらせないよう対処するのが、私の任務です」
早瀬は眉ひとつ動かさずに、用意してあった帽子とマスクをミナトに手渡した。
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防壁の切れ目に、内地との境のゲートがあった。
早瀬は車を停め、窓越しに許可証を差し出した。受け取った警備の隊員はひととおり目を通し、車の中をのぞきこむ。助手席のミナトを見て、最後に早瀬の顔をしばらく見つめ、朱肉の印影に指先でそっと触れてから、黙って遮断機を上げた。
ゲートを抜けると、町が広がっていた。
見たところ、元の世界とほとんど変わらない。交差点の信号が規則的に色を変え、角のコンビニには明かりがついていて、歩道を人が行き交っている。九月の夜、夕飯を買ったのと似たような店構えのコンビニだった。マスクの内側に自分の息がこもる。
ただ、歩いている人が違った。買い物袋を提げて歩くのも、自転車をこぐのも女ばかりだ。バス停のベンチにいた男は、頭の薄くなった年配の人だった。母親に手を引かれた子どもは、どの子も女の子だった。
赤信号で停まると、隣に並んだ車の運転席の女がこちらに顔を向けた。帽子とマスクのあいだからのぞくミナトの目元に気づいたとたん、身を乗り出してまじまじと見つめてくる。信号が青に変わっても、その車はしばらく停まったままでいた。
「四十年、ですか」
ハンドルを握ったまま、早瀬がつぶやいた。ミナトが何か言うより先に言葉を継ぐ。
「私も、男の子を見たことがないんです。写真でしか。母の卒業アルバムには、男の子が半分くらい写っていました。男と女が半々なのが、当たり前だったころの写真です」
「早瀬さんのお母さんは、災害の前に生まれたのか」
「災害が起きた年に十歳でした。処置の制度ができた年に十一歳です。……母は私を身ごもる前に、一度流産しています。男の子でした。処置ではなくて、判定を受ける前に自然に……。名前は与えられませんでした」
早瀬は前の信号から目を離さずにいた。
「母がその話をしてくれたのは、妹の受信機が開いた日でした。あの日、母が声をあげて泣いたわけも、その話を聞いて初めて分かりました」
候補生宿舎の窓から大きく手を振っていた、あの妹のことだ。
ミナトは返す言葉を探したが、どれも口に出す前に軽く思えた。こういうときは下手な相づちを打たないほうがいいと、この一ヶ月あまりで覚えた。窓の外を、色づいた街路樹が次々にうしろへ流れていった。
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産院は住宅街の奥まった一角にあった。
車を降りると水の音がした。三階建ての建物の裏を細い川がゆるやかに流れていて、遊歩道の柵ごしに診察室の窓が並んでいる。外壁の看板には、翼を広げた鳥のレリーフがあしらわれていた。
早瀬は表へ回り、一歩先に立って正面の玄関を入った。
待合室のソファには、妊婦が四人腰かけていた。ミナトが入っていくと、四人ともいっせいに顔を上げ、すぐに気まずそうに目を伏せる。帽子とマスクで顔は隠せても、背の高さや肩幅までは隠せない。一人が隣の妊婦に何か耳打ちし、耳打ちされたほうが小さく首を横に振った。
壁ぎわの丸椅子には、付き添いの夫が二人座っていた。どちらも髪がすっかり白く、一人は膝のあいだに杖を立てている。
白い壁にポスターが一枚貼ってあった。
『胎児の性別判定は妊娠二十週までに。男児と診断された場合の処置は、母体の生命を守るための正当な医療行為です。適正な検査は、あなたと、あなたのご家族の未来を守ります』
下のほうには小さな字で、判定を受けられる指定検査機関の名前が並んでいる。内地全体で四つしかない。この産院もそのなかにあった。
隣にはもう一枚古い紙が残っていた。日に焼けて黄ばみ、四隅のテープがめくれかけている。
『進化は、選ぶことから。』
どこが出したものなのか、紙のどこにも書いていない。何年もそこに貼られたきりになっているように見えた。新しいポスターと同じテープで、同じ壁に留めてある。
待合室のいちばん奥のベンチに、母親に寄りそって座る女の子がいた。五つか六つくらいで、ふっくらしたお腹に小さな手を当てている。女の子はミナトをじっと見つめてから、母親のコートの裾を引いた。
「ママ。あの人、男の子?」
「しっ、いけません」
母親はあわてて娘の口元を手のひらで覆った。そうしながら、自分もミナトの様子をうかがっている。女の子は指の隙間から、目を丸くしてミナトを見つづけていた。
この子が知っている男は、みんな四十を過ぎた大人のはずだ。五つか六つの子にとっては十八の自分も「男の子」になるのだと思うと、ミナトは少しおかしかった。帽子のつばを指で持ち上げ、小さく手を振ってみせる。女の子ははにかんで母親の背中に隠れ、そこから右手だけを出してちょこんと振り返してきた。
受付で早瀬が小声で何か告げると、二人はすぐに奥へ通された。ツムギは診察室の奥にある処置室で待っていた。
付き添いの助産師は年季の入った白衣を着ていて、ミナトを見るなり手にしていたクリップボードを胸に抱え直し、ツムギのほうへ目を移した。
「……この方が、例の?」
「はい。ただ、手を握っていただくだけですので」
「握るだけ、ねえ……」
助産師は眉を寄せたまま、丸椅子を一脚引き寄せてミナトに勧め、そのまま足早に部屋を出ていった。扉は閉めきらず、廊下に立つ早瀬の姿が見えるくらいに開けておいた。
ツムギはベッドに横たわり、右手を差し出した。ミナトはその手をそっと包んだ。
神社のときと同じだった。ツムギのこわばっていた肩から、ふっと力が抜ける。
「……この四日間、まったく痛まなかったんです」
ツムギは天井を見上げたまま、穏やかな声で話しはじめた。
「神社に行く前は、毎日ずっと、お腹の下のほうが重くて痛くて。主治医の先生には、安定期に入るころにはよくあることだからって言われて、諦めていたんです。でも、あの日からは一度も……」
「今はどうですか」
「今も、すごく楽です。……あ」
ツムギは空いているほうの手をお腹の下のほうに当てた。
「動いてる。あなたが触れてくれると、ちゃんと動くんです」
神社の日に医官がノートに書いた一行が、ミナトの頭に浮かんだ。暫定的な魔力毒の兆候。
「痛みが消えていた四日間、ずっと胎動はあったんですか」
「ええ、ときどき。神社で感じたほどはっきりじゃないですけど。……主人がお腹に耳を当てては、まだ何も聞こえないよって笑うんです。早すぎるって分かっているのに、毎晩欠かさず確かめてくれて」
ツムギが目を細めて笑うと、お腹の奥の命がまた小さく応えたらしい。ミナトの手の中で、ツムギの指先がぴくりと動いた。
十分ほどそうして手を重ねていた。
医官の試算では、今の週数なら週に一度握れば足りるという。お腹が大きくなれば間は詰まる。医官はそこまでしか言わない。線を引くのは長官だ。
助産師が戻ってきて、ツムギのお腹に超音波のプローブを当てた。モニターにざらついた白黒の像が浮かぶ。ミナトにはどこが頭でどこが背中なのか見分けがつかない。ツムギは首を少しひねって、その像をいとおしそうに見つめていた。
「検査、受けないのね」
助産師がモニターから目を離さずに言った。ツムギは唇を結んで、白黒の像を見つめている。
「うちは勧めるところまで。決まりだから」
助産師はプローブをホルダーに戻し、ツムギの肌に残ったゼリーを丁寧に拭きとった。
「二十週を過ぎたら、こちらから検査を勧める義務もなくなるの。……あと四週ね」
あと四週。ミナトは胸の中でその数を繰り返した。
助産師はすれ違いざまにミナトの顔へ目をやったが、何も言わずに部屋を出ていった。
ツムギはベッドに横になったまま、しばらく白い天井を見ていた。
「私の祖母も、母も、この産院でお産をしたんです」
「そうなんですか」
「母は私を授かる前に、一度流産していて。男の子だったそうです。……名前は付けられなかった、と聞かされていました」
ツムギは両手でお腹を包むようにして続けた。
「名前がなかったんじゃなくて、名前を呼ぶこと自体が許されなかったんだって、大きくなってから知りました。母はその話をするたびに、私の頭を撫でながら、どこか遠くを見ていて」
行きの車で聞いた早瀬の母親の話と、同じ形をしていた。
「ミナトさんは、本当はどちらからいらした方なんですか」
ツムギがふいに聞いてきた。
「……線路の下を通る地下道の、向こう側です」
九月の夜、ミナトが抜けてきたあとの入口は、古いコンクリートで塞がれていた。
「向こう側……」
「男の子が当たり前に半分産まれる世界です」
ツムギは黙ってミナトの顔を見ていた。それ以上は聞かずに、重ねていた指先をきゅっと握り返してきた。
処置室を出ると、早瀬と並んで廊下の壁ぎわに立っていた助産師が、ミナトを頭のてっぺんから足もとまで眺めて声を低くした。
「あなた、一体何者なの? ……いえ、詮索は野暮ね」
「補給班の随行員です」
早瀬が横から答えた。「補給班ね」と、助産師は口の中で繰り返した。
「当院の役目は命を取り上げることだけよ。分娩に至る前のプロセスについては、規定に沿って検査の受診を促すことしかできない。それ以上の干渉は、過去四十年間一切行ってこなかったわ。……これからも、余計な真似をするつもりはないわよ」
ミナトが返事に迷って目を向けると、早瀬は助産師の横顔を見たまま、小さくうなずいた。
「来週も来るつもりなら、裏手の川沿いから入りなさい。正面玄関は人目が多すぎるわ。裏の戸なら、午前中は鍵を開けておくから」
早口でそう告げると、くるりと背を向けて診察室の奥へ戻っていった。
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やがて行く手に灰色の防壁が見えてきた。帰りのゲートでも、隊員は許可証の印影を指で確かめただけで遮断機を上げた。早瀬は行きのような話はしなかった。
「早瀬さん」
「何でしょうか」
「……ありがとう」
「私は職務に従ってハンドルを握っただけです」
早瀬は宿舎の前の駐車スペースに車を入れ、エンジンを切った。
「来週も公務として運転を担当します。車を出す申請書の行き先欄も、空白のままで出しておきます」
早瀬はシートの脇から小型のバインダーを取り出した。表紙に「運行記録」と印字されている。出発の時刻、帰着の時刻、走った距離。早瀬はペンを走らせて手早く欄を埋め、バインダーを膝に置いた。
「早瀬さんは、今日のことを上に報告するのか」
「報告は職務のうちです。……ただ、行き先の欄が空白ですから、行き先については報告のしようがありません。車を出した事実だけを伝えます。運行した、という結果だけを」
「それで上は納得するのか」
「神社の日の報告書も、三日前に受理されました。今回も同じように処理されるはずです」
早瀬はバインダーから許可証の写しを一枚抜いてミナトに渡し、ドアを開けた。降りぎわに、ミナトのほうは見ずに言った。
「長官印を押印するのは長官ご本人です。決裁を下された意図について、私が言及する立場にはありません。それを尋ねるための書式も存在しませんから」
ミナトは車に残ったまま、渡された写しを見下ろした。行き先は空欄、期間は当面、右下には朱色の長官印。なぜこの判が押されたのか、ミナトに確かめる手立てはない。
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宿舎の玄関をくぐったところで、前線の点検から戻ってきたヒサメと鉢合わせた。
ミナトの帽子とマスクに目を留めると、ヒサメは両手と顔にも目を走らせた。
「どこへ行っていたの」
「少し散歩してきた」
「……そう」
ヒサメは短く答え、コートの襟もとを指で直した。目はミナトから外さない。
「外は寒かった?」
「……ああ、寒かったよ」
「そう」
ヒサメは目を伏せ、廊下の奥へ足早に歩いていった。
その夜、食堂から戻ると、廊下のいつものパイプ椅子にヒサメが座っていた。
ミナトが自分の部屋の扉に手をかけたところで、ヒサメが口を開いた。
「散歩をするのに、帽子とマスクは要らないはずよ。この居住区の中を歩くだけなら」
「……そうだな」
「そういうものが要るのは、特区の外の、内地の町へ行くときだけよ」
「理由は聞かないわ。詮索はしない。一度決めた規律は守る」
「……ありがとう」
「規律は守るけれど、外が寒かったかどうかを尋ねるくらいの権利はあるでしょう」
「……寒かったよ。思ってたより、ずっと」
ミナトはそう答えて、部屋の扉を閉めた。




