第十一話 重体になればいいのね
月末の測定は、十月三十一日の夕方に広場で行われた。
ミナトは宿舎三階の廊下の窓からそれを見ていた。下りていくことは許されていない。測定のあいだ広場に入れるのは、測られる少女と医官と計器だけだという。西に傾いた日が広場の土を赤茶けた色に染めていた。
A級の五人が先に測られた。一人ずつ広場の真ん中に立ち、奥に据えた的に向かって魔法を放つ。風が的を裂き、光が的を焦がした。石田リンの番では、的がひとりでにまっぷたつに割れた。医官は計器をのぞいては数字をノートに書きとめていく。五人とも書かれた数字を見に行こうとはせず、列に戻ってじっと立っていた。
次にヒサメが進み出た。
「——【絶対零度】」
窓ガラス越しに届いていた物音が、すっと遠のいた。的が白く凍りつき、霜がうしろの壁を覆い、地面を這って広場の半分を埋めたところで止まった。医官は計器の目盛りを見つめたまま、しばらくペンを動かさずにいた。やがてノートに一文字だけ書き入れる。「超」だった。
最後にカグヤが立った。
右手を上げる前に、左手の黒い手袋を外す。人差し指から薬指までの三本の指先が夕日を受けて白く濁って見えた。カグヤはその指に目もくれず、右手を高く掲げた。
「——【紅蓮】」
火柱が噴き上がった。ミナトのいる三階の窓を越え、四階の高さまで伸びていく。熱気が押し寄せ、ミナトの目の前の窓ガラスがびりびりと震えた。広場の霜は一瞬で消え、的は跡形もなく吹き飛んで、奥の壁が黒く焦げついた。
ほかの少女たちが見に行かなかった数字を、カグヤだけが確かめに行った。医官の脇からノートをのぞきこみ、しばらく動かずにいたが、やがて手袋をはめ直して宿舎のほうへ戻ってくる。うつむいていて顔は見えない。いつもは大股で歩くカグヤが、足もとを確かめるように一歩ずつ土を踏んでいた。
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十一月一日の朝、順位表が貼り替えられた。
食堂の入口に並んだ二枚のうち、一枚目の上の二行は先月と同じだった。一番、S級、氷堂ヒサメ。二番、S級、火神院カグヤ。その下のA級は、四番と五番が入れ替わっていた。リンは三番のままだ。
入れ替わった二人はどちらも火神院隊の子で、同じ部屋で寝起きしている。四番に上がった子は紙を見るとそのまま食堂へ入っていき、五番に下がった子は紙の前に立ちつくしたあと、食堂に背を向けて廊下を引き返していった。その日、二人は部屋で一言も口をきかなかったと、ミナトはあとでリンから聞いた。
二枚目の規定は変わっていない。違うのは、一枚目の右上に小さな数字が書き添えてあることだった。月末の測定の話をしたとき医官が言っていた欄が、今月から加わっている。ヒサメの欄には「上限超」とだけある。カグヤの欄には「上限の98%」とあった。
カグヤはその紙の前に、長いこと立っていた。
十月の四度目の襲撃の日、補給拠点で、わざと怪我をするような真似はやめろとミナトが言うと、カグヤは「やめるかどうかは、月末の結果を見てから決めるわ」と返した。
先月の貼り出しの朝には「再測定させるわ」とヒサメに食ってかかったカグヤが、今朝は振り返りもしない。紙を見終えると食堂へ入り、トレイに朝食を取って席につき、ひと言もしゃべらずに箸を動かした。
それが声を張り上げるより悪い兆しだと、このときのミナトはまだ知らずにいた。少女たちは知っているらしく、カグヤの前後の席には誰も座ろうとしない。離れた席を選んだ子たちは、それを気取られないようにわざとトレイを持ち直したりしていた。
「2%、足りなかったのね」
隣の卓からヒサメがミナトにだけ聞こえる声で言った。
「98%。腕を三回焼いて、先月から3%上げたのよ」
「実際に上げたんだろ」
「ええ。上がらないのは、私のほうの数字よ。計器の目盛りが私の手前で終わっているから」
ヒサメは味噌汁をひと口すすり、椀をトレイに戻した。
「目盛りの先にいる限り追いつけないと知っていて、あの子はあと2%と言い続ける。……そういう子よ」
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貼り替えのあった朝なので、補給は朝食のあとに回された。
一番のヒサメが三分を終えて壁ぎわへ下がると、カグヤが丸椅子に腰を下ろした。左手の手袋に指をかけたまま、外さずに医官のほうを向く。
「医官。レベル二を申請するわ」
医官はノートから顔を上げた。
「レベル二は重体時に限られます。長官の規定です」
「上限の98%よ。あと2%で追いつくのに、私はあと何回、指を白く濁らせればいいのよ」
「規定は変えられません」
カグヤは手袋を引き抜き、白く濁った三本の指先を医官の前に突き出した。
「重体になればいいのね」
医官のペンが止まった。
「……そういう意味で申し上げているのではありません」
「そういう意味よ」
カグヤはミナトの手を掴んだ。いつもなら壁の一点を睨むところを、今朝はミナトの目から視線を外さない。頬も耳も白いままだった。医官の「二分です」で手を離すと、カグヤはひと言も言わずに出ていった。
扉が閉まると、壁ぎわのヒサメが口を開いた。
「本気よ、あれは」
「止めてくれよ」
「無理よ。私が言っても止まらない。あの子は十月に入るまで、一番以外になったことがなかったのよ」
ヒサメは自分の左手を握り、ゆっくりと開いた。
「私が一番でいる限り、あの子は無茶をしてでも重体になろうとする。もし私が二番に落ちれば、今度は私が……」
ヒサメは続きを呑み込んで、開いた手を下ろした。
医官はペンを置き、ヒサメのほうへ向き直った。
「氷堂さん。睡眠時間はどれくらいですか」
「……四時間」
「先月は六時間と伺っていますが」
「護衛ですから」
「廊下の椅子に座り続けることは、護衛の規定に含まれていません」
ヒサメは黙って目を伏せた。医官はノートに短く書き足すと、ミナトの手首から計器のベルトを外しながら誰に向けるともなく続けた。
「レベル二の反動については、記録の上ではまだ空欄です。氷堂さんの睡眠時間が短くなったことや廊下の椅子を反動の欄に書いてよいものか、私には判断がつきません。ですから、二人目を出すわけにはいかないのです」
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六度目の襲撃のあいだ、ミナトの手首の計器はほとんど針を動かさなかった。
十一月三日、レベル二。第五区画。無線の報告は短く、間遠だった。補給拠点に運ばれてきたのは、五番の少女一人だった。
順位が四番から下がったばかりの子だ。左の前腕に透明な結晶を広げたまま、担架の上で天井を見つめている。ミナトが手を握り、もう片方の手を前腕のガラスの縁に当てると、十秒ほどで結晶が引いた。医官がノートに「10%」と書き入れる。
「名前は?」
「……五番でいいです。今月は」
少女は担架を下りると、そのまま処置室を出ていった。来月、四番に戻れたら名乗るという意味なのかどうか、ミナトには確かめようがなかった。
戦闘が終わると、担架を断ったカグヤが処置室へ入ってきた。焦げた袖の匂いがする。右の二の腕に新しい火傷が赤く走っていた。
「前に出すぎたわ」
手袋を外しながら、カグヤは落ち着いた声で言った。
「レベル二の相手に、上限まで出してみたの。必要なんてなかったけど、出せるかどうか確かめたかったのよ」
「確かめてどうするんだ」
「次の改定まで、あと二十七日で2%よ。一日にすれば0.1%もない。……確かめておかないと、計算できないじゃない」
カグヤは二分間ミナトの手を握って出ていった。
装甲車に乗りこむ前、補給拠点の門のところでリンに呼び止められた。
「火神院さん、今日は前に出すぎでした。氷堂さんが三回も下がれって言ったのに、三回とも聞こえないふりをしていました」
「……そうだったのか」
「私たちの隊では、前に出すぎる人のことを『線まで行く人』って呼ぶんです。……去年も、二人いました」
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翌日もミナトは朝から回収室で紙片の貼り替えを手伝った。昼が近くなったころ、作業机のチトセが鉛筆を動かしたまま言った。
「火神院さんは、月末の測定のあと、いつも広場で火を出します」
「火?」
「去年も一昨年もそうでした。二番になってからは、そのあと何日か、夜に出す火が長くなります。今度のが、これまででいちばん長いです」
「見てるのか」
「回収室から広場が見えるんです。半分地下ですけれど、天井の近くに明かり取りの窓がありますので」
ミナトは天井を見上げた。壁の上のほうに細長い窓が一本あり、外の土と行き交う足もとが見えた。紙片ばかり見ていて、これまで気にとめたこともなかった。
チトセは鉛筆を置き、棚の箱に目をやった。
「去年の冬、火神院隊から二人を回収しました。すぐ隣で戦っていた人たちなのに、火神院さんは名前を知りませんでした。……それでも、二人の箱の前に一晩中立っていました」
「一晩中?」
「朝になって私が下りてきたときも、まだ立っていました。何も言わずに、そのまま出ていきました」
ミナトは棚の端に目を移した。番号のない箱が、今朝チトセと並んでその前に立ったときのまま置いてある。
リンの名前を初めて聞いた日、カグヤは「今日で二人目よ。顔を合わせていながら、名前を知らなかった子が」と言った。去年の冬の二人は、あの日のカグヤの数から外されていた。一晩中箱の前に立っていた人間のどこが楽だったのか、とミナトは思った。
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夕方、部屋の扉が拳で二度、強く叩かれた。ヒサメならもっと控えめに叩く。
開けると、カグヤが立っていた。手袋をはめた左手を、右手で包むように押さえている。
「聞きたいことがあるの」
「中に入るか?」
「入らないわよ。廊下でいいわ」
カグヤは向かいの壁に背を預けた。扉の脇のパイプ椅子に一度だけ目をやり、すぐに逸らす。ヒサメは前線の点検に出ていて、椅子は空いていた。
「氷堂のときのことよ。レベル二って、どんな感じだったの」
「人工呼吸だったからな。感じも何もなかったよ」
この世界に来た晩、息の止まっていたヒサメに、ミナトは教習所で習ったとおりの人工呼吸をした。記録の上では、それがレベル二になっている。
「そういうことじゃなくて」
カグヤは廊下の床に目を落とした。思ったことを先に口に出すのがいつものカグヤなのに、今は言葉の順番を考えている。
「……氷堂、あれから様子が変わったでしょう。朝は三分も手を握るし、夜は廊下の椅子に座りこんでる。四時間しか寝てないって聞いたわ。あれって、レベル二のせいなの?」
「分からない。俺は氷堂じゃないからな」
「……私も、ああなるの?」
ミナトは返事に詰まった。カグヤは答えを待たずに続けた。
「構わないわ。一番に戻れるなら」
少し間を置いて、カグヤは声を落とした。
「痛かったの? 氷堂は」
「息が止まってたから、痛がってたかどうかも分からない」
「止まる前に来て。……あとからじゃ、私が私でなくなっているかもしれないから」
カグヤは包んでいた左手を離し、手袋の指先を廊下の薄暗い明かりにかざした。黒い布の上から、三本の指の形を確かめるように見つめる。
「三本で済んでいるうちに、って思っているのよ。五本になって、手首まで進んでしまう前に。……そこが重体の線だと言うのなら、私はその線まで行くわ」
「線まで行こうとするなよ」
「行かないでいたら、二番のままでしょ」
カグヤは壁から背中を離して一歩詰め寄り、ミナトの目をまっすぐに見た。
「重体になったら、ちゃんと来なさいよね。順番通りに」
「……ああ、行くよ。順番通りにな」
カグヤは小さくうなずいた。手袋の左手をまた右手で包んで廊下を歩いていき、そのまま角を曲がって見えなくなった。
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夕食から戻ると、いつもの椅子に腰を下ろしたヒサメが、赤く明滅する廊下の突き当たりの窓を見ていた。
「カグヤが来たそうね」
「ああ、来たよ」
「何を聞かれたの」
「レベル二がどんな感じだったか、って」
ヒサメは窓に目を向けたままだった。ガラスに映る赤が、強くなっては弱まる。
「……あの子に、なんて答えたの」
「分からない、って答えた。俺は氷堂じゃないからな、って」
「そう。それでいいわ」
「私にも分からないの。あの日から変わったことには、自分でも気づいてる。でも、何が変わったのかは、私の口からは言えない。言葉にしたら、それが本当になってしまう気がするのよ」
「本当じゃないのか?」
「本当かどうかを決めるのは、きっと、あなたが帰ったあとよ」
ヒサメが「帰ったあと」と口にするのは、施設の話を聞いた夜に続いて二度目だった。ミナトは聞き返さなかった。
部屋には入らず、廊下の突き当たりの窓まで歩いた。
広場の真ん中で、火が燃えていた。炎が高く伸びるたびに宿舎の壁が赤く照らされ、火の粉が散って消えると、すぐに次の柱が立ちのぼる。火のそばにいるのはカグヤ一人で、教官らしい女性は広場の端に立って炎を見ているだけだった。
回収室の天井近くの窓からも、見えているはずだった。
火は夜更けまで消えなかった。




