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未生獣 〜十八の冬を越えた魔法少女はいない〜  作者: 春凪一


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第十二話 呼吸は止まっていない

 二度目の産院へは、裏手の川沿いの道から入った。


 早瀬(はやせ)は川べりに車を寄せ、エンジンを切った。フロントガラスの向こうでは浅い川面に鴨が二羽、つかず離れず浮かんでいる。一羽は首から上が光る緑の雄で、もう一羽は地味な茶色の雌だった。


「鴨の世界には、男も女もないんでしょうね」


 運転席の早瀬が川に目をやったまま言った。口もとは少しもゆるんでいない。冗談だと気づくまでに一拍かかり、気づいたとたんにミナトは吹き出していた。笑い声がマスクの内側にこもる。この世界に迷いこんでからの一ヶ月あまりで、声を上げて笑ったのは初めてかもしれなかった。


 早瀬は表情ひとつ変えずに運転席のドアを開けた。


 産院の裏の戸は先週の帰りぎわに助産師が言ったとおり鍵が掛かっておらず、手で押すと軽くきしんで開いた。



 ツムギのお腹の子は、十七週目に入っていた。


 ベッドに横になったツムギは、神社で会ったころよりひと回り丸くなったお腹に、かばうように両手を添えていた。ミナトが丸椅子に腰を下ろすのを待って申し訳なさそうに切り出す。


「六日目の朝から、下腹部に重い痛みが戻ってきて……。神社のあとは、こちらに伺うまで一度も痛まなかったんです。今回は、六日しか持たなくて」


「一週間は持たなくなってきた、ってことですか」


「ミナトさん」


 ツムギは困ったように眉を下げた。


「その、敬語はもうやめていただけませんか。手を握っていただいている方にかしこまられると、私のほうが落ち着かなくて」


 ミナトは少し迷ってから、帽子を取って膝に置いた。


「……分かった。じゃあ、一週間、持たなくなってきたのか」


「ええ、たぶん。……助産師さんは、週数が進めばそういうこともあるからって、それ以上は何もおっしゃいませんでした。知らないふりをしてくださっているんです」


 差し出された手を両手で包むと、引き出されていく量が先週よりはっきりと多かった。お腹の中の小さな命が、先週よりも強く、切羽詰まった勢いでミナトの力を欲しがっている。ツムギの眉間のしわがほどけるまで、ミナトは十分間そうしていた。


 帰りぎわ、薄暗い廊下の向こうから助産師が歩いてきた。足をゆるめずに脇を通りすぎながら、誰にともなく言う。


「判定の期限まで、あと三週ね」


 二、三歩行きすぎたところで振り返りもせずに続ける。


「来るたびに検査を勧めるわ。それがうちの義務だから。……勧めたって記録が残れば、それで十分なのよ」


 うしろで早瀬が胸ポケットから手帳を出し、ペンを走らせる音がした。車の運行記録なら運転席の脇のバインダーに書くはずだ。何を書きとめたのか、ミナトは聞かずにおいた。


---


 産院から四日後の夜、ミナトが宿舎の玄関を飛び出すと、門へ向かって二つの人影が左右から駆けてきた。玄関灯の明かりの輪の中で、肩口で切りそろえた紅い髪と腰まで届く銀髪が交差する。すれ違いざま、ヒサメが鋭く言った。


「大型の個体が確認されている。単独で突出しすぎないで」


「誰に指図してるのよ」


 カグヤは足をゆるめもしなかった。手袋をはめた左手を走りながら握っては開き、門の外の暗がりへ消えていく。


 装甲車が走りだしてまもなく、運転席の無線が七度目の襲撃を告げ、レベル四、第七区画と読み上げた。九月の夜、地下道を抜けたミナトが最初に足を踏み入れた場所で、ヒサメと出会ったあの交差点もこの中にある。



 第二防衛線の補給拠点に着くと、医官は監視窓に背を向けたまま卓の上に計器を並べはじめ、無線の声にだけ耳を傾けていた。


『大型一体、中型三体、小型多数! 大型は交差点の中心部に居座っています。火神院(かぐいん)隊、接敵!』


「二番が、大型を受け持ちましたか」


 医官は計器のコードをほどきながらつぶやき、手を止めずに言い足した。


「一番の動向は」


 問いに答えるように、無線が別の声を流した。


『氷堂(ひょうどう)隊、中型三体を足止め中! 大型への合流まで、最短でもあと十分かかります!』


 医官は小さくうなずいた。


 ミナトは監視窓のガラスに張りついた。


 いつもより東に寄った夜空を紅い光の柱が突き上げていた。三階建ての雑居ビルの屋根を軽々と越え、四階、五階の屋上に届きそうな高さまで伸びていく。


 炎の照り返しの奥で、大型の未生獣(アオロイ)がうごめいていた。あの交差点で見上げた一体と変わらない大きさで、空を焼く炎を払いのけようと腕をめちゃくちゃに振り回している。


 紅い光がまた噴き上がった。さっきよりさらに高い。空気がゆらぎ、監視窓の窓枠までがかすかに熱を帯びてきしんだ。


「無茶を重ねていますね」


 医官が眉ひとつ動かさずに言った。


「あの火力は、規定の上限の中では出せません。安全弁をわざと焼き切って、出せないはずの分まで絞り出しています」


「そんなことして、体はどうなるんだ」


「際限なく放出した魔力と引き換えに、色素が抜け落ちていくだけです」


 言い終わるか終わらないかのうちに、夜空を焦がしていた紅い光がぷつりと途絶えた。


 一拍おいて、無線が割れんばかりに叫んだ。


『二番が被弾! 右腕、肘から先を損失——回収係、至急、担架を回して——!』


 ミナトは弾かれたように出入口の扉へ向かった。取っ手に手をかけたところで、背中に医官の声が飛んでくる。


「動かないでください。負傷者はここへ直接運ばれてきます。いまは火神院隊員が最優先の治療対象です」


「向こうで順番を待てって言われてる奴がいるかもしれないだろ!」


 扉の脇に詰めていた護衛の隊員が黙ってミナトの前に立ち塞がった。肩で押しのけようとしたとき、外の暗がりから砂利を蹴る足音が近づいてきた。


 担架を担いだ隊員が二人、処置室へ駆けこんできた。


---


「二番、右前腕を欠損! 肘から先です。切り口から肩へ向けて、結晶化が急速に進行中!」


 前を担いでいた隊員が息を切らしながら叫んだ。言い終わらないうちに、医官がカグヤの首筋と胸元に計器の端子を貼りつけていく。


 カグヤは目を開けていた。肘から先のない右腕の切り口から、透きとおったガラスが肩のほうへ広がっていく。右の頬までがもう青白く透けはじめている。


「……見たでしょう、今の」


 荒い息の合間に、カグヤはかすれた声で笑った。


「四階建ての屋根より高く、焼き尽くしてやったわ。上限値なんて、端から守る気なんてないのよ……」


「しゃべらないでください。結晶が声帯まで来ます」


 医官は手を止めずにミナトへ鋭い目を向けた。


「レベル二の適用条件を満たしています。不可逆の部位欠損、ならびに中枢への急速な進行。規定上の絶対的重体です。火神院隊員は十八歳に達していますので、年齢の条件も満たしています」


 ミナトは担架の脇に膝をついた。カグヤの左手は手袋をはめたまま担架の縁を握りしめている。


 潤んだ目がすぐそばにあるミナトの顔をとらえた。


「……ちょっと、待ちなさいよ」


「待てるわけないだろ。もう肩の付け根まで来てる」


「心の準備くらい、させなさいって言ってるのよ……!」


「そんな暇がどこにある!」


「私は呼吸なんて止まってないわ! 氷堂のときは心肺停止の蘇生処置だったんでしょう!? 息をしてる相手に、いきなりそんな真似——」


「完全に息が止まる瞬間まで、処置を猶予しますか」


 医官の抑揚のない問いが二人のあいだに割って入った。


 カグヤは唇を半ば開いたまま、言葉を呑みこんだ。止まる前に来て、と廊下で言ったのはカグヤのほうだった。


 ミナトはカグヤの首の後ろと左脇の下に手を回して抱き寄せ、迷わずその唇を塞いだ。


 あの夜と同じ角度、同じ深さで、一秒かけて、ミナトは息を送りこんだ。ただ今度は、押し返してくる息があった。胸がせわしなく上下し、見開いた目がすぐそこからミナトを見返している。頬の熱が、唇ごしに伝わってきた。


 重ねた唇のすきまから白い光があふれ、ガラスが首筋から肩へと退いていった。肘の切り口に光が集まり、五本の指がそろうまでに十秒とかからなかった。


 ミナトは唇を離し、抱き寄せた体をそっと戻した。


 カグヤは天井を見上げたまま、身じろぎもしなかった。目の焦点が合わず、白い光の名残が漂う宙をぼんやりとさまよっている。頬から耳たぶへ、耳たぶから喉もとへと、赤みが一気に広がっていった。


 その唇が、かすかに動いた。


「……なに、これ」


 息を継いで、もう一度。


「なんなの……これ。温かい……身体の奥のほうまで、全部が焼きつくみたいに温かい……」


 生えたばかりの右手が、ミナトの上着の袖ごと手首をつかんだ。出来たての指とは思えない力で、布地がみしりと音を立てる。


「離さないでよ」


 濡れた目がすがるようにミナトを見上げた。


「今だけでいいから……少しの間だけでいいから、絶対に手を離さないで。お願いだから……」


 カグヤがお願いと口にするのを、ミナトは初めて聞いた。医官も同じだったのか、ノートの上でペン先が浮いたまま止まっている。


 すぐに持ち直すと、医官は計器の数字を読み上げた。


「火神院隊員の体内魔力値、測定限界を突破」


 続いてミナトの手首の計器に目を移す。


「ミナトさん、残量ゼロ。枯渇しました」


 その声を聞いたとたん、ミナトの膝から力が抜けた。床に両手をつく。体の芯から何もかも抜き取られた空っぽさは、二度目でも慣れるものではなかった。


 カグヤは袖をつかんだまま、深く長い呼吸を繰り返してまぶたを閉じた。口もとがかすかにゆるんでいる。


「接触に伴う副反応を追記します」


 医官がふたたびペンを走らせた。


「精神的昂揚感、ならびに強度の多幸感。持続時間の計測を開始」


 書き終えると、医官は小さく息を吐いた。


「これで、臨床記録の空欄がひとつ埋まりました」



 廊下を駆けてくる足音がして、扉が開くより先に隊員の声が飛びこんできた。


「三番、左下肢に結晶化の兆候!」


 運びこまれた担架の上に、石田リン(いしだ りん)がいた。黒いタイツが左のすねのところで裂けていて、硬貨ほどの大きさの透きとおった結晶がこびりついている。中型の鉤爪がかすめた傷だという。リンは担架の上で肘をついて上体を起こし、カグヤの新しい右腕に目をやってから、床にへたりこんだミナトへゆっくりと視線を移した。


「補給可能量はゼロです」


 医官が告げた。


「これ以上の供給はできません。後方の医療班へ回してください」


 リンは言い返さずに、唇を一文字に結んで自分のすねを見下ろした。ガラスの縁は見ているあいだにも少しずつ肌の色を食っていく。


「……順番通り、ということですね」


 担架はすぐに向きを変え、運び出されていった。閉まりかけた扉のすきまから、すねを両手で押さえたリンが、もう一度だけカグヤの腕を振り返るのが見えた。


 ミナトは閉じた扉を見つめていた。順番がリンに回って来たときには、もう渡せるものが残っていなかった。


---


 遠くの市街地を揺らしていた泣き声が、ある瞬間にふっと途切れた。


 熱でゆがんだ窓枠のすきまから冬の近い夜気が吹きこんでくる。無線が全部隊に作戦の終了を告げた。五分もしないうちに、ヒサメが処置室の扉を押し開けた。


 見たところ、怪我はしていない。ヒサメは敷居のところで足を止め、部屋の中を順に見ていった。担架に横たわるカグヤ、傷ひとつなく生え直した右腕、ミナトの袖を固く握ったままの指。床に手をついたミナトの背中を通りすぎて、最後に医官が抱えているノートで目が止まった。


「……レベル二を使ったのね」


「規定に定められた絶対的重体でしたので」


「そう」


 ヒサメは目を落とし、自分の左手を見た。一ヶ月半前、同じように肘から先を失い、生え直した手だ。


「順番通り、というわけね」


 医官は顔を上げずに尋ねた。


「一番、あなたに補給の必要は」


「ないわ。見ての通り、彼はもう一滴も残っていないでしょう」


 ヒサメは足音を立てずに近づき、ミナトの前にしゃがんで目の高さを合わせた。


「一人で立てる?」


「……悪い。体が動かない」


「そう」


 ヒサメは手を伸ばし、ミナトの袖をつかむ指を一本ずつはがしていった。カグヤはまぶたを閉じたまま、目を開けようとしない。袖を取り上げられた手は行き場を探して宙をさまよい、やがて担架の冷たいパイプをぎゅっと握り直した。


 ヒサメはミナトの腕を引き寄せ、自分の細い肩に回した。


「一人で歩けるようになるまで、私が運ぶ」


 ヘリから降ろされたあの夜と、一言一句違わない台詞だった。ただ、耳もとに落ちてきた声はあの夜よりも低く沈んでいた。


 装甲車の硬い座席に下ろされると、ミナトのまぶたはすぐに重くなった。眠りに落ちる間際まで、向かいの席のヒサメは自分のコートの袖口をじっと見つめていた。


---


 目を覚ますと、宿舎の自分のベッドの上にいた。


 装甲車を降りてから部屋までの記憶がない。窓ガラスの向こうは朝の冷気で白く煙っていた。起き上がると、腕を持ち上げるだけで息が上がる。水を飲みに行こうとミナトは壁に手をつきながら扉を開けた。


 扉のすぐ横の床に、靴のつま先が二つ投げ出されていた。


 カグヤが廊下の床にじかに座っていた。ヒサメのパイプ椅子のすぐ足もとで、座面には腰を下ろさず、冷たい金属の脚に背中を預けている。膝の上には生え直したばかりの右腕がのっていて、手袋の左手がその白い肌を肘から手首へ、手首から肘へとさすっていた。ミナトが出てきても、往復する手は止まらない。


「……目を覚ましたのね」


 カグヤはうつむいたまま、かさついた声で言った。


「氷堂の椅子には触ってないわよ。廊下の床に座っちゃいけないなんて規則、特務省のどこにもないもの」


「……何してるんだ、こんなところで」


「私にだって、分からないわよ」


 右腕をさする手は、同じ速さで動きつづけている。


「部屋に戻っても、頭の奥が焼けるみたいに冴えちゃって……どうしても眠れなかったの。外の広場にでも出ようと思って扉を開けたのに、気づいたらここに座り込んでた。……ほんと、どうかしてるわ」


 ミナトはふと廊下の奥へ目を向けた。


 薄暗い突き当たりの壁に、ヒサメが背中を預けて立っていた。固く腕を組んだまま、目を伏せている。


「氷堂は、ずっとあそこに立ってたわ」


 カグヤが言い添えた。


「私がここへ来る前からずっとよ。……あの子、四時間しか眠れてないって前にも言ったでしょ。それでも上等じゃない。私なんて、ほとんど眠れなかったのに」


 ほとんど眠れなかったと言うわりに、カグヤの頬にはまだ赤みが残っていた。ゆうべ医官は、この多幸感が何時間続くかを計ると言ってノートに書きつけていた。赤みが引けば、その時間が欄に書きこまれる。引いたあとのカグヤがもう一度レベル二を欲しがるかどうかも、同じノートに並ぶことになる。ミナトはそこから先を考えたくなかった。


 カグヤは床に右手をつき、ふらつきながら立ち上がった。慣れない腕に体重を預けたせいで、膝が小さく揺れる。


「三日で元通りになるのよね。……待つわ」


「ああ」


「……自分でも、本当に我慢できるかどうか分からないけれど」


 カグヤは背を向け、ぎこちない足取りで廊下を歩きだした。突き当たりの手前でヒサメの脇をすり抜けるときも、二人は言葉はおろか目すら合わせない。


 一ヶ月あまり前、四日目の朝の病室で赤い顔のまま「……へえ、悪くないじゃない」と強がってみせたカグヤは、今朝、立ち去るまで一度もミナトの顔を見なかった。


 廊下の突き当たりで、ヒサメが組んでいた腕をほどいた。カグヤが座っていた床のあたりに目を落とし、しばらくそこから動かなかった。


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