第十三話 空の三日間
「ゼロです」
一日目の朝、医官はミナトの手首の計器をのぞいて短く告げた。針は目盛りの左端に寝たまま、ぴくりとも動かない。
ミナトが医療棟の処置室に入ると、ヒサメより先にカグヤが来て、壁ぎわの椅子に浅く腰かけていた。生え直したばかりの右手を膝にのせ、黒い手袋の左手でかばうように包んでいる。ミナトを見ると弾かれたように腰を浮かせ、目を逸らしたまま、ばつが悪そうに座り直した。
「……順番通りよ」
「同率でも、先月の実績順を踏襲すべきよ」
うしろから入ってきたヒサメが、冷えた声でかぶせた。同率はまだ決まっていないし、長官が判を押すかどうかも分からない。それでもヒサメは先回りして釘を刺し、言い終えてから自分の声の強さに驚いたように目をみはった。
カグヤは言い返さずに唇を噛んだ。言われたまま黙っているカグヤを、ミナトは初めて見た。
ヒサメが先に丸椅子に座って手を握った。計器の針はやはり動かない。中身が空なのだから当然だった。指の冷たさだけが、いつもよりはっきり伝わってくる。ヒサメは針の先から目を上げずに、いつもの三分間を握り通した。規定は二分で、残りの一分は十月の初めから医官が黙って見逃している。三分目が過ぎると、ヒサメは指を一本ずつほどいた。
「何も流れてこないのは、最初から分かってた」
「分かってて、握ったのか」
「規則だからよ」
そんな規則はどこにもない。ミナトはそれを知っていて、口をはさまずにいた。
入れ替わりにカグヤが丸椅子へ移った。左の手袋を外すと、白く濁った三本の指先がのぞく。いつもならひと呼吸おいて掴み、壁の一点を睨むのに、今朝は息も整えずに左手と生え直した右手の両方でミナトの手をひったくった。そしてその形のまま固まった。
「……本当に、何もないのね」
喉の奥から押し出すような、かすれた声だった。この世界で目を覚ました日には病室でヒサメが、十月には第一防衛線の裏の平屋の前でチトセが、少しずつ違う言い方で口にしている。さっきのヒサメは「分かっていた」と言っただけだ。同じ意味の言葉を聞くのは、これで三度目だった。
「空っぽです。三日待ってください」
医官は計器から目を離さずに言った。
「三日も……」
カグヤはぼんやりと繰り返した。
「このまま耐えろっていうの……?」
カグヤの指が、ミナトの手の甲に食いこんだ。生え直した右手は、まだ握る加減が分からないのかもしれない。ミナトはそう思っておくことにした。
医官はノートに何か書き足し、ペン先を紙に置いたままこわばったカグヤの横顔に目を向けた。
「火神院さん。昨夜は眠れましたか」
「……一時間くらいよ」
「記録しておきます」
医官は小さくうなずいて、ノートのページをめくった。
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昼、回収室へ下りる階段の途中で、下からチトセの声がした。
「空の日は、無理に来なくていいんですよ」
手すりに体を預けていないと、段を踏むたびに膝が抜けそうになる。九月の夜、交差点で立とうとして膝をついたときと同じ脱力だった。一段ごとに止まる足音で、チトセには誰が来たのか分かったのだろう。
「いや、来るよ」
「来ても、紙片を貼るくらいしか手伝えることはありません」
「それでも貼るさ」
階段を下りきると、チトセは作業机で鉛筆を置いて少し首をかしげ、紙片を三枚差し出した。今日の分で、どれも棚の表記の書き直しだという。七度目の襲撃で砕けた少女は一人もおらず、いちばん大きな傷だったカグヤの右腕も肘から先まで生え直したので、棚に新しい箱は加わっていない。
天井近くの細い窓から、広場を行き来する靴が見えた。ミナトは三枚を棚に貼り終えると、番号のない箱の前に立った。いつもは朝いちばんに下りてきてそうしているのが、今日は昼になった。
「ミナトさん」
うしろでチトセが呼んだ。
「火神院さんの腕、ちゃんと戻ったんですね」
「ああ。きれいに戻ったよ」
「よかったです」
チトセは鉛筆の先に目を落とし、少し間をおいて続けた。
「……去年、あの棚の箱に入った二人は、火神院さんの隣で戦っていた人たちでした。だから今年は、隣から一人も減らなくて本当によかったです」
誰のものか分からない破片を集めた箱の隣に、去年の冬に番号を振られた箱が二つ並んでいる。ミナトはしばらく三つの箱を見ていた。
「リンは、どうなった?」
「石田さんは医療班で手当てを受けています。すねのガラス化は、処置で止まったと聞きました。早いうちなら、たいていはそこで止まりますから」
チトセは鉛筆を取り直し、書きかけの紙片に目を戻しながら言い足した。
「ただ、止まったところには小さな痕が残ります」
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その夜、ベッドで天井を見ていると、扉の向こうからカグヤの声が飛んできた。
「そこに陣取るなんて、規定違反じゃないの」
声は廊下の突き当たりのあたりから聞こえてくる。すぐそばでパイプ椅子が小さくきしんだ。
「そっちの立ち位置だって、規定にはないわ」
ヒサメの声は、扉一枚へだてたところからした。
ミナトはベッドを下り、扉を細く開けた。冷えきった廊下の空気が足もとへ流れこんでくる。
扉の脇の椅子にはヒサメが背筋を伸ばして座っている。十メートルほど先の突き当たりでは、カグヤが壁に背中をつけて腕を組み、座る気などないというふうに両足を踏ん張っていた。二人はそろってミナトを見て、すぐに目を逸らした。
「私は見回りよ」
カグヤが廊下の端から言った。
「見回りは、正規の隊員の任務でしょう」
「同率になったら、私にだって相応の権利があるはずよ。あの子の目の前に座る権利くらいね」
「まだ正式に決まったわけじゃないわ」
「三日もすれば決まるわよ。魔力が満ちたら長官が判を押す手はずになってるの。晴れて同率よ」
カグヤはそれきり口をつぐみ、ヒサメも黙った。
去年の冬に隣で戦っていた二人の箱の前で、カグヤは一晩じゅう立っていたとチトセが話していた。今夜もあの壁の前で朝を迎える気でいるように見えた。
何か言わなければと思った。けれど、どちらに声をかけても、もう一人がそれを聞くことになる。空の日は頭の中まで空っぽで、言葉はひとつも浮かんでこない。ミナトは扉の枠に手をかけたまま、二人のあいだの十メートルを見ていた。
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二日目の朝、針は33%まで戻っていた。
先に座ったヒサメの目の下には、青黒い隈が浮いていた。ヒサメは昨日と同じように針から目を離さずに三分を握り、何も言わずに処置室を出ていった。
カグヤの番になった。指が触れたとたん、細い温もりがミナトの手のひらからカグヤへ移っていく。体の底に溜まりはじめたばかりのものを、そろそろと汲み上げられていく感じがした。カグヤは目を閉じ、すぐにまぶたを押し上げて天井の明かりを見上げた。目のふちが赤くにじんでいる。
「……氷堂の言ってたとおりね」
「何がだ?」
「なんでもない。あとで聞くわ」
カグヤは二分ほどで自分から手を離した。黒い手袋をはめた左手で右腕を袖の上から何度もなでながら、処置室を出ていく。
扉が閉まると、医官はペンを持ったままノートには何も書かずに口を開いた。
「お二人とも、依存の兆候が出ていますね」
ミナトは返事ができずに医官の顔を見た。
「見えたことを申し上げているだけです。当直の記録では、氷堂さんは先月から眠りが二時間短くなっていましたが、ゆうべは朝まで一度も椅子から立っていません。火神院さんは一昨日の晩が一時間で、ゆうべは廊下の端に立ったまま朝を迎えています。腕をなでる手も止まりません。補給の途切れる日ほど、お二人とも落ち着きをなくしていく。……数字からはそう読めます。ノートに書くにはまだ早いと思います。ですから、ここに書いておきます」
医官はペンの尻で、自分のこめかみを軽く叩いた。
「あなたが削られると彼女たちも削られる。現時点で確実なのはそれだけです」
夕方、回収室から戻ってくると、宿舎の玄関先にリンが立っていた。
杖もつかずに、自分の足でまっすぐ立っている。左のすねのあたりだけ、黒いタイツが包帯の厚みで少しふくらんでいた。
「ミナトさん」
リンのほうから声をかけてきて、包帯を指さした。
「この下、硬貨くらいの大きさで白くなってます。結晶化、完了しちゃいました。でも範囲が小さいから、歩く分には平気です」
「……悪い」
「順番通りですから、気にしないでください。二番の腕が先で、三番の私のすねはあと。補給が間に合わなかったから、止まるのを待っただけです。たいていは途中で止まるものですし」
リンは自分の包帯に目を落とした。
「ミナトさんのせいじゃないです。順番のせいでもないです。誰かが順番を決めなきゃ、現場が回りませんから」
「……そうかもしれないけどさ」
「それなら、たまにはミナトさんが自分で順番を選んでもいいと思いますよ」
リンは小さく会釈して、宿舎の中へ入っていった。足を引きずるそぶりは少しもない。
順番の外で流したことはあっても、順番そのものを自分で選ぶことは考えたこともなかった。ミナトは玄関の明かりがともるまで、その場から動けずにいた。
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三日目は67%で、この日は産院へ行く日だった。
奥の部屋のベッドで身を起こしたツムギは、ミナトの顔を見るなり口もとを結んだ。差し出しかけた手を止め、先に自分のお腹へ両手を添える。
「ナ……」
誰かを呼ぶような出だしだったが、ツムギはそこで言葉を呑み込んだ。聞き返すだけの力は、今日のミナトには残っていない。
「今日は、ほんの少しで大丈夫ですから。ずいぶん顔色が悪いですし」
「67%までは戻ってる。お腹の子を守る分くらいはあるよ」
「足りているかどうかは、私が判断します。この子の母親ですから」
ツムギはそう言って笑い、手のひらを上に向けて差し出した。
流れていく力は、いつもより細かった。それでもお腹の子にはちゃんと届いたらしい。ツムギはお腹に当てた手の指を少し広げたまま、二度うなずいた。
帰りぎわ、裏の戸を押さえて見送りに出た助産師がミナトの顔をのぞきこんだ。
「ひどい顔色ね、お兄さん。うちは妊婦専門だけど、鉄剤くらいなら融通できるわよ」
「……鉄分を足しても、これは戻らないよ」
「そうでしょうね。薬でどうにかなるものなら、私が三年前の時点で処方してるわ」
三年前、とミナトが口の中で繰り返したときには、戸はもう閉まっていた。
川べりに停めた車へ戻る途中で浅瀬に目をやると、鴨は一羽に減っていた。残っているのは、茶色の雌のほうだった。
助手席でミナトがまぶたを閉じかけたところで、運転席の早瀬が口を開いた。
「四日目に襲撃がなければ、満まで戻ります」
「もし、来たら?」
「来たら、67%のまま迎え撃つことになります。一番か二番が重体になれば、レベル二の一人分で底をつきます。そのあとで三番が運ばれてきても、回せる魔力はゼロです」
三番と聞いて、ミナトはきのう玄関先で見たリンの包帯を思い浮かべた。返す言葉は出てこなかった。
「運転手の私にもできる、ただの確認です」
早瀬はハンドルを握り直した。
「この産院通いを止める気はありません。私の任務は、指示どおりに車を走らせることです」
その夜、カーテンを引こうとして、ミナトは窓ガラスに映った自分と目が合った。空になった朝にくらべれば、頬にいくらか血の気が戻っている。耳を覆うほど伸びた黒髪には、まだ一本の銀も混じっていない。
ミナトは十月から数えてきた名前を口の中で順に言ってみた。早瀬、チトセ、小林サキ、田村ユイ、佐藤マイ、石田リン、森アヤカ、中野ミク、ツムギ。十月に初めて数えたときは五つだった。
サキが砕けた日の帰りの装甲車で、ヒサメは「覚えると、減ってしまうから」と言った。ミナトはツムギまで言い終えて、カーテンを引いた。
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四日目の朝、食堂の入口の掲示板の前に、カグヤとヒサメが並んで立っていた。
順位表の一枚目に、朱色のペンで一行が書き足されている。
火神院、上限超。
その下には長官の角印が押され、さらにその下に「一番、氷堂。一番、火神院。同率首位」とあった。
カグヤは生え直した右手で、その字を端からなぞった。
「同率首位なんて言葉、この特区で初めて見たわ」
声の張りはいつもどおりだった。ただ、廊下に立つミナトのほうは振り向かない。紙に目を向けたまま、隣のヒサメに言い放つ。
「朝の定時補給、今日からは私が先よ」
「順番を決めるのは長官よ」
「同率になったんだから、当然でしょう」
「同率なら、先月の実績順を踏襲するべきよ」
「だったら、じゃんけんでもして白黒つける?」
ヒサメは取り合わずに、紙のほうへ顔を戻した。二人は並んだまま、どちらもその場を動こうとしない。そのうしろをすねに包帯を巻いたリンが通りすぎていったが、二人の目は紙に向いたままだった。
廊下の向こうから医官が来て、携えてきた計器をミナトの手首に当てた。
「満です。夜明けの測定でも満でした。丸三日、きっちりかかりましたね」
医官はノートに数字だけを書きつけた。
カグヤが紙から指を離した。その右手を手袋の左手で包み、ようやくミナトのほうへ振り向く。
「……三日、ちゃんと待ったわよ」




