第十四話 数に入っていません
残量が満に戻った朝、補給が済んでヒサメとカグヤが処置室を出ていくと、医官が机の引き出しから紙を一枚取り出した。
「庁舎に出した申請書です。翌日に差し戻されてきました」
医官はその紙をミナトの前に置いた。余白に朱色の字で「権限外」と書きなぐられ、すぐ横に長官印が押してある。
「単因子型の資料です。なぜ流れていかないのか、その仕組みを確かめたかった。理由も分からないまま計器のベルトを留め続けるのは、境界線の上に立つ人間として、どうにも居心地が悪いので」
十月、チトセの手を握っても何も流れなかった日に、医官は単因子型には受信機がないのだろうと推し量った。ただ、研究資料は封印指定で、自分の権限では読めないとも言っていた。
「駄目だったのか」
「権限外ですから。長官の専決事項です。……ですが、正規の窓口に申請書を通したことは、記録の隅に残ります。弾かれると承知で出しました。いまの私にできるのは、そこまでです」
医官は申請書を引き出しへ戻し、押しこみながら言った。
「規定の外にあることは、規定の外にいる人間が動かすしかありません」
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申請書を見せられたその日の午後、八度目の警報が鳴った。レベル二。補給拠点の廊下に担架の足音が響いたのは一度だけで、運ばれてきたのは七番の少女だった。左の足首に薄いガラスが張りついている。ミナトが片手で七番の手を握り、もう片方を足首のガラスに当てると、縁のほうから肌の色に戻っていった。手首の計器の針は、目盛りひとつ分だけ左へ寄った。
七番は担架の上で足首を二、三度回し、痛みのないのを確かめてから黙って頭を下げた。
無線は区画ごとの撃滅を短く伝えてくるだけで、回収係の担架は空のまま戻り、B級の子もみな自分の足で帰ってきて、戦闘は終わった。ミナトが使った魔力は、その日じゅうで10%きりだった。
補給拠点を出ると、門の脇にチトセが立っていた。今日は運ぶものがなかったので、担架は持っていない。
「明日、お時間はありますか」
「あるよ。どうした?」
「資料室へご案内したいんです」
チトセはミナトのうしろへちらりと目をやった。早瀬は装甲車の脇に立ち、防壁の上の空を見ている。
「医官から聞きました。私の型のことを書いたものは封印指定で、申請しても権限外だったそうです。庁舎の地下の資料室にあります。そこの方は、私の知っている人です」
「見せてもらえるのか」
「開けられる方が、鍵を開けてくださいます。私には権限がありませんので」
チトセにだけ力が届かない理由を、ミナトはずっと知りたいと思っていた。行くよ、と答えると、チトセは小さくうなずいた。
早瀬は同じ姿勢のまま動かなかった。聞こえなかったことにしたらしい。そして翌日には、護衛の持ち場につくのと同じ足取りで、地下へ下りる階段の上までついてきた。
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翌朝、ミナトがいつものように回収室へ下りていくと、チトセはもう作業机の前で待っていた。
棚の箱は先週より二つ減っていた。手続きが済んで、識別番号のまま内地の家族のもとへ送られたのだ。チトセは一度も棚に目を向けずに、ミナトの先に立って階段を上がっていった。
医療棟を出て広場を横切り、特務省の庁舎に入る。資料室はその地下二階にある。
階段を下りきった正面は重い鉄の扉だった。色の褪せた墨の字で「封印指定」と書いた札が下がっている。扉の横には小さな受付窓があって、アクリル板の向こうで女が一人パイプ椅子に腰かけていた。
四十を少し過ぎたくらいに見える。黒髪をうなじのうしろでひとつに束ねていて、銀は一本も混じっていない。肌の白さはチトセとそっくり同じだった。
「真鍋さん。こちらが、ミナトさんです」
「知っていますよ」
真鍋はアクリル板越しにミナトを見た。書類の記載と目の前の本人を、ひとつずつ照らし合わせているらしかった。
「単因子型の記録を、ですね」
「読めるんですか」
「この封印資料を開けられるのは、長官と私だけです」
真鍋は腰に下げた真鍮の鍵束を手に取った。
「中身を整理する人間がどうしても要りますから。この三十年、私が一人で分類してきました。書いてあることが分からなければ仕分けもできませんので、全部読んでいます」
「三十年、誰にも見せなかったんですか」
「聞きに来る人が一人もいませんでしたから」
錠が重い音を立てて外れた。
「長官を除けば、ここへ入るのはあなたがたが最初ですよ」
「俺なんかに見せて、真鍋さんは大丈夫なんですか」
「規定に照らせば、すぐに処分の対象になります」
真鍋は書類棚のあいだの薄暗い通路を先に立って歩きながら、こともなげに言った。乾いた空気に、古い紙と埃のにおいがまじっている。
「ですが、処分を通達する書類に私の名前を書き込む欄は存在しません。私は最初から、帳簿の数に入っていないのです。単因子型という人間は、罰を下す側の名簿にも、罰を受ける側の名簿にも載せてもらえない。三十年間、何の役にも立たない透明さでしたけれど、今日ばかりは都合よく働いてくれました」
チトセは真鍋のすぐうしろを歩いていた。二人の歩幅は測ったようにそろっている。
棚は天井まで届き、識別番号だけを書いた紙箱がびっしりと詰まっていた。札の書式は回収室の箱と同じだ。番号の並びを目で追ううちに息苦しくなって、ミナトは棚から目をそらした。
「私も、あそこの箱に入っているのですよ」
真鍋が棚の隅を指さした。
「災害から五年たったころ、私は十歳でした。検査の用紙に『単因子』と判を押されて、その原本がいまもあの箱の底にあります。私は資料そのものでありながら、資料を片付ける係でもあるのです」
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机に出された資料は三つの薄い箱に分かれていた。
ひとつ目は、単因子型の染色体を解析した報告書だった。真鍋が紙を広げ、指先で行をなぞる。
「性染色体、と書いてありますね。人はこれを二本一組で持っています。女性はXとX、男性はXとY。それが、呪いの受け口になっている」
「受け口……」
「二つ目の箱を読めば分かります。先に、この子の型を」
紙の上段にチトセの名前があった。十歳のときに採った記録で、紙の端が茶色く焼けている。染色体の欄には「X」と一文字だけ書かれていた。
「単因子型はXを一本しか持っていません。Yもなく、二本目のXもない」
「それが、どうして呪いに関わってくるんですか」
「二つ目を」
次の箱には、呪いの仕組みが書かれていた。真鍋が紙を一枚ずつ机に広げる。
『受肉』と見出しのついた紙で、指が一行の上に止まった。『標的はY』。未生獣はこの世に生まれ直そうとして男の胎児に取りつき、胎児の体はそれに耐えきれずに死ぬ。その瞬間に母体へ魔力毒が逆流し、死んだ子は未生境界へ引きこまれて群れの新しい一体になる、と紙は続けていた。
『結晶化』の紙には、『X染色体の不活性化』という語があった。女性の体は二本あるXのうち一本を眠らせたまま生きていて、その眠っているほうが未生境界の力を拾う受信機になるのだという。魔力も、胎児たちの恨みも、同じ管を通って少女たちの体へ入ってくる。魔法の素質が若い女にしか宿らないのも、力を使うほど体がガラスに変わり、やがて砕けるのも、根は同じところにあった。
ミナトは同じ段落を二度読んだ。医官が推し量っていた受信機の正体が、そこに書いてある。腹の奥のどこかにある臓器を、ミナトはなんとなく思い描いていた。実際には、眠ったままの染色体の一本だった。
「……じゃあ、チトセの体は」
「Yを持たないから、受肉の標的にならない。二本目のXを持たないから、結晶化の毒も受け取らない」
真鍋は紙から目を上げずに言った。
「二つの呪いのどちらにも掛からない。そういう器です。この解析書が書かれたのは、災害の五年後。三十五年前には、もう分かっていたことです」
「三十五年前から、全部、分かってたんですか」
「理解したからこそ、頑丈な鍵をかけたのです。三つ目の箱に、その理由が残されています」
三つ目の箱は、前の二つにくらべて拍子抜けするほど薄かった。
いちばん上の一枚は、単因子型の扱いを定めた覚書の控えだった。日付は解析書と同じ年になっている。真鍋が一行ずつ指で押さえていく。『単因子型は未生獣に認識されにくい』『苗床にも器にも見えないため、敵の知覚から漏れる』『前線の戦死者の回収業務に充てることを推奨する』『民間への公表は禁ずる。染色体解析の技術そのものが封印指定であるため』。
回収係か、特務省の裏方の事務員。十月に宿舎の階段で早瀬が教えてくれた単因子型の行き先は、この薄い一枚で決まっていた。
「解析の仕組みを外へ出せば、二つ目の箱の中身が全部表に出ます」
真鍋が言った。
「次の一枚も、一緒に引きずり出されてしまう」
真鍋の指の先には、二十年前の日付が入った数行きりの報告書があった。
『処置により死亡した胎児に関しても、魔力残滓が未生境界へ流入する事例を確認。統計的検証は未了。公表は不可』
ミナトはその数行を何度も読み返した。喉の奥が引きつるように熱い。
「処置って……産院の、あの……」
「男児と分かった時点で、母体の命を救うために行う医療処置です」
「看板に偽りはありません。母体を救うための正当な医療行為で、同時にこの紙に書かれたとおりのことを招く行為でもある」
産院の待合室の白い壁にも、同じ言葉のポスターが貼ってあった。『男児と診断された場合の処置は、母体の生命を守るための正当な医療行為です』。
未生獣は災害の魔力毒で死んだ胎児たちの集合怨念体だ、というのが公式の見解で、処置のことはどこにも入っていない。二十年前に誰かが「検証は未了」と書き添え、報告書はそのまま引き出しの奥にしまわれてきた。
「……長官は、このことを知ってるんですか」
「ご存じですよ。私の次にこの部屋の資料を読んだのが、長官でした。十五年前のことです」
真鍋は紙の束をそろえて机の端に置いた。
「長官はこれをすべて読み通し、封印の印章を押し直して、背を向けられました」
書類をどけた箱の底に、写真が一枚、糊でじかに貼りつけてあった。
円卓を囲んだ会議の写真だった。二十人ほどが椅子に座り、そろってこちらを向いている。壁のカレンダーは災害の翌年で、卓の上に積まれた議事録には「処置」の二文字がはっきり読み取れた。
円卓の二十人は全員が男だった。髪の白い年寄りから働き盛りの若い男までいて、誰もが仕立てのいい背広を着こみ、カメラのレンズをまっすぐに見ている。
「この政策を定め、法として通した方々です」
真鍋の指先が写真の縁をかすめた。
「災害の前の社会で議席を持っていた、政府の男たちです。いまはほとんどが、土の下にいます」
ミナトがこれまでに見た男といえば、宿舎の入口で配給の台車を押していた作業着の男と、内地の町のバス停のベンチにいた年配の男くらいだ。そこに、この写真の二十人が加わった。
真鍋は書類を上に重ねて、蓋を閉めた。
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チトセは自分の名前が書かれたひとつ目の箱の紙から目を離さずにいた。
「私は一本きりなんですね」
「私も同じですよ」
真鍋の声が少しだけやわらいだ。
「一本だけで四十五年を生き抜いてきました。困ることは二つだけ。魔法を使えないことと、この国の公の帳簿に自分の居場所がないこと」
チトセの腕の傷は、十日たってもかさぶたのままだった。
「チトセと同じなら、怪我の治りが遅いのはどうなんですか」
真鍋は少し間を置いてから、首を横に振った。
「不都合の数には入りません。砕け散っていく少女たちには無縁の痛みですから、比べようもありませんよ」
チトセは紙をそっと箱へ戻した。角がずれないように指先で一度そろえてから、蓋をする。
「ここにあるものは、持ち出しを固く禁じられています」
真鍋は鉄扉のノブに手をかけて振り返った。
「全部、頭に入れて帰ってください。あなたは人の名前や痛みをきちんと覚えていられる方だと聞いていますから」
「誰から聞いたんですか」
「チトセからですよ」
チトセは目を伏せた。真鍋が鉄扉を閉めると、鍵を回す鈍い音が地下の廊下に響いた。
「三十年間、誰からも聞かれませんでした。次に誰かがこの扉を叩くのが三十年後だとしたら、私はもう灰になっている。だから今日、開けたのです」
真鍋は鍵束を腰に戻した。言うべきことを言ったら黙る、その区切り方が早瀬とよく似ていた。
階段の上の段では、早瀬が腰を下ろし、手帳を膝に広げて待っていた。三人の足音が聞こえると、ペンを走らせはじめた。
「何を書いてるんだ」
「資料室への同行記録です。……今日の行き先を空欄で通すわけにはいきませんから。地下二階には、あの部屋しかありませんので」
「そのまま書くのか」
「書きます。記録として残さなければ、真鍋さんが鍵を開けたという事実そのものが握り潰されてしまう。真鍋さんは、起きたこととして刻みたくてあの扉を開けたはずですから」
早瀬は立ち上がり、先に階段を上がっていった。
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その夜、部屋を出るミナトに、ヒサメもカグヤもどこへ行くのかと聞かなかった。
宿舎を出ると、夜の広場は冷えきっていた。医療棟の窓に、明かりがひとつだけ残っている。
歩きながら、ミナトは三つの箱の中身を頭の中で並べ直した。
呪いは二本の線になっていた。一本目が受肉の呪いで、二本目が結晶化の呪いだ。ツムギのお腹の子は一本目の線の上で狙われている。ヒサメとカグヤは二本目の線の上にいて、力を使うたびにガラスへ近づいていく。処置で死んだ子どもたちは一本目の線をたどって未生境界へ流れこみ、前線を埋める群れになる。チトセと真鍋は、どちらの線からも外れている。
ミナト自身もどちらの線にも載っていないのに、チトセを除けば、線の上の誰にでも手が届く。
四日目の朝、病室で「なんで俺だけが」と尋ねたミナトに、長官は「現時点では不明です」と答えた。三つの箱のどこにも、その続きは書かれていなかった。
円卓の二十人は、撮られているのを承知でレンズを見ていた。法に判を押し、議事録に「処置」と書かせたときも、何をしているのかは分かっていたはずだ。
医療棟の処置室では、医官が机に向かってノートをつけていた。
「受信機の正体は、眠ってる染色体だった。二本目のXだ」
ノートの上を動いていたペンが、ぴたりと止まった。医官は顔を上げない。
「……それは、封印指定に触れる内容です」
「確かめてきた」
医官は長く息を吐き、書きかけのページにペンを挟んだ。
「聞かなかったことにします」
「境界線が引きにくくなるからか」
「ええ」
医官が引き出しを開けてノートをしまうと、きのう見せられた申請書が底にのぞいた。机の明かりの下で、余白の朱色の「権限外」がはっきり読めた。
「ただ、私の推測が外れていなかったことだけは、覚えておきます」
医官は机の上で両手を組んだ。
「規定の外にあることは、規定の外にいる人間が動かすしかないと、私は申し上げました。どうやら現に、誰かが動いたようですね。私はその経緯を何ひとつ知らないまま、明日からも計器のベルトを留め続けます」
ミナトが処置室を出るとき、医官は明日の朝に使う計器を棚から下ろし、ベルトを一本ずつ巻き直していた。留め金を確かめる手つきは、毎朝の補給のときと同じだった。




