第十五話 一行だけ
資料室へ下りた二日後、長官に呼ばれた。神楽坂ユノと顔を合わせるのは、この世界に来て四日目の朝に病室で会って以来、二度目になる。
通されたのは庁舎の三階にある窓のない部屋で、中央に置かれた長い机の向こうにユノが座っていた。一ヶ月半前と同じチャコールグレーのスーツで、色の抜けきった総白髪もあのときのままだ。机の上には順位表の写しと医官の申請書、それに早瀬の手帳の控えが並んでいて、一行目に「資料室への同行」とあった。
机のこちら側に椅子はなく、ミナトの隣にはチトセが立たされていた。早瀬は部屋に入らず、扉の外に残っている。
「資料室に立ち入ったそうですね」
ユノは書類に目を落としたまま言った。ミナトが黙っていても、返事を待つそぶりはない。
「真鍋の処分は見送ります。下すための欄が存在しないので」
資料室で真鍋が口にしたのと同じ理屈だった。処分を通達する書類に自分の名前を書く欄はない、と真鍋も言っていた。
「医官の申請は権限外として却下しました。早瀬の同行は公式記録に留めました。そして、あなたが三つの箱の中身を読んだことも」
「……どうして、俺を呼んだんですか」
「確かめておきたいことがあるからです」
ユノは書類から顔を上げた。
「あなたは、なぜ資料室へ行ったのですか」
「チトセにだけ魔力が流れない理由を知りたかったからです」
「知ってどうするつもりですか」
ミナトは少し考えた。もっともらしい答えを探してみても、本当のところはひとつしか見つからない。
「……分かりません」
「理由も定まらないまま知りに行こうとする人間を、私は三人知っています。真鍋と、医官と、あなたです。三人とも、私には処分できません。真鍋には帳簿の欄がなく、医官は規定通りの手続きを踏み、そしてあなたはかけがえのない資源ですから」
ユノは手元の書類を閉じた。
「二つ目と三つ目の箱の内容について、あなたと語り合うつもりはありません。今も、この先も」
「二十年も検証を未了のまま放っておくんですか」
「話すことはありません」
ユノは同じ言葉を繰り返した。声の調子は少しも揺れない。ただ、書類を押さえている指先が、紙の端をかすかに白く押しつぶしていた。
「封印指定を一部だけ、単因子型に関する項目のみ解除します。未生獣に認識されない、という一行だけです。それ以外はすべて封印を維持します」
「どうして解除するんです」
「利用価値があるからです」
ユノの目がチトセへ移った。
「読んだのなら承知しているでしょう。三十五年前の覚書に、回収業務への充当を推奨する、と記されている。これまでは戦闘が終わったあとの回収にだけ充ててきました。ですが戦闘の最中に前線へ出せば、もっと役に立つ。部隊に命じる理由として、一行だけ使います」
ユノは書類を一枚抜いてチトセの前に置き、続けた。
「回収係の任務を、戦闘中の前線配置に改めます。負傷者の回収を、交戦の終わりを待たずに行わせる。異論はありますか」
「ありません」
チトセは迷わずに答えた。ユノはうなずきもせず、ミナトのほうへ目を向けた。
「あなたの言いたいことは分かります。顔に出ていますが」
「危険すぎます」
「彼女は敵に認識されません。見えない相手に危険は及びませんよ。瓦礫の直撃などを除けば」
「その瓦礫で怪我をしたらどうするんですか。チトセの傷はなかなか治らないんです。十日たってもかさぶたのままでした」
「把握しています」
ユノはまばたきもせずに答えた。
「彼女の特異体質は貴重な資源です。あなたと同様に」
喉もとまで出かかった言葉を、ミナトは呑み込んだ。チトセを危ない場所に出すなと言えば、同じ理屈で自分も前線から下げろと言うことになる。貴重なら大事にしろと言えば、貴重だから使うのだと返ってくる。
ユノは扉のほうへ手を向けて退出を促し、最後に一言だけ付け加えた。
「三人目のあなたに、ひとつだけ伝えておきます。理由も定まらないまま知りに行こうとする人間は、この国では稀有で、ひとり残らず記録に残ります。目を通すのは私です。……用件は以上です」
廊下に出ると、早瀬が扉のすぐ脇の壁に背中をつけて立っていた。薄い板一枚へだてただけで、中の話はほとんど筒抜けだったはずだ。
「資源、と言われましたね」
早瀬は前を向いたまま言った。
「聞こえてたのか」
「扉の前に控えるのが職務ですから。耳に入った事実は報告します。……資源と呼ばれた人員が二人になったことも」
チトセは早瀬の前を通りすぎかけて、足を止めた。
「早瀬さん。担架が重そうだと思っている、と前におっしゃっていましたね」
「思っていますよ」
十月、宿舎の階段で、早瀬はミナトにも同じことを言っていた。
「これからは前線で引きずることになります。きっと、もっと重そうに見えると思います」
「そう見えたら、そのとおり報告書に書きます」
早瀬はそこで初めて、チトセのほうへ顔を向けた。
「目に見えた事実しか、私は報告できません。見えなかったことは記録のしようがありませんから。……あなたが見えないのはあれにとってであって、私にとっては見えているのですから」
チトセは小さくうなずき、階段を下りていった。早瀬は胸ポケットから手帳を出したが、何も書かずにまたしまった。
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地下の検体室には、ヒサメとカグヤが先に来ていた。壁ぎわにはユノが立ち、医官はノートを抱えて鉄格子のそばに控えている。コンクリートの床から冷気がしみ上がってくる。
天井の明かりに照らされた太い格子の向こうに、小さな個体が一体入れられていた。十月の戌の日に神社の境内で見た五体と同じくらいの大きさだ。格子の何本かが、内側からわずかにたわんでいた。
四十年前から、こうして一体ずつ捕まえては性質を調べているのだと医官が説明した。
「何か食べるのか」
「いいえ。何も口にしませんし、眠ることもありません。半年泣き続けて、最後は粉になって消える。この四十年で八十体、一体の例外もなく同じでした」
医官は格子から一定の距離をとったまま、小さな個体を見下ろした。
「私はこれを検体と呼びます。定められた呼称ですから。……もし規定がなければ、これを何と呼ぶべきなのか。三年間考え続けていますが、いまだに答えは見つかりません」
医官はノートを開き、格子の正面を手で示した。
「氷堂さん、前へ」
ヒサメが格子の前へ出た。
とたんに泣き声が変わった。何かを探してさまよっていた声が、見つけたものへ飛びかかる甲高い声になる。小さな個体は格子に頭を打ちつけ、ヒサメのほうへ手足を突き出した。身じろぎもせずに、ヒサメはその声を正面から浴びていた。
「火神院さん」
カグヤが入れ替わった。泣き声は少しも変わらない。見つけた、と叫ぶ声のまま、小さな手が格子を掴もうともがく。カグヤは手袋の左手を背中へ回し、一週間前に生え直したばかりの右手だけを前に出して立っていた。
「……胸の悪くなる声ね」
カグヤが吐き捨てた。
「十歳のころから散々聞かされてきた声よ。慣れるわけがないわ。上手になったのは平気なふりだけ」
カグヤが下がると、泣き声はまた探す声に戻った。
「チトセさん」
チトセが前に立った。
泣き声は探す声のままだった。チトセが格子にそっと手を添えても、檻の中のものはその手のすぐ脇を這いすぎ、見当違いの方向へ顔を向けた。
医官のペンがノートの上を走った。
「標的としての認識なし。三十五年前の覚書に記された通りです」
「あなたも、前へ」
壁ぎわからユノが言った。ミナトは格子の前へ進んだ。
その瞬間、泣き声ががらりと変わった。
ヒサメやカグヤに向けた甲高い声とは違う。もっと低く、どこまでも長く引き延ばされている。ねだる声だ、とミナトは思った。腹をすかせた赤ん坊が乳を欲しがって泣くときの、いつまでもやまない声に近い。
檻の中のものは格子にぴったりと張りつき、ミナトに向かって暗い口を大きく開けていた。腹の底がひやりと冷えていく。
「……標識に対する反応ではありませんね」
ユノが低くつぶやいた。
「彼女たちを捉える声と、あなたを見出した声は明らかに性質が異なる。記録しておきなさい」
ミナトが一歩下がっても、泣き声はねだる調子のまま続いた。鉄の扉を閉めたあとも、向こうで同じ声が続いていた。
地上へ戻る廊下で、前を行くカグヤが振り返らずに言った。
「あんたを見つけたときの声。私たちのときとは全然違ってたわ」
「ああ。違ってたな」
「あれは、欲しがっている声よ。私たちを見つけるときは、もっと単純なの。……あいつだ、って飛びつくだけ。でもあんたに向けた声は、欲しくて欲しくてたまらないって泣いてた」
カグヤはそこで足を止めた。
「いったい何を欲しがっているのかしらね。あんたの、何を」
ミナトは答えられなかった。二日前に読んだ覚書には『苗床にも器にも見えないため、敵の知覚から漏れる』とあった。チトセはそのどちらにも当たらない。だとすれば自分は、何に見えているのか。
カグヤはそれ以上聞かずに、先に階段を上がっていった。
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一行だけの指定解除は、翌朝、順位表の脇に貼り出された。
『単因子型は、未生獣に認識されない。回収係の前線配置を開始する』
少女たちはいつものように紙の前で足を止め、自分の番号を確かめたついでに新しい紙にも目を通して、食堂へ入っていった。
朝の補給を終えたミナトがトレイを受け取ったころ、チトセが食堂に入ってきた。
そのとたん、あちこちの卓で箸が止まった。
声を上げる者はいなかった。十月にミナトが向かいに座った朝、少女たちの目はチトセの上を素通りしていた。今朝はどの目も、隅の席に一人で腰を下ろすまでチトセを追いかけていた。
隣の卓で、小さな声がした。
「砕けないんだって。……ずるい」
つぶやいた少女ははっとして、自分の口を手で押さえた。けれど声はもう、チトセの席まで届いていた。箸を止めることもなく、チトセは朝食を口へ運び続けた。
あの紙に書かれているのは、敵に見つからないということだけだ。傷の治りがひどく遅いことも、毎朝一人で八台の担架の留め具を締めていることも、一行のどこにも載っていない。
チトセは空になった椀を重ねて立ち上がった。
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昼下がり、回収室から宿舎へ戻る途中で、訓練広場の脇にいるカグヤとチトセが目に入った。
「あなた」
カグヤに呼び止められて、チトセが振り向いた。
「はい」
「砕けない身体って、どんな気分なの」
カグヤは手袋の左手を右手でぎゅっと包みこみ、聞きながら目を落としていた。
チトセは少し考えてから答えた。
「分かりません。砕けた経験がありませんので」
カグヤは小さく息を呑み、自分を笑うように口もとをゆるめた。
「……そう。そうよね」
カグヤはくるりと背を向け、広場の奥へ歩いていった。遠ざかっていく後ろ姿を見ると、左手を包んでいた右手はもう離れて、体の脇で揺れていた。
夕暮れどき、同じ広場の端で、ヒサメがチトセに声をかけていた。
「前線配置に就いたら、私の小隊の後方に控えなさい。行く手の瓦礫は、私が凍らせて平らにしておくわ」
「はい」
「お礼は不要よ。単なる任務上の規則だから」
先週、残量がゼロだった朝も、ヒサメは何も流れてこない手を三分握り通して「規則だからよ」と言った。
ヒサメは同じことを隊にも伝えた。広場の端にA級の二人を呼び、石田リンともう一人の前に立つ。
「明日から、回収係が隊の後方につく。瓦礫は私が先に凍らせておくから、担架はその上を通るわ。あなたたちは、担架の前に割りこまないこと」
「回収係は、私たちより前に出るんですか?」
リンが首をかしげた。黒いタイツの左のすねのあたりが、下に巻いた包帯のぶんだけ少しふくらんでいる。
「後方よ。ただ、あれには回収係が見えない。だから後ろから前へ抜けていくことになるけど、構わず行かせなさい。足を止めたら、あなたたちのほうが前に出てしまうから」
リンはうなずいた。そのまま下がるのかと思うと、もうひとつ尋ねた。
「回収係の方、お名前はチトセさんですよね」
「知っているなら、重ねて聞かないで」
「……隊長がご存じかどうか、確かめたかっただけです」
ヒサメは答えずに二人を解散させた。リンたちの姿が見えなくなってから、自分の左手を強く握りしめ、ゆっくりと指をほどいた。
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夜、回収室へ下りる階段の途中から、金具を締める硬い音が聞こえていた。
下りきると、床に八台の担架が一列に並んでいた。いつもは医療棟の裏の物置にしまってあるのを、チトセが夜のうちに運びこんだらしい。一台ずつ留め具に指先をかけ、締まり具合を確かめているところだった。半地下の部屋は夜になるといっそう冷え、吐く息がうっすらと白い。明日からは、この八台を戦闘のさなかの前線へ引いていく。
ミナトは階段の下に立ったまま、留め具を確かめていくチトセの白くて細い指を見ていた。五日おきの刻みでいけば、明日は警報の鳴る日にあたる。魔法は使えず、ミナトの力も届かない。怪我をしても治す手立てのない身体で、チトセは明日初めて前線に出る。その前の晩に、担架の留め具を一台ずつ確かめている。
自分には真似できない、とミナトは思った。
「怖くはないのか」
ミナトが聞くと、チトセは手を止めずに答えた。
「瓦礫は怖いです」
「未生獣は?」
「向こうからは見えないようですので、怖いとは感じません」
チトセは八台目の留め具を締め終え、ようやく顔を上げた。
「昨日、検体室で、あれのすぐ近くに立ちました。泣いていました。けれど、私を探してはいませんでした。……人に見過ごされるのには慣れています。ですが、あんなに近くにいて誰にも探されないのは、初めてでした」
「どんな感じだった」
「静かでした。すぐ隣で、あんなに泣いていたのに」
チトセは点検を済ませた担架を、一台ずつ壁に立てかけていった。
「明日は、私が初めて戦線の前に出る日です。八台とも、全部点検しました。折れません」
十月には物置で留め具を締めながら、これまでに担架が二度折れ、二度目には載せていた人が落ちてしまったと話していた。
「俺は、後ろの補給拠点から見てるよ」
「見えますか」
「見えるよ」
「では、見ていてください。人の目に留まらない暮らしに慣れきっているので、誰かに見守られるというのは少し不思議な心地がします」
チトセは棚の端の、番号のない箱の前へ歩いていった。以前は朝に一度だけだったのが、このごろは夜にもここに立つ。ミナトもその隣に並んだ。
一分か、二分か。二人は黙って立っていた。やがてチトセが口を開いた。
「貼り出されたあの一行で、私は資源になりました。長官がそう言い切るのを部屋の中で聞きました。外ではなく」
「……俺と同じ、って言ってたな」
「はい。……資源と呼ばれるのは生まれて初めてのことです。これまでは帳簿の欄の外に置かれていましたから。どちらがましなのかは、まだ分かりません」
チトセは壁のスイッチに指をかけ、ぱちりと明かりを消した。




