第十六話 強くなかったら
処置室の扉の脇に立つ隊員は、いつもなら手元の無線機ばかり見ているのに、今日は監視窓のほうへ体ごと向いていた。無線機を握り直した指の関節が白く浮いている。
九度目の襲撃だった。レベル三、第五区画。無線は敵の数を読み上げた。泣き声はおよそ十。区画ごとの配置が続き、最後にこれまで一度も流れたことのない一行が告げられた。
『回収係、前線配置。氷堂隊の後方より進入』
ミナトも窓に寄った。第一防衛線の手前のぬかるみを、小さな個体が十体ほど這い回っている。その中へ担架を引いた小柄な人影が入っていった。チトセだ。護衛はつかず、武器も持っていない。二体がチトセの足もとをかすめて這っていったが、どちらも顔を伏せたままだった。
一体だけ、チトセの行く手に腹ばいで寝そべっているのがいた。チトセは歩みをゆるめもせず、担架の柄を握り直して跨ぎ越えた。腹ばいの個体は口を大きく開けて泣き続け、頭の上を通っていった人間には見向きもしない。
チトセは倒れている少女のそばに膝をつき、担架に載せると来た道をそのまま引き返してきた。足を置く場所も歩く速さも、行きとほとんど変わらない。白い冷気が担架の前を流れ、行く手の瓦礫を平らに凍らせていく。少し離れた場所から、ヒサメが冷気を送っているのだ。担架は氷の上を滑りはじめ、チトセの足取りがわずかに速まった。
隊員が詰めていた息を吐いた。
「……本当に、見えていないのね」
医官は黙ってノートを開いた。『前線配置にて標的としての認識なし、実証』。短い一行を書くあいだ、医官のペンはいつもより長く紙の上にとどまっていた。
運ばれてきたのはB級の少女で、補給拠点の中へは入れられなかった。チトセが門の前まで担架を引き、そこからはミナトが引き継いだ。片手で担架の柄を引き、もう片方の手で少女の手首を握る。全員が黙ったまま医療班のほうへ百メートルほど進むうちに、少女の右のすねを覆っていたガラスはすっかり消えていた。
「名前は」
森アヤカのときから、ミナトは真っ先に名前を聞くことにしている。
「……坂本ナツです。B級第一小隊」
「ナツ。覚えた」
ナツは元の色に戻った自分のすねを確かめると、担架の横についてきたチトセへ目を移した。
「回収係の人。あの、跨いだところ、見えました。私を担架に乗せる前に。……怖くなかったんですか?」
「向こうからは見えませんので」
「見えないって、そういうことだったんですね」
医療班の隊員が駆け寄ってくると、ナツはその腕につかまって歩きだした。途中で二度振り返り、二度ともチトセのほうを見ていた。
「10%です」
ミナトが処置室の戸口をくぐると、医官が机のモニターを見たまま言った。ノートの用途不明の欄には、もう新しい一行が書き足されている。
「一回の出動で用途不明と書けるのは、ここまでです」
「分かってる」
「二度と言わせないでくださいと、十月に申し上げました。三度目の警告など、私の服務規定にはありませんよ」
医官はペンを机に置き、少し間をおいて付け足した。
「四度目は、口にしないことにします。言及せず、記録にも残さない。……線の上から降りるつもりはありません。ただ、線の上で目を閉じるだけです」
ミナトは医官の横顔を見たが、目はノートに落ちたまま上がらない。在任の三年間、この人は何があっても困っていないふりで通してきたのだろう。医官はペンを机の端へ寄せた。
扉が開いて、ヒサメが入ってきた。寒くなってから、ヒサメも両手に白い手袋をはめるようになった。歩きながら、その左手だけを抜き取っている。丸椅子に腰を下ろし、黙って左手を差し出した。
握られるとすぐにまぶたを下ろし、いつもの三分が過ぎて手を離しても、目を閉じたまま言った。
「回収係、あれを跨いでたわね」
「見てたのか」
「小隊の全員が見てたわ。手が止まりかけた子が二人いた。……私が怒鳴って動かしたけど」
ヒサメは自分の左手に目を落とした。
「私も止まりかけたわ。あの子が跨ぐところを見て。檻の外で、あれのすぐ隣に立っていられる人間を初めて見たから。……十歳のときから、ずっと見つかる側にいたのよ」
「怖かったのか」
「怖いのは、あの子を見て手が止まりかけた自分のほうよ」
ヒサメは手袋をはめ直して立ち上がり、医官にもミナトにも目を向けずに処置室を出ていった。
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夕暮れ、医療棟の裏の物置の前でチトセが担架の泥をこそげ落としていた。
その手に見慣れない手袋がはまっている。破片を拾うときのより一回り大きく、手首までをすっぽり覆う厚手の作業用のもので、指の付け根に乾いた泥がこびりついていた。
「その手袋、どうしたんだ」
「瓦礫用です。三番の方がくださいました」
チトセは担架の泥を落としながら答えた。
「石田さんです。お名前は存じていましたが、ご自分から名乗ってくださいました。理由はおっしゃいませんでした」
「そうか」
「お礼を申し上げたら、瓦礫で怪我をされると担架の搬送が遅れて困るから、と」
チトセは最後の一台をしまい、物置の戸を閉めながら付け足した。
「たぶん、本当の理由は別にあるのだと思います」
翌朝、トレイを持ったリンが食堂の隅へまっすぐ歩いていった。
チトセが一人で座っている席だ。リンはその隣の椅子を引いて腰を下ろした。声はかけず、チトセのほうも箸を動かしたまま、小さく頭を下げた。ミナトがここへ来たころ、あの隣は空いたままだった。
リンのすねの包帯の下には、硬貨ほどの白い結晶が残っている。
掲示の朝にずるいとつぶやいた少女は、今朝も隣の卓にいた。今度は口を押さえることもなく、何も言わずにチトセが椅子の背に掛けた作業用手袋を見ていた。
昼の回収室で、紙片を書き写していたチトセがふいに鉛筆を止めて扉のほうへ顔を上げた。
一拍おいて、ミナトの耳にも足音が届いた。下りてくる靴音は片方だけが重かった。
戸口の脇で待っていた早瀬が黙って一歩よけ、坂本ナツが姿を見せた。包帯を巻いた脚で敷居の手前まで来ると、そこで足を止めて中へは入ってこない。ミナトが通うようになってから、魔法少女がここへ下りてくるのは初めてだった。
「……お礼を、伝えに来ました」
「回収係に礼を述べに来られた方は、あなたが初めてです」
「初めてなんですか?」
「はい。回収係は、礼を受け取るための役職ではありませんので」
ナツは敷居の外に立ったまま、棚に並んだ箱を見た。識別番号の札と、その横に貼られた手書きの紙片。ひとつずつ目で追ってから、ナツは首を少し傾けるくらいの小さな会釈をした。チトセは頭を下げ返さずに、代わりに名前を呼んだ。
「坂本ナツさん。B級第一小隊」
「……はい」
「覚えました。箱に入らずにいてくださるのがいちばんですが、それでもちゃんと覚えておきます」
ナツは手すりにつかまって階段を上がっていった。チトセは机に向き直り、紙片の続きを書き写しはじめた。鉛筆の運びがいつもより少し速い。
紙片を押さえるチトセの左手の甲に、赤い擦り傷が一本走っていた。机の端には外した作業用手袋がそろえて置いてある。傷のことを聞くと、チトセは左手の甲を見せた。昨日、前線で担架の布を張り直そうと手袋を外したとき、瓦礫で擦ったのだという。
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「見られるの、慣れないか」
神社の絵馬掛けの根元に腰を下ろしたまま、ミナトは境内の奥へ声をかけた。チトセは作業用手袋をはめた手で竹箒を動かしている。日が傾きかけて、掃き寄せた落ち葉の山に長い影が伸びていた。
「見られないほうには、慣れているのですが」
チトセは箒の手を休めずに答えた。
「掲示が出た朝から、たくさん見られています。食堂でも、前線でも、補給拠点からも。……慣れませんね」
「そのうち慣れるさ」
「そうでしょうか」
ミナトは立ち上がり、靴の先で落ち葉をチトセの塵取りのほうへ寄せた。
「俺は、こう思ってる」
口にするつもりで来たのではなかったが、資料室の箱の底に貼られていた写真がずっと頭に残っていた。円卓を囲んだ二十人の男たちが命を数え、判を押した。資料室から戻った夜に並べた二本の線のどちらにも、チトセは載っていない。
「チトセの身体は、この世界の呪いを撥ね除けて生まれてきた、強さの証拠なんだと思う。二本の線があって、みんなそのどちらかに乗っかっている。だけどチトセは、どちらにも縛られずに生まれてきた。それは決して欠陥なんかじゃなくて、強いってことなんじゃないか」
竹箒が、ぴたりと止まった。
「……強くなかったら、ここにいてはいけなかったのですか」
責める響きはどこにもない。
ミナトは答えを探した。
強いから値打ちがある。役に立つから、ここにいていい。順位表の並びも、産院の待合室の貼り紙も、みんなその理屈で書かれている。三日前、窓のない部屋で長官はチトセのことを「彼女の特異体質は貴重な資源です。あなたと同様に」と言った。いま自分が口にした言葉も、長官と同じ形をしていた。
塵取りの縁から、枯れ葉が一枚こぼれ落ちた。
「……チトセが名前を覚えてた、あの子のことだけどさ」
十月の二度目の襲撃で砕けた小林サキのことだ。
「サキは、強くはなかった。B級で、補給の割り当ても受けられなかった。それでもチトセは覚えてたじゃないか。名前も、年も、どこの小隊だったかも」
「はい」
「俺の答えも、たぶんそれと同じなんだ」
チトセは箒を握ったまま、ミナトの顔をじっと見た。
「それが、答えの全部ですか」
「まだ、半分だ」
チトセは小さくうなずいた。
「半分であっても、そんな言葉をいただいたのは初めてです」
チトセはまた落ち葉を掃きはじめた。箒の先に目を落としたまま、何でもないことのように聞く。
「残りの半分は、いつごろ分かりますか」
「いつとは約束できない。でも、分かったら必ず言う」
「分かりました、待ちます。担架を抱えて戦闘が終わるのをじっと待つのが、私の仕事でしたから。……今はもう、待たずに前へ出ることになりましたけれど」
チトセは落ち葉を塵取りに集めた。その中に、ひときわ赤い葉が一枚混じっている。チトセはそれをつまみ上げ、絵馬掛けの柱の根元にそっと置いた。わけは言わず、ミナトも聞かなかった。
絵馬掛けの前に戻ると、戌の日にツムギが掛けていった一枚が、まだ白木の色のまま下がっていた。
『無事に生まれますように』
古い絵馬のうち字の読めるものには、どれも二行目に『女の子でありますように』と添えてある。
チトセが箒を止め、その一枚に目をやった。
「名前がありませんね」
「ああ、ないな」
「ですが、二行目も書かれていません。……ここの絵馬掛けで見るのは、初めてです」
チトセは絵馬掛けに歩み寄り、手袋をはめた指先でその一枚の縁に触れた。
もともと傾いてもいない絵馬を、チトセはまっすぐに掛け直してしばらく指先で押さえていた。
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夜、部屋の前まで戻ると、廊下の突き当たりの暗がりにカグヤが立っていた。壁に背中をつけ、こちらには顔を向けずにいる。
「回収係に、何を話していたの」
扉の脇のパイプ椅子から、ヒサメが聞いた。
「見てたのか」
「境内は訓練広場から見えるもの。話までは聞こえなかったけど、顔は見えたわ」
「強さの証拠だ、って言ったんだ」
ヒサメはしばらく黙っていた。
「……それ、長官が口にする理屈とまるで同じね」
「分かってるよ。だから、まだ半分なんだ」
「残りの半分は?」
「まだ見つかってない」
「私も、半分だけなら分かる気がするわ。あの子の傷が簡単に塞がらないことと、あの子にあなたの魔力が流れないことは、きっと同じ半分なのよ。あなたにとって手が届かない相手がいるのは、救いだと思うわ」
「どうしてそう思うんだ」
「あなたの手が届く相手は、みんなあなたを欲しがるようになる。私も。あの子だって」
ヒサメは廊下の端へ目をやった。カグヤは聞こえていないふりをしていたが、肩の固さで分かった。
「届かない相手だからこそ、あなたを欲しがらずにいられる。対等に隣に立ち続けられる。……それは、私にはもう二度とできないことよ」
ヒサメはそれきり口を閉ざした。
突き当たりで、カグヤが壁から背中を離した。こちらには顔を背けたまま、壁のすぐそばの階段を下りていく。ヒサメは椅子に腰かけて、カグヤが下りていった階段のほうをじっと見ていた。
ミナトは扉を閉めた。




