第十七話 ナギ
二十週の期限は、黙って見送られた。
産院の待合室の壁には、十月に初めて来た日と同じ貼り紙が今もある。『胎児の性別判定は妊娠二十週までに』と大きく刷られた一枚だ。二十週を過ぎると、助産師は検査の話をしなくなった。勧める義務がなくなったから、と本人が言った。
十月の終わりから、ミナトは週に一度ツムギの手を握りに通っていた。十一月の半ばを過ぎたころ、その一週間が持たなくなった。
「五日目から、少し痛むんです」
ベッドの上で、ツムギは申し訳なさそうに言った。
「前は七日持ったんです。今は五日」
「週に二回にする」
「……いいんですか」
「俺が決められることじゃないけどさ」
ミナトは半分開いた扉の向こうへ目をやった。廊下の壁ぎわで、早瀬が手元の無線機を見下ろしている。
「車は週に二回出ます」
早瀬は無線機から顔を上げずに答えた。内ポケットにしまった許可証は、今週も行き先の欄が白いままだ。
一度、ツムギが健診の順番を待っていた日に、待合室の話し声を聞いたことがある。その日は奥の部屋が空くまで、ミナトは帽子とマスクをつけて、待合室に面した廊下の椅子で待っていた。ツムギの隣の女が、身を寄せて話しかけた。
「判定、もう受けた?」
「……受けてません」
「そう」
女は、服の上からではまだふくらみの分からないお腹を撫でた。
「私は三年前に一度受けたの。……この子の、上の子になるはずだった子」
ツムギは返事をせず、女もしばらく黙っていたが、やがて誰に聞かせるともなく付け足した。
「名前はね、つけちゃいけないって言われたから、つけなかったの。でも、決めてはあったのよ。誰にも言ってないけど」
ツムギは女の手に自分の手を重ねた。驚いて見下ろした女は、口もとだけで笑った。目のふちが赤くなっていた。
受付が女の名字を呼んだ。診察室へ入っていく背中を見送ったあとも、ツムギは空いた椅子をしばらく見つめていた。
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十一月の最後の週、奥の部屋に見知らぬ作業着の男がいた。
五十を過ぎたくらいで、日に焼けた手が大きい。ツムギに「夫です」と紹介されると、男は丸椅子に座ったままミナトを見上げた。
「……本当に、若いんだな」
九月に宿舎の入口ですれ違った男は、台車を止めたまま動かなくなった。この男はゆっくりと目を細めた。
「港で働いてる。今日は休みでね」
「港?」
「船の荷を揚げ降ろしする仕事だ。船は四十年前と同じように来る。荷を運ぶのは女ばかりになったが、船は同じだ」
ミナトがツムギの手を握るあいだ、男は黙って妻のお腹を見ていた。しばらくして、そのままの姿勢で口を開いた。
「俺が子どものころには、男の子が普通にいた。半分いたんだ。学校の教室にも半分な」
「そうか」
「災害のとき十二だった。同じ組の男はみんな五十過ぎの親父になったよ。四十より下は一人もいない。……港で若い奴を見かけないのにも慣れたつもりだったが、あんたを見て、まだ慣れてなかったんだと分かったよ」
男は膝の上で大きな手を組んだ。
「決めたのは俺の親の世代だ。あんたのところにもあるんだろう、議会ってやつが。男ばかりで決めたんだ。母親たちが死んでいくのを、みんな目の当たりにしたあとだった。反対した奴もいたが、あれを見せられたあとじゃ誰も強くは言えなかった」
ミナトは資料室で見た円卓の写真を思い出した。並んでいたのは背広の男ばかりで、作業着の男は一人も写っていない。
「親父はそのとき議会にいなかった。港にいたんだ。仲間たちと、決めた連中へ食ってかかったが何も変わらなかったな。文句を言うのと決めるのは違う。……俺はまだ子どもで、どっちもできなかった」
男は顔を上げた。
「あんたは、どこから来たんだ」
ミナトは隠さずに答えた。線路の下の地下道を抜けてきたこと。向こうは、何も塞がっていない世界だということ。
男は目尻に深い皺を寄せて笑った。
「そうか。じゃあ、あっちには男の子がいるんだな。半分」
「半分いる」
「……そうか」
男はそれで話を終えた。
引き上げる時刻になると、男は扉の前で振り返り、ミナトに頭を下げた。深く、長い礼だった。
廊下まで見送りに出たところで、男が足を止めた。
「痛くないのか、あんたは」
「空になるだけだ」
「空か」
男は自分の手のひらを見下ろした。指の節まで日に焼けている。
「港でも、一日荷を揚げれば俺も空っぽになる。……あんたは、空になったら何日で戻る」
「三日で」
「……勝ったな。俺は一晩だ。妻の作ったご飯を食べて寝ればな」
男はにこりともせずにそう言い、廊下の角を曲がっていった。部屋へ戻ると、ツムギが口を押さえて笑いをこらえていた。うちの夫、真顔でしか冗談を言わないんです、と小声で言う。
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笑いが収まると、ツムギはベッドの上でお腹に手を当てた。
「ナギ」
半月前にツムギが「ナ……」で呑み込んだ続きだった。
「今日はお父さんも来たよ。ミナトさんも来てる。いつもの人」
お腹が動いたのが、握った手越しにも分かった。
「……名前か」
「はい。凪。嵐のあとの静かな海です」
ツムギはお腹に目を落としたまま言った。
「港に船が帰ってくるのは凪のときだって、夫がよく言うので」
湊。ミナトは自分の名前の字を思い浮かべた。水の集まるところで、船が帰ってくるところだ。母がつけた字だと聞いている。この世界に来てから、字を聞かれたことはまだ一度もない。
「向こうでは、名前はどうやって決めるんですか」
「親が決める。生まれたあとに」
「生まれたあとに」
「たいていはな。生まれてから名前を決めて、役所に届けるんだ」
「こっちも昔はそうだったって、母が言ってました。男の子でも女の子でも、生まれてきたら名前をつけたって。母のもっと前の人たちは、って」
ツムギは少し声を落とした。
「呼ぶと動くんです。ミナトさんが握ってなくても。最初に動いたのは神社でしたけど、家で呼んだらまた動いて。それから毎日」
「毎日呼んでるのか」
「呼んでます。朝と夜と、あとは思い出したときに。……母には言っていません。呼んじゃいけなかった、って言われて育った人なので、きっと止められます」
ツムギの母がツムギより前に男の子を妊娠していた話は、十月にこの部屋で聞いていた。
扉の外で助産師の足音が止まり、しばらくしてから、何も聞かなかったように廊下の奥へ遠ざかっていった。
ツムギは扉のほうへ目も向けずに、もう一度呼んだ。
「ナギ」
また動いた。
ミナトの手の中で指がぴくりと跳ね、ツムギは声を立てずに笑った。
待合室の女の声がよみがえった。決めてはあったのよ。胸の内にしまったままの名前が四十年でいくつあるのか、ミナトには見当もつかなかった。
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内地の街路樹は、もうどれも葉を落としていた。
「十二月に入ったら、三日おきになると医官が言っています」
信号待ちのあいだに、早瀬が言った。
「ツムギのことか」
「はい。週数が進むほど持たなくなります。臨月には毎日だそうです」
「毎日……」
「毎日です。それと、襲撃のほうも。九度目のあとは間が空いていますが、医官の予測では、来月からは四日おきです」
早瀬は前を見たまま続けた。
「三日で満ちる。四日に一度の襲撃。三日おきの産院。……足りると思いますか」
「足りなくなったら、また考える」
ミナトの答えは、四日目の朝に病室で長官が言った「現時点での試算です。逼迫した段階で次の手を打ちます」を、自分の口に合う言葉に直したものだった。
早瀬の口もとが少しだけゆるんだ。
「私もそう答えることになっています」
ゲートが見えてくると、早瀬は車の速度を落とした。
「それと、もうひとつ。内地で、小さいのを見たという話が出始めています。産院の裏の川で。……噂です。見た人が見間違えたことになっています。今のところは」
「今のところは、か」
「私はそう報告することになっています。今のところは」
早瀬はそれきり、宿舎の前に着くまで口を開かなかった。
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医療棟の脇を通ると、地面すれすれの回収室の明かり取りから光が漏れていた。ガラスの向こうで、鉛筆を持った白くて細い手が動いている。誰に頼まれたわけでもない名前を、チトセは今日も書き写している。
ミナトは足を止めて、しばらくその手を見ていた。それから、宿舎へ向かう道をそれた。
階段を下りて戸口に立っても、チトセは書く手を止めなかった。
「産院の日でしたね」
「ああ」
「……名前を、聞きましたか」
紙片から目を上げずに、チトセが聞いた。ミナトは少し考えてから答えた。
「ナギ。嵐のあとの静かな海の、凪だ」
書きかけの字が途中で止まった。
「生まれる前の名前を、初めて聞きました」
チトセは棚を見上げた。十七の箱と、番号のない箱がひとつ。
「ここには、生まれたあとの名前しかありません。生まれる前のは、書く場所がないので」
「書かなくていい。ツムギが毎日呼んでる」
「呼んでいる人がいるなら、書かなくていいです」
書きはじめる前に、チトセの唇が一度だけ小さく動いた。ナギ、と言ったように見えたが、声は出ていない。
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「外は寒かった?」
宿舎の三階へ上がると、廊下のパイプ椅子からヒサメが聞いた。手に提げた帽子とマスクに一度だけ目をやったが、行き先は聞かない。十月にヒサメは「一度決めた規律は守る」と言ったきりだ。
「……寒かったよ」
「そう」
ヒサメは自分の爪先に目を落とした。
「夜、部屋で名前を呼んでいるでしょう。扉の前にいれば分かるわ」
「……声は出してないのに、分かるのか」
「分かるのよ。名前をひとつ言うたびに、息がひとつ止まるの。私も候補生の部屋で、毎晩六人の名前をそうやって唱えていたから。……途中からは、カグヤもその部屋にいたわ」
ヒサメは少し間をおいてから聞いた。
「何人になったの」
「十一人」
資料室で会った真鍋と、坂本ナツ。この半月で増えた二つを入れて、ゆうべまでに数えた名前は十一だった。
「私は六人で止めたわ。あなたは十一人で、まだ止めないのね」
「止めない」
「そう」
止めなさい、とヒサメは言わなかった。回収室に通いはじめたころ「三度目はもう言わないわ」と言ったとおりにしている。
廊下の突き当たりの窓の外で、訓練広場の赤い火がちらついていた。
ミナトは帽子のつばを握り直し、十一の名前のあとに、生まれる前の名前をひとつ足した。ナギ。これで十二になる。
覚えると減る、とヒサメは言っていた。
減るなら減ればいい。
椅子の上でヒサメが顔を上げ、ミナトの顔を見た。それから黙って、コートの襟を耳の下まで立てた。




