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未生獣 〜十八の冬を越えた魔法少女はいない〜  作者: 春凪一


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第十八話 ねだる声

 十二月一日の朝、食堂の入口で、医官が掲示板の新しい欄にペンで「67%」と書き込んでいた。


 欄の見出しには『アンカー残量』とある。今日から毎朝、医官が計器を確かめて「満」「67%」「33%」「ゼロ」のどれかをここに書くのだという。その上の順位表は、一番に氷堂(ひょうどう)、同じ一番に火神院(かぐいん)、同率。三番から七番はA級で、B級以下は対象外。測定値の欄には二人とも「上限超」と刷られている。同率の行も、朱色のペンと長官の角印だった十一月の紙とは違い、最初から印刷の字だった。


 掲示板の前で足を止めた少女たちは、自分の番号を探すより先に残量の欄へ目をやった。朝食の列に並んでからも、何人かは振り返ってもう一度確かめている。


「天気予報みたいだな」


 産院へ行く日で、早瀬(はやせ)は朝のうちから宿舎に来ていた。ミナトがつぶやくと、隣の早瀬はすぐには答えずに欄の字を見上げた。


「今日は、雨寄りの曇り、ですね」


 冗談だと分かってミナトは笑いかけたが、少女たちが誰も笑っていないのに気づいて口を閉じた。あの欄で、今日の補給が自分の番号まで届くかどうかを読んでいるのだ。自分の残り時間を読むのと同じ目だった。


 石田リン(いしだ りん)が、掲示板の前に立ったまま小さく言った。


「大きいのは、満の日に来てくれますように」


 誰かに聞かせるつもりはなかったらしい。神社の絵馬に書くような言い方だった。リンは言い終えると掲示板に背を向け、朝食の列のいちばん後ろに並んだ。


---


 十二月から、産院へは三日おきに通う。医官はノートの一枚に十二月の予定表を書き、ミナトの部屋の壁に貼った。産院へ行く日には丸がついている。襲撃の日は空けておいて、来てから書き込むのだという。


 丸と空欄のあいだに「満」と書ける日がひと月に何日あるのか、ミナトは指を折りかけてやめた。



「残量が33%の日に襲撃が来たら、どうしますか」


 三日後、産院からの帰り道だった。川沿いの細い道で、ワイパーが一度だけ窓の霜を払った。


「33%で回す」


「一番か二番が重体だったら」


「……」


「答えはいりません。聞くだけなら、私にもできますので」


 ミナトは窓の外へ目をやった。あの茶色の雌の姿も、もう浅瀬にない。そのかわり川岸の枯れ草が水際から土手の上まで一筋に押し倒されていた。何かが川から這い上がって、また水へ戻っていった跡のようだった。


 見間違いだと思うことにした。このごろは、そういう片づけ方がミナトにも身についてきている。土手から目を離し、前を向いた。


---


『氷堂隊より報告。敵、こちらの標識を無視している。私たちの真横を抜けて、第二防衛線へ向かっている』


 無線のその声に、卓に計器を並べていた医官が顔を上げた。


「無視……」


 十度目の襲撃は、それからまた三日後、十二月の第一週の終わりの夜に来た。その日も昼に産院から戻っていた。警報はレベル四で、第五区画から第七区画までを一度に読み上げた。三つにまたがる警報は初めてだった。前線からの第一報は、大型二体、中型五体、小型多数。最後に『……様子がおかしい』と一言付いていた。


『火神院隊、同様。攻撃してもこちらを向かない。全個体、壁へ向かって這っている』


 続いて、チトセの声が無線に乗った。


『回収係より。……私の横も通っていきます。それは、いつもと同じです。ただ、氷堂隊の横も通っています。いつもと違います』


 ミナトは監視窓に顔を寄せた。


 外の暗がりで地面がこちらへ寄ってくるように見えた。目を凝らすと、這っている影の群れだった。小型が何十体もいて、あいだに中型の大きな影がまじっている。カグヤの炎に照らされた影も、ヒサメの冷気の霞をくぐった影も、そろって同じ方角へ進んでくる。補給拠点のある、この壁のほうへ。


 泣き声が近づいてきた。


 十一月、検体室の鉄格子の向こうからミナトに向けて上がったのと同じ声だった。


「……ねだる声だ」


 口に出したのと同時に、窓の外が暗くなった。


 中型の一体が壁の真下まで来ていた。背丈は防壁とほとんど変わらない。不完全な形の両腕を壁にかけ、頭を窓の高さまで持ち上げてくる。目も鼻もない顔が、ガラスの向こうでまっすぐこちらを向いた。


 顔の下半分が、横にぱっくりと裂けた。


 ねだる声が、窓ガラスをびりびりと震わせた。


「伏せろ!」


 扉の脇の隊員が銃を構えて撃った。ガラスが砕け、冷たい夜気と泣き声がいっぺんに処置室へなだれこむ。弾は青白い皮膚に穴をあけたが、穴は見ているうちに塞がっていった。中型は隊員を見ようともせず、医官にも顔を向けない。大きな手で窓枠を掴み、ミナトに向かって口を開け続けている。


 ミナトは立ちつくした。裂けた口から視線を外せない。


 あれは、欲しがっている声よ。あの日、地上へ戻る廊下でカグヤはそう言った。裂けた口が、割れた窓からこちらへ迫ってきた。


 後ろから襟首を掴まれた。


 床へ引き倒され、扉のほうへずるずると引きずられていく。早瀬だった。片手でミナトの襟を握り、もう片方の手を床について後ろへ下がっている。首筋に早瀬の指がじかに当たっていた。素手で触れるなという命令を、護衛についてからの二ヶ月、早瀬は一度も破ったことがない。


「接触しました」


 ミナトを引きずりながら、早瀬が言った。


「事後報告とさせていただきます」


 窓枠が白く凍りはじめた。


 中型の指先から白い色が腕へ、肩へ、頭へと這いのぼっていく。口を開けた形のまま、ねだる声がぷつりと途切れた。割れた窓の向こうに、ヒサメの左手が固く握りこまれるのが見えた。


 中型は立ったまま、粉々に砕けて崩れ落ちた。


 ヒサメが外から窓枠に手をかけ、割れたガラス越しに中をのぞきこんだ。吐く息が白い。ヒサメはミナトを見つけると、すぐに早瀬の手元へ目を移した。


「触れたのね」


「はい」


「……構わないわ。私から報告を上げておく」


 防壁の外で赤い火柱が上がった。カグヤの炎が、壁の根もとに群がっていた小型をまとめて焼いていく。火に包まれても、どれも壁のほうを向いたままで、少女たちに顔を向けたものは最後まで一体もいなかった。


---


 泣き声がすっかりやむと、カグヤが補給拠点に入ってきた。


 右の袖が少し焦げているが、怪我はなさそうだった。カグヤは黒い手袋をはめた左手で、割れた窓を指した。


「あんたを狙ってるわ」


 ミナトをまっすぐに見て、カグヤは言った。


「私たちを素通りして、あんたの元へ群がっていった。全部よ。……無視されたなんて初めてだわ。十歳で覚醒してから、ずっと見つかる側だったのに」


「標的が切り替わったのよ」


 窓の外からヒサメが言った。枠に手をかけたまま、中へは入ってこない。


「苗床の確保から、別の目的へ」


 資料室で読んだ三十五年前の覚書には、『苗床にも器にも見えないため、敵の知覚から漏れる』とあった。単因子型(モノ・コード)について書かれた一行だ。少女たちが苗床なら、Yを持って生まれた自分は器のほうになる。


 医官はノートにペンを走らせながら、無線で報告を上げていた。標的の変更。補給拠点への直接攻撃。護衛による緊急の接触、一件。


 無線の向こうから、長官の声が返ってきた。


『補給拠点を第三防衛線まで下げなさい。今夜中に済ませること。それから、彼の外出については——』


 ミナトは息を止めた。


『——現状を維持します。許可証の運用に変更はありません』


 医官は指示を復唱して無線を切った。早瀬がミナトのほうへ目を向けたが、口は開かずにいた。


「どうして変えないんだ」


 ミナトが言うと、医官はノートにペンを走らせたまま答えた。


「長官の判断です。私が口を挟むことではありません」



 割れた窓に隊員たちが板を打ちつけているあいだに、チトセが門の向こうから担架を引いてきた。


 乗っていたのはB級の少女で、膝に指二本分ほどの透明な結晶が張りついている。ミナトは門の外まで出ていき、担架の片側を持ち上げながら少女の手首を掴んだ。膝のガラスが、縁のほうから肌の色に戻りはじめる。


 止める者は誰もいない。医官は門の内側に立っていたが、ノートは閉じたままだった。「線の上で目を閉じるだけです」と、九度目の襲撃のあとで医官は言っていた。


「今日は、いつもと同じでした」


 担架の柄を地面に下ろすと、チトセが言った。


「私の横は、いつもどおり通っていきました。……今夜は氷堂さんたちも初めて、私と同じ見えない側に立ちました」


「どんな様子だった」


「私がいつもしているのと、同じ顔だったと思います。自分の顔は見たことがないので、分かりませんが」


---


 計器の箱と担架と、壁から剥がした順位表の写しが、その夜のうちに装甲車へ積みこまれた。補給拠点は第三防衛線の壁まで下がる。走りだした装甲車の中で箱が揺れるたび、留め金がかちゃかちゃと鳴った。


「産院のことを考えていますね」


 留め金の音にまぎれて、早瀬の声がした。


「……俺を狙って来るなら、産院も危ないんじゃないか」


「今夜、内地には一体も出ていません。無線で確かめました」


「これからは」


「分かりません」


「ただ、戌の日に神社へ来た五体は、お腹の子を狙っていました。あなたが行けば、あれは見失う。行かなければ、見つかったままです」


「俺が行けば、俺を追ってくるかもしれない」


「来るかもしれませんし、来ないかもしれません」


「私は運転するだけです。行くか行かないかは、あなたが決めてください。それが私の線引きです」


「早瀬さんは、線引きなんてしない人だと思ってた」


「いたしません。ですので、あなたが引いた線の上を運転するだけです」


 早瀬は胸ポケットから手帳を出し、膝の上で開いた。


「今夜触れたことは、報告書に書きます。触れた理由も。……眼前に敵が迫り口が開いたため、と書くつもりです。私にも、それ以上の理由はありませんので」


 ペン先が一行ぶん動いて止まった。早瀬の指が当たっていた感触が、ミナトの首筋にまだ残っていた。


---


 上着を脱ぎかけたところで、ノックもなしに部屋の扉が開いた。


 ヒサメだった。パイプ椅子は持っていない。部屋に入ると後ろ手に扉を閉め、その扉に背中をつけて床に腰を下ろした。


「……何してるんだ」


「護衛よ」


「護衛なら、廊下でするもんだろ」


「扉一枚でも邪魔なのよ。今夜身に染みて分かった」


 ヒサメは両膝を抱えた。腰まである銀の髪が、床の上に広がっている。


「窓のところまで来たのよ。私が凍らせなかったら、あなたは今ごろあれの中だったわ。私は間に合った。今夜はね」


「明日は」


「明日も間に合わせるわ。ここにいればね」


「カグヤは」


「廊下の突き当たりよ。今夜もね。……あの子は外。同率になっても、中にいるのは私よ」


 ミナトは明かりを消し、ベッドの端に腰を下ろした。暗がりで衣擦れの音がする。ヒサメが床の上をベッドのそばまで寄ってきて、ミナトのシャツの袖を掴んだ。


 寒さよけの白い手袋をしていない左手だった。九月の夜に交差点で生え直してから、ずっと氷のように冷えたままだ。


「……早く寝ろよ」


「もう寝てるわ」


 寝ているはずがない。袖を掴むこの指の力は、ヒサメ自身のものだろう。


 目を閉じると、窓の向こうで裂けた口がまぶたの裏に浮かんだ。あれが何をねだっているのか、ミナトにはまだ分からない。


 緩んでは掴み直す指に、ミナトは夜明けまで袖を預けていた。


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