第十九話 雪の前に
補給拠点は第三防衛線の壁に移った。
宿舎から歩いて五分。警報のたびに装甲車で第二防衛線まで運ばれていたころより、ミナトにとっては近くなった。そのぶん前線からは遠く、チトセが担架を引いて第一防衛線の裏から十五分かかる。そのあいだに、透明な結晶は肩まで広がるだろう。
監視窓の正面には第二防衛線の壁の背中があり、前線の火柱も冷気の霞も、壁の上にわずかにのぞくだけになった。泣き声のほうは、壁を二枚隔てても届く。
B級の子は、これまでどおり補給拠点の中へは入れない。ミナトが手を貸せるのは、担架が第三防衛線の門をくぐってからのあいだだけだ。担架の脇を歩きながら少女の手首を握るやり方は前と変わらない。ただ、門から補給拠点までは五十メートルしかなかった。医療班が待っているので、担架の足を緩めるわけにもいかない。ガラスが消えきる前に着いてしまうこともあり、残った分は医療班で止めることになる。
補給拠点を移した日の晩、装甲車から下ろした担架を新しい処置室の壁に立てかけながら、チトセが言った。
「前線からここまで、十五分かかります。そのあいだに広がった分は、少し痕が残ります」
十一度目の襲撃は、朝のうちに産院へ行った日の午後に来た。レベル三、第六区画。ツムギの手に67%を流したあとで、残量は33%に減っていた。四日おきの襲撃と三日で満ちる身体は、その日、初めて噛み合わなかった。
担架は一台ずつ門をくぐってきた。乗っていたのは三番と六番と七番で、医官は三人の傷を見てから計器の針を読んだ。
「三人で33%です。10%ずつなら足ります。七番の背中には15%要ります。……2%、足りません」
「七番を先に」
背中のガラスは、すねや肩より胸に近い。
「順番は三番からです」
医官が「三番」と呼ぶと、担架の上から「石田です」と返事があった。
リンのガラスは右のすねにあった。包帯の下で白く固まったままの左とは、反対の脚だ。片手でリンの手を握り、もう片方をリンの細いすねに当てると、縁から肌の色に戻っていった。
「遠くなりましたね」
すねを見下ろしたまま、リンが言った。
「悪い」
「ミナトさんのせいじゃないです。順番のせいでもないです」
10%で右のすねは元の色になり、リンは自分の足で処置室を出ていった。
六番の肩にも10%を流し、最後に七番の手を握り、ワンピースの背中の裂け目から手を差し入れて肩甲骨の下にそっと当てた。残りの13%が流れたところで、ミナトの中が空になった。肩甲骨の下には、指一本分のガラスが透きとおったまま張りついている。
「残りは医療班で」
医官が言っても、七番は担架の上で天井を見つめたままだった。名前を聞いたミナトに「私は番号で十分です」と答えた子だ。そのまま担架ごと運ばれていった。
指一本分の進行は医療班で止まり、そこに白い痕が残った。翌日の食堂で、七番が背中をまっすぐ伸ばせずに座っているのを、ミナトは入口から見た。
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十一度目の翌朝は、残量がゼロだった。ヒサメとカグヤが補給を終えて出ていった。
「依存です。二人とも」
閉まった扉には目もやらず、医官はノートに向かっていた。
「レベル二を受けた二人は、あなたが空の日に眠れません。氷堂さんはあなたの部屋の床で寝ています。火神院さんは廊下の端に立ち、そのあと広場で火を出しています。どちらも、残量がゼロの日ほどひどい」
空の三日間に、医官は同じことを「依存の兆候」と呼び、ノートに書くにはまだ早いと言った。今朝は、兆候とは言わない。
「知ってる」
「知っていることを、記録として言っています。線の上に立つと申し上げた以上、見えたことは言います」
医官はノートを閉じ、表紙に手を置いた。
「あなたが減ると二人が減る」
「俺は減ってない」
「まだ……」
医官はそこで口を閉じた。まだ、のひと言が耳に残った。
「医官は、依存を止める方法を知ってるのか」
「知りません。レベル二の反動の欄は先月まで空欄で、埋まったのは火神院さんが二人目です。四十年かけて二例では、方法など分かりようがありません」
医官はノートを開き直し、ペンを取った。
「分からなくても、書いておけば私のあとの誰かが読めます。三年後か、三十年後か」
紙の上に書かれていく依存の二文字が、逆さまでも読めた。
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産院の裏の戸をくぐる前に、ミナトは手首の計器を外した。
産院で流した分は医官のノートに書かれず、計器を外してしまえば用途不明の欄にも載らない。
三日目の朝のツムギは、もう痛みをこらえて待っていた。
「二日目の夜から痛みます」
「三日が持たないのか」
「持ちます。でも……」
その先は言わずに、ツムギは手を差し出した。握れば痛みは引いていくが、前より時間がかかる。
助産師が廊下から顔をのぞかせた。
「裏の川でね、小さいのを見た人がいるんですって」
ミナトは手を離さなかった。それでも握る力が変わったのか、ツムギが顔を上げた。
「内地にも出るんですか」
「出ないことになってるわ」
助産師は肩をすくめて付け足した。
「見た人が見間違えたことになっています。今のところは」
十一月の終わりに、帰りの車で早瀬が口にしたのと一字も違わない。
帰りに産院の角を曲がると、このところ角に停まっている灰色の装甲車の脇で、今日は隊員が二人、川のほうを向いて立っていた。ミナトは運転席の早瀬を見た。
「内地警備の強化です」
早瀬はハンドルに両手を置いたまま答えた。
「先週からです。関係ありません」
「本当に関係ないのか」
「関係ない、と私は聞いています。そのまま伝えただけです」
ミナトはその言葉を信じることにした。疑いだしたら、産院へ来られなくなる。走りだした車から振り返ると、隊員たちは川から何かが上がってくるのを待つ構えで立っていた。
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居住区へ戻って神社へ足を向けると、石段に紅い髪が見えた。
カグヤが神社にいるのは珍しい。ふだんは訓練広場か補給の部屋か、夜の廊下の端にしかいない。
冷えこんだ石段に座っていても、カグヤはいつものとおりタイツをはいていなかった。寒そうなそぶりもない。火を扱う身体は、冬でも冷えないらしい。
「家から電話があったわ」
ミナトが隣に座るより先に、カグヤが言った。
「手袋のことを聞かれた。火神院の娘が指を白くしているのは体裁が悪いって」
手袋の下で白く固まった三本の指先のことだ。
「……そうか」
「話はそれで終わり。向こうが先に切ったわ」
カグヤは右手で、肩口で切りそろえた紅い髪の先をつまんだ。
「髪を染めてるのは家のためじゃない。私のためよ。銀は残り時間の色だから、数えたくないの」
「今は?」
「今も数えてないわ。私が見てるのは、あんたの残量だけ」
笑いもせずに続ける。
「医官に言われたでしょ。依存だって。……結構よ。一番でいられるなら」
少し黙ってから、カグヤは石段の下へ目をやった。
「でも氷堂は違う。あの子は一番でいたいんじゃない。あんたを離したくないだけ。私には分かる」
「なんで分かるんだ」
「同じ部屋で何年も寝てたからよ」
そう言って立ち上がった。
「施設は違うけど、候補生の部屋は途中から同じだった。あの子は六人の名前を毎晩言ってた。声に出さずに。口が動いてるから分かるのよ。……ある日、言わなくなった。減るからって」
石段を下りながら、カグヤは背中越しに言った。
「あんたが夜中に名前を言ってるのも、分かってるんだから。……減るわよ」
「減るなら減ればいい」
「……あの子も最初はそう言ってた」
カグヤは振り返らずに去っていった。手袋の左手の指先を、空へ向けたまま歩いていく。
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長官に呼ばれていた。午後、庁舎の三階へ上がる階段の窓から、空が白く濁っているのが見えた。神楽坂ユノと顔を合わせるのは、これで三度目になる。
ユノは前置きもなく言った。
「毎年、冬に大きいのが来ます。冬季の大攻勢。過去十年、例外はありません。今年は目標があなたです。大攻勢の日、あなたは第三防衛線から動かない。命令です」
言い終えると、ユノは書類に目を落とした。
「……産院の日と重なったら」
口にしてから、ミナトは息を止めた。言うつもりはなかった。
ユノが顔を上げた。
「産院?」
間があった。ユノは瞬きもせずにミナトを見ている。
「内地の警備は強化してあります」
ユノは産院という言葉にそれきり触れずに、もう一度言った。
「あなたは第三防衛線から動かない。以上です」
部屋を出ると、廊下で早瀬が待っていた。何も尋ねてはこない。
「……今日も聞こえてたんだろ」
「扉の外にいるのが仕事ですので」
「長官は、何も言わなかった」
「何も言わないのが、いちばん言っているということです」
戌の日の一件のあと、処分を待っていた三日間にも、早瀬は「何も言われないことこそが、最大の返答ですよ」と言った。あのときより、今日のほうが重く聞こえる。
庁舎を出ると、この冬はじめての雪が落ちてきていた。
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夕方には、回収の道に雪が積もっていた。
第三防衛線の門の外で、チトセとリンが担架の通る幅だけ雪を掻いていた。リンは左のすねの包帯の上に雪よけを巻き、シャベルを握っている。誰に言われたのでもないという。
「凍った瓦礫の上に雪が積もると、担架が滑りすぎるんです」
門の脇にいたミナトに、チトセが言った。
「乗っている人が落ちます。拾い上げるころには、もう砕けていることが多いので」
リンがシャベルを止め、雪の下から指の先ほどのガラスの破片をつまみ上げた。暮れかけた光に透かしてしばらく見つめてから、チトセの腰に下がった袋へ入れる。黙って紐を締めたチトセと並んで、リンはまた雪を掻きはじめた。
番号のない箱に、その日、また少し破片が増えた。
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夜になって、やんでいた雪がまた降りはじめた。床のヒサメは窓のほうへ顔を向け、外が白くなっていくのを見ていた。
「冬は毎年、私の隊から三人減る」
「一年目は四人。二年目は三人。去年は三人。減った子の名前は言わない。減るから」
「今年は」
「減らさない。私が前に立っていれば、後ろの子は減らない。だから危なくなったら、運ばれる前に自分の足であなたのところへ行く。順番は一番。同率でも先月の順位通り、私が先よ。治して、すぐ前に戻る」
ミナトは返事をせずに窓の外を見た。雪が防壁の上に積もっていき、壁の向こうは静かだった。
「去年の三人目は、雪の日だった」
ヒサメの声が少し低くなった。
「担架が雪で滑って、いつもより早く運ばれてきた。それでも、結晶は胸まで来てた。私はその子の隣で戦ってて、その子が運ばれるところは見なかった。でも、覚えてる。……名前は言わない」
「分かってる」
「でも、雪を見るとその子の担架が滑る音がする。何度冬を越しても、ちっとも減らないのよ」
ヒサメは膝に顎をのせた。
「雪が積もると、担架が滑る。回収係にはいい季節よ。瓦礫が雪で平らになるから。……悪い季節でもある。雪の下の破片が見えなくなるから」
「どっちなんだ」
「両方。冬はいつも両方よ」
産院で流したのはわずかで、その夜の残量は67%のままだった。明日の朝には、針が右端まで戻る。
大きいのが来るなら、せめて満の日に来てくれればいい。




