第二十話 川
「今日は、いい日ですね」
補給拠点の処置室で、医官がノートにペンを走らせながら言った。この医官の口から明るい言葉が出るのを、ミナトは初めて聞いた。
雪の降りしきる午後で、十二度目の襲撃が片づいたところだった。レベル三、第四区画。朝の残量の欄は満だった。大型の出ない襲撃で、運ばれてきた三人に10%ずつ流しても、手の奥にはまだ70%が残っている。
「いい日って、どういう日だ」
「残量が余った日ですよ。今日が三度目です」
医官はそう答えて、ノートの行をひとつ埋めた。
前線から戻ったヒサメが入ってきて、ミナトの手を三分握った。目の下に青黒いくまが浮いている。続いてカグヤが二分。二人とも怪我はなく、握るあいだは黙っていた。
いい日は、その一日で終わった。
処置室を出て、第三防衛線の門の脇で戻ってくる少女たちを待っていると、リンが雪の道を自分の足で歩いてきた。
「満の日に来てくれて、助かりました」
門をくぐったところでそう言ってから、リンは少し声を落とした。
「毎年、雪が積もりだすと大きめのが来るんです。去年は十二月の二十日でした。一昨年は二十三日。……氷堂さん、毎年その前の週あたりから眠れなくなるんですよ」
「今年は?」
「もう寝ていないようです」
ヒサメがミナトの部屋の床で夜どおし目を開けていることは、誰よりもミナトがよく知っていた。リンはすねについた雪を手で払い、宿舎のほうへ歩いていった。
---
二日後、川沿いの道へ曲がる手前で、乾いた破裂音が続けざまに鳴った。
早瀬が車を停めた。フロントガラスの先で、産院の角にいた装甲車の隊員が二人、川岸に膝をついて銃を撃っている。
川の中に、小さいのがいた。
三体。浅い水底を這うように進み、岸へ上がろうとしている。濡れた青白い皮膚が鈍く光った。水音に混じって、赤ん坊の泣き声が届く。何かを探している声で、三体とも産院の建物のほうへ向かっていた。
「……本当に出ましたね」
早瀬は川から目を離さずに呟いた。
「見間違いではありませんでした」
ミナトはドアを開けて飛び出した。
「走らないでください!」
背後で早瀬が叫んだ。十月の二度目の襲撃で、サキの運ばれた医療班へ走ったときにも聞いた言葉だ。川岸の隊員も何か怒鳴ったが、ミナトは足をゆるめずに産院の裏手へ回った。
初めて来た日に助産師が言ったとおり、午前中の裏の戸には鍵がかかっていない。手首の計器をむしり取って飛びこむと、階段の下に助産師が立っていた。顔から血の気が引いている。
「三階よ。朝からずっと痛がってる」
階段を駆け上がると、ツムギは小部屋のベッドから降り、壁にもたれて座りこんでいた。両腕でお腹を抱え、唇を噛んで痛みをこらえている。二十三週に入ったお腹は、十月に見たときより二回りほど大きくなっていた。
「ミナト、さん……」
ミナトは床に膝をつき、ツムギの手を握った。
熱が手のひらから流れ出していく。ツムギの寄っていた眉がほどけ、浅かった息が少しずつ深くなった。窓の外で泣き声の向きが揺らいだ。
「川から……来たんですか」
ツムギが目を開けた。
「私のところに?」
「ああ」
「……ナギのところに」
ミナトは答えず、握った手に力を込めた。
「手を握ってれば、あいつらは見失うから」
「でも、ずっと握っているわけにはいかないでしょう?」
「三日おきに来る」
「三日おき……。じゃあ、あいだの二日間は、あの子たちが私を探しているんですね。あの川で」
ツムギは窓のほうを見ようとしなかった。自分のお腹に目を落とし、「大丈夫だからね」と小さく言い聞かせる。戌の日に神社で五体に這い寄られたときも、ツムギは目をつぶって同じ言葉をお腹の子にかけていた。
「……ナギ」
ツムギはそっと目を閉じた。
「大丈夫だよ。ちゃんと来てくれた。いつもの人が」
お腹が小さく波打ち、そこに当てていたツムギの手がぴくりと跳ねた。
窓の外で銃声が続いた。そのたびにツムギの肩がすくみ、何度目かのあとで泣き声が聞こえなくなった。
---
しばらくして、川岸にいた隊員が二人、産院の裏手へ回ってきた。
応対に出た早瀬の腰の無線機とミナトを、隊員たちは見比べた。三階の窓にも目をやったが、何も問いたださずに持ち場へ戻っていった。
「内地に敵が出たと、報告を入れます」
早瀬がミナトに向き直った。
「見間違いではなかった以上、場所も正確に上げます。『産院の裏の川』と」
「産院のことも書くのか」
「産院のそばに出た、とだけ。中に誰がいるかは報告の欄にありません。妊婦が何人いるかは産院の帳簿の領分で、私の欄ではないですから」
早瀬は無線機を手に取り、送信スイッチに指をかける前に一度だけ息を整えた。
「……三体、川から上がってきました。あなたが到着する前から産院へ向かっていた。だから、あなたの責任ではありません。あの子のせいでもない。お腹に命があるから引き寄せられた、ただそれだけのことです」
「本当にそう思ってるのか」
「はい。そう思っています」
早瀬は無線に向かい、短く区切って伝えた。内地、産院裏の川、小型三体、内地警備隊が撃破。負傷者なし。補給班同行中。
無線の向こうで、しばらく雑音だけが続いた。やがて短い指示が返ってきた。
『警備を常駐させなさい。産院周辺に』
長官の声だった。産院、とはっきり言った。ミナトは早瀬の手の中の無線機から目を離せずにいた。
「……気づかれてるのか」
「内地の警備は、内地を守るためのものです」
早瀬は無線機を腰に戻した。
「産院は内地にありますから、警備が立つのは市民のため。……私はそう理解しています」
理解しています、と早瀬は言った。さっきのように、そう思っています、とは言わなかった。
---
ツムギの夫が港から駆けつけたのは、助産師が港へ電話を入れてから三十分ほどあとだった。
作業着のまま裏の戸から入ってきた男は、階段を上がりきったところで足を止めた。ツムギの無事を確かめ、妻の手を握るミナトの手に目をやってから、窓の外を見る。川岸の雪には弾のえぐった跡が点々と残り、青白い塊が溶けかけていた。
「……あれが、そうなのか」
男は窓の外に目を向けたまま言った。
「四十年、写真でしか見たことがなかった。港のほうには来ないからな。……本当に赤ん坊みたいな声で泣くんだな。電話の向こうで聞こえた」
「ああ、泣くんだ」
「そうか……」
男はツムギの隣に腰を下ろし、日に焼けた厚い手のひらで妻のお腹をそっと撫でた。ナギが小さく動く。
「あいつらも……泣くんだな」
ツムギは、ミナトに握られていないほうの手を夫の手に重ねた。
「あんたがいなくなったら、どうなっちまうんだ?」
男がミナトを見た。責める響きはなかった。
「……分からない」
「分からないけど、すがるしかないってわけか。今は」
男はお腹に置いた手を動かさずに続けた。
「港の仕事と同じだな。天気ばかりはどうにもならない。祈りながら荷を揚げて……もし駄目だったときは、そのとき考えるしかないんだ」
助産師が階段を上がってきて、戸口で足を止めた。
「本当に出たのね」
「ああ」
「だったら、うちはこれから毎日、見間違いじゃないものの隣で命を取り上げることになるわけだわ」
助産師は腕を組んだ。
「上等よ。四十年、ずっと理不尽の隣で生きてきたんだもの。ここが少し特別になるだけ。……裏の戸は午後も開けておくわ。表に隊員さんが立ってくれるなら、わざわざ閉めておく理由もないものね」
---
夜、医療棟の処置室へ顔を出すと、医官は机に向かったまま言った。
「内地に敵が出たと、長官からの報告書にありましたよ」
「もう知ってるのか」
「無線は全員に共有されていますから。……『産院周辺』と、長官はおっしゃいました。ですが私のノートには、産院を記す欄がありません。書式にないものは記録できません」
医官はペンを置いた。
「十月に申し上げましたね。書類に書けない出来事は、最初から起きなかったことにするしかありません、と。けれど長官の報告書では、起きたことになっている。私のノートと長官の公文書で事実が食い違うのは、この三年で初めてです」
「どっちが本当なんだ?」
「両方ですよ。記す枠組みが違うというだけです」
医官はノートを閉じ、机の引き出しへ入れた。
宿舎へ戻る道にも、雪が薄く積もっていた。早瀬は半歩前を歩きながら、振り向かずに言った。
「長官は、確かに産院周辺とおっしゃいました」
「ああ」
「指示された言葉をそのまま報告書にまとめ、それを長官が決裁する。……私の役目はそこまでです」
宿舎の明かりが見えたところで、早瀬は珍しく足を止め、こちらを振り返った。
「ひとつだけ、業務の外側の話をさせてください。今日、あなたが飛び出したとき、私は止まるよう叫びました。けれど走り去る背中を見ながら、走ってくれてよかったと……そう思ったんです。もちろん、そんな感情を書く欄は、報告書にはありませんけれど」
「……ありがとう」
「私は枠組みの中で報告書を書いただけですから」
早瀬は前に向き直り、雪の上に靴跡をひとつずつ残して歩きだした。
---
部屋の壁の予定表には、産院の日の丸と、襲撃が来てから書き込む空欄が並んでいる。今朝の満から産院で67%を流したので、明日の朝は67%で、明後日の朝に満に戻る。四日おきの襲撃も明後日で、産院はその翌日だ。来なければ満のまま産院へ行ける。来れば、残りを分けてしのぐしかない。
書いておけば、あとの誰かが読める。医官の言葉を思い出して、ミナトはペンを取り、予定表の余白に「川に三体」と書きつけた。
ペンを置いて、顔を洗いに出ようと扉を開けると、廊下の端にカグヤがいた。壁に背中を預けて腕を組み、ミナトと目が合うより先に声をかけてきた。
「内地に出たんですって?」
「出たよ。三体」
「あんたのせいなの?」
「……分からない」
カグヤは黒い手袋の左手に目を落とした。
「分からないなら、次は私が焼き払ってあげるわ。内地だろうと、産院の裏の川だろうと」
「S級は特区の外へ出られない規則だろ」
「長官が出せば出られるわよ。駄目だって言うなら、防壁の上からでも火は飛ばせる」
カグヤは組んでいた腕をほどきかけ、また組み直した。
「……無線で聞いたわ。早瀬が止まれって叫んでも、走ったんでしょ。前にも何度も止められてたじゃない。それでも走るのね」
「走るよ」
「走って、間に合うの?」
「間に合うときもあれば、間に合わないときもある」
「あの日砕けたB級の子のこと、氷堂から聞いたわ。十六歳だったって。私は名前も知らないまま、ただ敵を焼き殺してた」
「小林サキだ」
カグヤは目を閉じた。声は出さずに、唇だけが名前の形に動く。
「……心が削れるわね、これ」
「ああ」
「減っても構わないわ。ひとつくらいなら」
カグヤは壁を離れ、ミナトの脇を抜けていった。すれちがいざまの横顔で、唇がもう一度同じ形に動いた。




