第二十一話 身体はひとつしかない(前)
十二月二十一日の朝、掲示板の残量の欄は「満」だった。
産院は一昨日で、次は明日。襲撃は四日前だったから、次は今日か明日になる。二つの予定のあいだに満の日が来るよう、ミナトは毎晩数えてきた。満を抱えていられるのは今日一日で、明日の産院で流せばまた数え直しになる。
朝の補給でヒサメはいつもの三分、カグヤは二分、ミナトの手を握った。二人とも口を開かない。処置室の窓の外では雪が降りつづき、防壁の上にも白く積もっていた。
ヒサメは夜ごとミナトの部屋の床で膝を抱えている。この三日、寝息が聞こえてきたことは一度もない。目の下のくまは日ごとに濃くなっていた。
「今日か明日よ」
白い手袋をはめ直しながら、ヒサメが言った。
「雪の量と、壁の上の冷え方で分かる。十年、毎年同じだから」
「来るのが分かったからって、どうにかなるのか?」
「どうにもならないわ。備えるだけよ」
朝食の盆を半分も空けないうちに、天井のスピーカーが鳴った。
『未生獣警報、レベル五。全区画。全部隊出動。候補生は屋内待機。補給班は第三防衛線へ。繰り返します、レベル五——』
繰り返しを待たずに食堂じゅうの椅子が後ろへ倒れた。四より上の数字を、ミナトはここへ来て初めて聞いた。
ヒサメとカグヤの席はとうに空いている。少女たちが出口へ殺到し、リンも盆を卓に置いたまま駆けだした。戸口で振り返ってミナトに何か言う。足音にかき消されて声は届かなかったが、口の形は「満の日だ」と読めた。
残量の欄ができた朝、リンは掲示板の前で「満の日に、大きいのが来てくれますように」とつぶやいていた。
早瀬は長官の命令が出てから、毎朝宿舎に詰めている。その腰の無線が、警報とは別の声で鳴った。
『早瀬さん、産院の——』
声の主は助産師で、産院の表を固めている隊員の無線を借りていた。早瀬は耳に押し当てて廊下の隅へ寄り、ミナトもあとを追った。
『——朝から痛がっていて止まらないんです。それに屋根に小さいのが何体も。川から上がってきて壁を這って……隊員さんが撃っていますけど、増える一方で』
「分かりました。伝えます」
早瀬は無線を切ってミナトに向き直った。
「聞こえましたね」
「行く」
「命令は、第三防衛線から動かない、です」
五日前、庁舎の三階でミナトが長官に言い渡された命令だ。早瀬はその日も扉の外で聞いていた。
「聞いた」
早瀬は無線を腰に戻した。
「第三防衛線までは装甲車で行きます。そこから先は私の車です。どちらに乗るかはあなたが決めてください」
考える時間は、宿舎の出口までの廊下を歩くあいだしかなかった。
「第三防衛線に行く。先に」
「……はい」
「満だ。半分使って、半分残す」
早瀬は黙ってうなずき、雪の積もった表へ先に出ていった。
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第三防衛線の門を、隊員が途切れずに駆け抜けていく。内側の詰所からも次々と走りだしていた。踏み荒らされた雪が赤く照らされている。
見上げると、第二防衛線の壁の向こうで空が端から端まで赤かった。
最初の担架が着いたとき、扉の外にはもう二台目が待っていた。
「三番、腹部。進行中」
「四番、左脚。進行中」
医官が少女の首筋に計器の端子を貼るのを待たず、ミナトは三番の担架に手を伸ばした。
リンは担架の上で目を開けていた。裂けたワンピースの腹のあたりに、ガラスが一面に広がっている。ミナトは片手でリンの手を握り、もう片方をリンの柔らかい腹に当てた。
「……ごめんなさい」
「何が」
「遠いのに来ちゃって」
「黙ってろ」
リンから手を離すと、そのまま隣の担架の四番の手を取り、左脚のガラスにもう片方の手を当てた。そのあいだにも無線は次々と声をかぶせてきた。
『大型四体、中型二十以上、小型は数えられない。全区画。第一防衛線、二か所で破られた』
『火神院隊、東で大型二体と交戦。氷堂隊、中央』
『敵、標識を無視。第二防衛線へ向かう個体多数。第三防衛線へも——』
泣き声は処置室の中まで届き、医官は傷の箇所を怒鳴るように読み上げた。
「六番、右肩。進行中」
「七番、背中。進行中。速い」
そのあいだに、いつもと同じ速さの声が割りこんだ。
『回収係より。……今日は、私の横を通りません。全部、壁へ向かっています。私の横も、氷堂隊の横も』
七番の背中は肩甲骨から腰まで透けていた。十一度目のときは、ここに指一本分を残している。今日は途中で手を離さず、一分かけて腰の端まで引ききった。
医官がミナトの手首の計器を読み上げた。
「40%、使っています。残り60%」
半分は残すと自分で決めていた。使えるのはあと10%になる。
無線の声が変わった。指揮車からだった。
『補給班へ長官より伝令。アンカーは第三防衛線から動かないこと。繰り返す、第三防衛線から動かないこと』
医官が復唱しながらミナトのほうを見た。口を結んだまま、ミナトは復唱しなかった。
『火神院隊より。大型二体、まだ落ちない。中央へ回れない。……氷堂、そっちは』
『氷堂隊。大型一体、凍らせた。もう一体——』
声が切れ、雑音のあとで別の誰かが叫んだ。
『一番、負傷! 大型に胸を——結晶化、胸から、首へ——担架を、第三へ!』
ミナトは扉を見つめた。
十五分かかるはずの担架は、十二分で着いた。雪で滑ったんだ、と担いできた隊員が言う。雪の降りだした夜にヒサメが話した去年の三人目と、同じ滑り方だった。
「一番、胸部から頸部、進行中。速い。呼吸あり。意識あり」
ヒサメのコートの胸が裂け、のぞいた肌が鎖骨まで透きとおっている。九月の夜、交差点でミナトが息を吹きこんだときと同じ場所で、あのときより広い。首も半分まで透け、その向こうに銀の髪が見えた。
「……順番」
声はかすれていたが、言葉ははっきりしていた。
「一番。同率でも先月の順」
「分かってる」
医官がヒサメの首筋に計器の端子を留めた。
「レベル二。欠損なし、進行中、頸部。規定上の重体です」
交差点の夜には閉じていたヒサメの目が、今はミナトの口もとから離れない。
頭の後ろに手を回してヒサメを引き寄せる。見つめられたまま、ミナトは口を塞いだ。
同じ角度、同じ深さで、一秒。首の結晶が鎖骨まで引いたところで、胸の裂け目が閉じた。
そこでミナトは口を離した。
二の腕に指の幅ほどのガラスが残っている。レベル一で引ける大きさで、戦うには障りがない。
医官が計器を見た。
「……30%使いました。残りも30%です」
ヒサメの頬に上りかけた赤みが、途中で止まった。多幸感が届く手前で、ミナトは光を止めていた。
「……待って。まだ、途中で……」
「これで動ける。戦えるはずだ」
「戦える……ええ、そうね。動けるわ」
ヒサメは自分の胸に手を当てた。裂け目は塞がっている。それから二の腕に残ったガラスに目を落とした。
「……戦うだけなら、これで十分ってことね」
ヒサメは担架から降り、自分の足で立った。ミナトは片手でヒサメの手を取り、もう片方を二の腕のガラスに当てた。冷たい肌の下で、ガラスは十秒ほどで退いた。ヒサメは当てられた手のひらを見下ろしたまま、何も言わなかった。医官がノートに10%と書き、残りは20%になった。
「一番、復帰する」
無線にそう告げて、ヒサメは扉へ向かった。
戸口で振り返り、何か言いかけて唇を閉じる。ヒサメはミナトの右手に目をやり、左手を袖のほうへ伸ばしかけて、途中で握りこんだ。その拳で塞がったばかりの胸に一度触れ、ヒサメは背を向けて吹雪の中へ出ていった。
医官はノートに向かったまま言った。
「全快ではありません」
「戦える状態だ。規定は、重体を戻すことだ」
「……残りは」
「取っておく」
医官はペンを止め、長いあいだミナトを見ていた。それから短く何か書きつけた。
「行くのですね」
「行く」
「命令違反です。長官は無線で、動かないこと、と言いました」
「聞いた」
「私もそれを復唱しました。……あとは、見ているだけです」
医官は目を逸らさずにミナトを見たまま、ノートにもう一行を足した。
扉の脇の隊員が前に立ったが、手は伸びてこない。ミナトがその横をすり抜けると、隊員は追わずに無線へ何か告げていた。
補給拠点の外では早瀬が車のエンジンをかけて待っていた。
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内地との境の門は開いていた。
運転席の早瀬を見ると、門番は許可証を出すより先に柵を上げた。二人とも一言も交わさない。動かないこと、という長官の伝令は、門番も無線で聞いていたはずだった。それでも柵に手をかけたまま、車を見送った。
内地の町は雪に埋もれていた。通りに人影はなく、屋内待機を呼びかける放送が軒先のスピーカーから繰り返し流れている。止まる車も渡る人もいない交差点で、信号機だけが青から黄、赤へと色を変えていた。
「早瀬さん」
「はい」
「長官は、動くなと命じた」
「聞きました」
「早瀬さんは……」
「私は運転手を務めているだけです。ハンドルを握るな、とは命じられていません」
早瀬は前を向いたままアクセルを踏みこんだ。
「指示されていないことをするのは、私の務めの外です。襟を掴んだ夜は、報告書に理由を書けました。欄の外へ出るのは、今日が初めてになります」
ミナトは手首の計器を外して座席に放り、膝の上で拳を握った。手の奥に残った20%が、指の内側でかすかに熱い。
産院へ曲がる角の手前で、もう泣き声が聞こえた。
防衛線で壁越しに聞く声とは違う。すぐそこからいくつもの声が重なって押し寄せてくる。
角を曲がると、三階建ての白い産院が動いて見えた。
壁という壁に小さいのが何十体も這っている。窓枠に、屋根に、雨樋に。白い漆喰を背に青白い皮膚が浮き、その下を黒ずんだ血管が脈打っていた。どれも隙間へ爪を立て、中へ入ろうとしている。二階の窓には上半身をねじこみかけた一体までいた。
通りに停まった装甲車二台から、隊員たちが撃ちつづけている。弾を受けた小さいのは雪の上へ落ちて丸くなり、しばらくするとまた壁へ取りついた。
「……多すぎます」
早瀬がハンドルを握ったまま言った。
「川で遭遇したときの十倍はいます」
「ツムギは」
「三階の奥の部屋だと言っていました」
車が止まりきる前に、ミナトは雪の上へ跳び降りた。
手を離せば気づかれる。手を握っていれば見失う。今日はまだ、一度も握っていない。
入口へ走りながら見上げると、三階の奥の窓に小さいのが五体、べったりと張りついていた。




