第二十二話 身体はひとつしかない(後)
表の扉を押し開けると、一階の待合室は空っぽだった。
長椅子は壁ぎわに並んだまま空いていて、受付の小窓も閉まっている。人の話し声の代わりに、上の階から赤ん坊の泣き声が降ってきた。壁のポスターだけが、いつもの場所に白く貼られている。
『適正な検査は、あなたと、あなたのご家族の未来を守ります』
ミナトはその下を駆け抜けた。すぐ後ろを早瀬の靴音がついてくる。走らないでください、という声は今日は一度も飛んでこない。
階段の手すりを掴むと、細かな震えが手のひらに伝わってきた。泣き声が建物ごと揺らしている。
二階の踊り場では窓ガラスが割れていた。床に散った破片の上を、小ぶりの一体が這っている。頭をあちこちへ向けて、何かを探して泣いていた。ミナトがその脇をすり抜けようとすると、一体はすっとこちらへ顔を向け、甘えてねだるような声を出した。
背後で乾いた音が二度鳴った。早瀬が腰の拳銃を抜いて撃ったのだ。青白い皮膚にあいた穴は、見ているうちに塞がっていく。それでも一体はミナトを追わず、三階へ続く階段を口を開けたまま見上げている。
「……あなたより、上を標的にしています」
銃口を下げずに早瀬が言った。上に誰がいるのかは、言われるまでもない。ミナトは一段飛ばしで階段を駆け上がった。
三階の廊下で助産師が待っていた。顔から血の気が引いている。
「奥の部屋です。もう、窓に張りついて……!」
助産師はミナトと並んで走りながら、早口で続けた。
「ご主人には港へ電話しました。急いでも三十分はかかります」
奥の小部屋に飛びこむと、窓ガラスの向こうに青白い腹が五つ押しつけられていた。口だけが動いている。見つけた、と喜んでいる声だった。ときどき頭をガラスに打ちつける鈍い音が、泣き声の合間に混じる。
ツムギは床にいた。ベッドから転げ落ちたらしく、白い敷布が半分床へずり落ちている。壁に背中を押しつけ、両腕でお腹を抱えこんで歯を食いしばっていた。額には汗の粒が浮いている。
「ミナト、さん……」
ミナトは床へ滑りこむように膝をつき、ツムギの手を取った。指先が冷たい。
握った手から、残っていた20%が一度に流れ出した。食いしばっていたツムギの顎がゆるみ、浅かった息が少しずつ深くなる。
窓の泣き声の調子が変わった。
喜ぶ声が消えて、苛立った唸りになる。ガラスを打つ音がやみ、五体は窓枠の上をうろうろと這いまわりはじめた。さっきまで見えていたものが急に消えて、あわてて探している。
「……見失いましたね」
戸口で銃を構えたまま、早瀬がつぶやいた。
「ですが、離れる気配がありません」
そのとおりだった。窓の五体は探しながらも窓から動かない。それどころか屋根の上から、雨樋から、隣の部屋の窓から、新しい泣き声が次々に湧いてくる。産院はまるごと、見失ったものを探す声に取り囲まれていた。
流れていく量が多すぎる。
三日おきにこの産院でツムギの手を握ってきたが、こんな流れ方をしたことは一度もない。握った手の先から、力ずくで何かを引きずり出されていく。ツムギのお腹の中の命がそれを欲しがり、外の何十という声がその命を欲しがっていた。ミナトはそのあいだに一人で挟まれている。
「……減りが速い」
ミナトが呻くと、早瀬が上着のポケットから計器を出した。車の座席に放ってきたものだ。早瀬はそれを手首に巻き直し、留め金をかけた。
「15%……10%です」
ツムギは目を閉じて痛みをこらえていた。お腹に当てた指がときどき引きつる。
「ナギ……」
目を閉じたまま、ツムギがかすれた声で呼んだ。
「大丈夫だからね、ナギ……大丈夫。ミナトさんが、ちゃんと来てくれたから……」
窓に張りついていた一体が動きを止め、ほんの少し頭をかしげた。
「5%」
早瀬が針を読み上げる。
「……ゼロです。底をつきました」
手の奥から流れていたものが、ふっと途絶えた。
ツムギの手を握っているのに、何も渡っていかない。ミナトの手のひらは、ただの手のひらに戻っていた。
窓の泣き声が跳ね上がった。
見つけた、と喜ぶ調子がまた戻ってくる。五体がいっせいに頭をガラスに打ちつけ、白いひびが四方へ走った。屋根の上の気配が、壁を伝って下りてくる。隣の部屋でガラスの割れる甲高い音がした。
ツムギが目を見開いた。痛みが戻ってきて、眉がきつく寄る。
「……ナギ」
ツムギは窓の外にも、目の前のミナトにも目を向けなかった。自分のお腹だけを見下ろして話しかける。
「ナギ、聞こえる? お母さんだよ。怖くないよ、大丈夫だからね……大丈夫。ナギ」
泣き声が止まった。
最初に窓の五体が黙り、ガラスを打つ音が消えた。建物じゅうの声が、上から順に引っこんでいく。部屋の中では、ツムギの息の音しか聞こえない。
目も鼻もない顔が五つ、窓の向こうからツムギのお腹のほうを向いている。口はどれも閉じていた。その頭が少しずつ、そろって同じ向きに傾いていく。
聞いているんだ、とミナトは思った。
一度も名前を呼ばれたことのないものたちが、母親が子を呼ぶ声を、生まれて初めて聞いている。
「……十秒」
早瀬が腕時計に目を落とし、かすれた声で数えはじめた。
「二十秒。……三十秒」
ツムギは呼びつづけた。ナギ、ナギ、大丈夫だよ。同じ言葉を同じ調子で繰り返す。お腹の中で小さなものが動くのが、ツムギの手を通ってミナトの手のひらにも届いた。
「四十秒」
窓のいちばん端の一体が口を開け、飢えた声を上げた。それを合図に隣が、その隣が、屋根の上の群れが泣きだした。
窓ガラスが砕け散った。
一体が窓枠を越えて床に落ち、ツムギのほうへ這ってくる。早瀬が続けざまに撃った。胴に穴があいても、一体は穴を塞ぎながら距離を詰めてくる。
ミナトはツムギの手を握る指に、ありったけの力をこめた。
手の奥が空っぽなのは分かっていた。それでも絞った。
闇雲に、手の奥から胸の底へ空になった場所を探っていく。三日で満ちる蓄えの底の、そのまた下に、一度も触れたことのない場所があった。ミナトはそこに指をかけ、力まかせに引き剥がした。
胸の内側を刃物で裂かれたような痛みが走った。
奥のほうで何かの繊維がぶつぶつと千切れては、焼けつくように熱を持つ。握りしめた指のあいだから針のように細い白い光が漏れ、重ねた手の向こうへ流れこんでいく。
ツムギのお腹のこわばりがほどけた。
床を這っていた一体が動きを止め、頭を振って戸惑った声を漏らす。窓の五体も屋根の上の気配も、また相手を見失って、あちこちへ顔を向けはじめた。
計器の針に目をやった早瀬が、ぎょっとしてミナトの顔を見た。
「……ミナトさん、それは……!」
「何も言うな……ッ」
胸を裂かれる痛みに歯を食いしばり、ミナトは細い光を流しつづけた。この身体がいつまで持つのかは分からない。それでも、誰かが来るまでは持たせる。
そのとき、窓の外が赤く染まった。
炎が、外に張りついていた五体をいっぺんに呑み込んだ。屋根の上の泣き声が、燃える音に変わる。壁を這っていた影が次々に雪の上へ落ち、燃えて崩れていった。部屋に入りこんでいた一体も窓の外へ引き戻され、窓枠のところで炎に包まれた。
炎の向こうで、紅い髪がひるがえった。
隣の建物の屋根に、カグヤが立っていた。掲げた右手から火を放ち、産院の壁と屋根を端から順に焼いていく。黒い手袋の左手は、下ろしたままだった。
「二番、現着!」
カグヤの声が炎の音を突き抜けて届いた。
「長官命令で内地へ回されたわ。……あんた、そこにいるんでしょ!」
泣き声は残らず火の音にかき消された。
最後の一体が燃えつき、火の粉が消えると、産院はしんと静まり返った。窓の下の雪の上に、黒い焦げ跡がいくつも散らばっている。
ミナトは絞り出すのをやめた。
張りつめていたものが切れたとたん、身体が横へ傾いた。それでもツムギの手だけは離さない。倒れこんだ頭を、早瀬が咄嗟に自分の膝で受けとめた。顔を見下ろしたところで、早瀬の動きが止まる。
「……髪が」
早瀬の声が震えていた。
ミナトはおぼつかない手で、耳の上の髪に触れた。指に絡んだ一束が、目の端に入る。
銀だった。
黒い髪の中に、一束だけ銀が混じっている。ヒサメの髪と同じ色で、カグヤが紅く染めた髪の根元からのぞく色でもあった。
「……十八で白髪かよ」
笑おうとしたが、口の端がひくりと引きつった。
ツムギは壁にもたれたまま、濡れた目でミナトの髪を見つめていた。やがて、ミナトの手を両手で包みこむ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ミナトさん……」
「謝るな……」
「……ごめんなさい……っ」
ツムギのお腹の中で、また力強い動きがあった。包まれた手のひらに、確かな胎動が伝わってくる。ナギは生きていた。
屋根から屋根へ跳んだカグヤが産院の屋上に降り、割れた窓から部屋の中をのぞきこんだ。床に倒れたミナトを見つけ、その耳の上の銀を見た。窓枠を掴んだ右手の指が白くなった。
階段を駆け上がってくる足音がして、小部屋の戸口に男が飛びこんできた。作業着の胸にも裾にも雪がこびりつき、肩が大きく上下している。港から走りどおしで来たのが、荒い息で分かった。男は青ざめたツムギと、床に倒れたミナトの髪を見比べた。それから崩れるように膝をつき、妻のお腹にごつごつした大きな手を重ねる。
「……動いてるか」
「動いてます。ちゃんと……」
ツムギが答えると、男は目を閉じてうなずいた。お腹に重ねた手は、それきり離れなかった。
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机の上に、書類の綴りが三冊並んでいた。
厚さはまちまちで、いちばん厚い一冊は指二本ぶんほどの背がある。窓はもう暗く、天井の明かりが表紙を白く照らしている。
特務省庁舎の三階までは、早瀬が肩を貸してくれた。接触しました、とはもう言わなかった。執務室の椅子にミナトを下ろすと、一礼して扉の外へ出ていった。
神楽坂ユノは机の向こうに座っていた。会うのは四度目だった。ユノは一冊目の綴りを開いた。
「十月の戌の日、後方の神社。侵入した妊婦の手をあなたが握っているあいだ、未生獣五体が標的を見失った。……母親がお腹の子に声をかけたとき、一体が首をかしげた」
ユノは一冊目を閉じた。
「早瀬の初動報告です。私はその日のうちに読みました。記録に残しなさい、全部。無線でそう命じた私の声を、あなたも早瀬の隣で聞いていたはずです」
ユノはいちばん厚い二冊目を開いた。
「十月の終わりからの、内地の産院への訪問記録。週に一度から始まって週に二度になり、十二月からは三日おき。今日で通算十四回。特区の門の通過記録、早瀬の詳細報告、それに産院の周辺に置いた警備隊の交戦記録。裏の川に出た三体も含めてです」
予定表の余白に「川に三体」と書きつけたのは、二日前の夜だった。
そして、三冊目。
「今日の産院。早瀬があなたの手首に留めた計器の記録です。残量はゼロまで落ち、母親が名前を呼ぶと、全個体が四十秒黙った。静けさが破れたあとで、あなたは本来触れてはならない蓄えの底から力を絞り出した」
ユノは顔を上げた。
「火神院を前線から内地へ回したのは、私の独断です。焼き終えたところで特区へ戻しました。S級は標識です。産院のそばに置き続けるわけにはいきません」
ユノは三冊を重ね、机の端へ押しやった。
「すべて、最初から把握していました」
ミナトは膝の上の自分の手を見ていた。
「……早瀬さんも、知っていて報告していたんですか」
「彼女は任務を果たしただけです。何も見ていないとあなたに言った日も、見たとおりを当日の報告書に書いています。行き先が空欄の申請書も、そのまま私の机に届きました。承知の上で長官印を押していたのは、私です」
「だったら……」
ミナトは天井を仰いだ。かすれた声が、自分に聞かせるように漏れた。怒りが湧くだけの力も、産院の床に置いてきてしまった。胸の底には、もっと冷たくて乾いたものが溜まっていく。
「誰にも気づかれてないと思い込んで、一人で必死になってたのは……俺だけだったってわけか」
「そのとおりです」
ユノは表情を変えずに続けた。
「九月のあの夜から、あなたの行動はすべて監視下にありました。輸送ヘリの中で氷堂があなたの袖を掴んでいたことも、回収室で名前の紙片を見つめていたことも、地下の資料室で三つの箱を読んだことも。番号のない箱の前に、あなたが毎朝立っていることも」
「どうして……止めなかったんですか」
「止める合理性がなかったからです」
ユノは重ねた綴りの上に、節の目立つ手をそっと置いた。
「公にすれば、順番争いが始まります。誰の胎児を生かすのか、という選別です。あなたがその身を削って守れる命など、所詮は数人にすぎない。この国の母親たちを、数人分の枠を争う列に並ばせるわけにはいきません。ですから私は、見て見ぬふりを選びました。特務省の長としての計算です。……それだけです」
言い終えたとき、ユノの口もとがわずかに引き結ばれた。突き放す口ぶりが、資料室で自分を資料と呼んだ真鍋に似ていた。報告の言葉で話すときの早瀬にも似ている。病室で初めて会ったあの朝から、ユノが本当は何を思っているのか、ミナトには一度も読めたことがない。
「……あなたの髪」
ユノの目がミナトの耳の上で止まった。
「国の資源が変質したものとして、上層部へ報告せざるを得ません。私の上にも、決める力を持った機関があります。あなたは、戦力を保つための道具として扱われます。損耗した資源には、損耗に見合った新しい運用の規定が下りてくるでしょう」
「どう変わるんだよ」
ミナトは言い直さなかった。
「私にも断言はできません。ただ、医官の初期試算では、次の全回復には四日を要すると出ています。三日周期が、四日に伸びたのです」
ユノはゆっくりと立ち上がった。
「今日、あなたは氷堂への供給を途中で打ち切りました。戦線に戻れるだけの処置で止めて、残りを産院の胎児へ回した。そのことを、氷堂はもう知っています。防衛軍の無線は全員に開かれていますから。……第三防衛線から動くなという私の命令を無視して、あなたがその場を離れたことも、彼女たちの耳に入っています」
ミナトは肘掛けを握った。
「今夜、あなたの部屋の床に彼女が座ることはないでしょう」
ユノは机を回りこみ、執務室の重い扉を引いた。
「自室へ戻りなさい。早瀬、彼を宿舎へ」
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宿舎の三階の廊下は、夜間灯だけが点いていて薄暗い。ミナトの部屋の扉の前も隣のヒサメの扉の前も床がむき出しで、ヒサメの扉の下の隙間は暗かった。パイプ椅子は畳まれて、廊下の端の壁ぎわに立てかけてある。カグヤがいつも寄りかかっている壁のあたりは暗がりに沈んでいて、人がいるのかどうかも見分けられなかった。
早瀬はミナトを片腕で支えたまま、鍵を開けた。
「……ミナトさん」
早瀬が声を落とした。扉のノブに手をかけたまま、目は廊下の端の暗がりへ向いている。
壁にもたれていた誰かが、身を起こした。
ヒサメだった。腕を組んだまま、こちらを見ている。コートの胸元には裂け目が残っていた。その下の肌はもう塞がっているはずなのに、生地のほうは繕われもせず口を開けたままでいる。
ヒサメは夜間灯の下まで歩いてきた。青い目がミナトの顔をとらえ、耳の上の一束へ移った。
しばらくのあいだ、ヒサメは黙って銀の束を見ていた。
「……私たちと、同じ色」
低く、ヒサメが言った。
ミナトから目を逸らし、自分の部屋へ入っていく。閉じた扉の内側で、鍵のかかる乾いた音がした。
ヒサメが立っていた壁ぎわで、畳んだパイプ椅子がそのまま残っている。九月の終わりから毎晩ミナトの扉の前に出されていた椅子は、ヒサメが部屋の床で夜を明かすようになってから、一度も広げられていない。
早瀬は何も言わずに、傾きかけたミナトの腕を自分の肩へ回し直した。




