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未生獣 〜十八の冬を越えた魔法少女はいない〜  作者: 春凪一


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第二十三話 染めなさいよ

 大攻勢の翌朝、掲示板の残量の欄には「ゼロ」と書かれていた。


 横に小さく「回復四日」と添えてある。医官の字だった。「四日」の二文字だけがほかよりいくらか丁寧で、ペンの線は途中で止まらずに一度で書き終えている。


 食堂の入口はまだがらんとしていた。ミナトは欄をもう一度読んでから、医療棟の処置室へ向かった。


 今朝は、カグヤのほうが先に椅子に座った。


 朝の補給は一番から始まる。同率が印刷されるようになってからも、先に座るのはいつもヒサメだった。カグヤはミナトの手を握り、ゼロの目盛りから動かない針を二分間黙って見ていた。何も流れてこないことは、握る前から分かっている。二分が過ぎると、カグヤは一言もなく処置室を出ていった。


「氷堂(ひょうどう)は?」


「来ていません」


 医官は計器を卓に並べたまま、開けっぱなしの扉に目をやった。窓の外ではゆうべからの雪がまだ降っている。


「呼びに行こうか」


「呼びません。来るよう求める項目は規定にありませんので」


 医官は胸のポケットからペンを抜き、ノートを開いた。


「ただし、事実は記録します。欠席、一回。……回復四日の計算も併記しておきます。一日目はゼロ。二日目は25%。三日目に50%。四日目で75%。五日目の朝に満」


 読み上げる声に合わせてペン先が一行ずつ下りていく。


「三日目で、ようやく半分か」


「50%です。これまでは三日目で67%まで達していました。50%との間に生じた差こそが、あなたの髪に混じった銀の一束です」


 医官はペンを止め、わずかに眉を寄せた。


「差について私にできる説明は、これだけです。分かっていないことを推測で片付けるのは、私の規定にありません」


 処置室を出て、ミナトは雪の積もった道を宿舎へ戻った。襲撃と産院の日取りは、三日で満ちる身体を当てにして毎晩数えてきた。歩きながら、頭の中で四日の刻みに並べ直していく。



 三階に上がると、ミナトはヒサメの部屋の扉を叩いた。


 返事はない。扉の下の隙間から細く明かりが漏れていて、内側で床が小さくきしんだ。もう一度叩いたが、そのあとは物音ひとつしない。


 廊下の端で、早瀬(はやせ)が待っていた。大攻勢の前から、早瀬は毎朝この宿舎に詰めている。


「報告書を上げました。触れたことも、走ったことも、車を走らせたことも。全部です」


「長官は、なんて」


「『読んだ』と、一言だけ」


 早瀬は少し間を置いた。


「一言でも返ってきたのは初めてです。これまでは受領印が押されて戻ってくるだけでした。何も言われないことこそが、最大の返答ですよ。……そう言ってきたのは私なんですけどね。今日は、その一言がありました」


 真顔のまま、早瀬は制服の袖口を指でそろえた。


「胸のつかえが少し下りた気がします」


 階段の下から食器の触れ合う音が上がってきていた。



 食堂の入口の掲示板では、残量の欄の「四日」の字の前で、どの子も一秒ずつ長く立ち止まった。


 ミナトがそのあとから食堂に入ると、箸の音が途切れた。


 卓という卓から、少女たちがミナトの耳の上の一束を見ていた。十一月、前線配置の紙が貼り出された朝に、食堂へ入ってきたチトセを追ったのと同じ目だった。少女たちにとって銀は、魔法を使った分だけ増えていく色だ。補給をする側の頭に出るところは、誰も見たことがない。


 隅の席で、石田リン(いしだ りん)の手から箸が落ちた。卓の上で跳ねたのを拾い直そうとする指先が、細かく震えている。隣のチトセは味噌汁の椀を口もとに当てたまま、目だけをミナトの髪へ向けた。湯気の向こうで一度だけ見て、また椀に口をつける。


 カグヤが卓のあいだを歩いてきて、ミナトの正面に立った。睨むようにミナトの髪を見ている。


 黒い手袋の左手に紙の小箱を握っている。手のひらに収まるほどの大きさで、カグヤの髪と同じ紅色をしていた。


「染めなさいよ」


 硬い声で言うと、カグヤは箱をミナトの盆の隅に押しつけるように置いた。


「私の予備。同じ色になっちゃうけど、銀のまま晒しておくよりずっとましでしょ」


 初雪の日、神社の石段で紅い髪の先をつまみながら、カグヤは「銀は残り時間の色だから、数えたくないの」と言っていた。


「染めない」


「……どうしてよ」


「抜けたものは、抜けたままでいい」


 カグヤは盆の上の箱から、手袋に包まれた自分の指先へ目を落とした。


「あんた、ちっとも分かってないわよ」


 カグヤは声を落とした。


「これは残り時間の色なの。あんたにも終わりの刻限があるってことよ。三日で満ちるものの底に、もっと深い穴があった。削れたそこは二度と満ちない。……私たちと、何ひとつ変わらないじゃない」


「知ってる」


「知ってて染めないっていうの」


「染めない」


 カグヤは箱をひったくるように掴み上げた。しばらく宙で握りしめていたが、やがて元の場所へ戻した。


「……置いとくわ。気が変わったら使いなさい」


 紅い小箱はその日一日、ミナトの盆の隅に載ったままになった。ミナトは手に取らず、かといって捨てもせずにおいた。


---


 昼過ぎ、医療棟の廊下で回収室から上がってきたチトセとばったり顔を合わせた。


 ミナトの髪を見て、チトセは足をゆるめた。


「減りましたね」


「減ったよ」


 回収室で箱の数を言うときと同じ言葉を、チトセはミナトの髪に使った。言い換える気にはなれず、ミナトもそのまま返した。


「毎朝、箱の前で口が動いていました。声は出ていませんでしたが。……減っても、続けるんですか」


「続ける」


 チトセは小さくうなずいた。


「では、私も言います」


 二人は並んで薄暗い廊下を歩きだした。足音にまぎれるほどの小さな声で、チトセが先に口を開いた。


「小林サキ(こばやし さき)。十六歳」


 ミナトがあとを継いだ。


「石田リン(いしだ りん)。十七歳」


「早瀬(はやせ)」


「真鍋(まなべ)」


「田村ユイ(たむら ゆい)。十五歳」


「佐藤マイ(さとう まい)。十六歳」


「森アヤカ(もり あやか)」


「中野ミク(なかの みく)」


「坂本ナツ(さかもと なつ)」


「ツムギ」


「……チトセ」


 ミナトは足を止めて隣を見た。チトセは前を向いたまま言い添えた。


「私の名前も、自分で言わなければ誰も口にしてくれませんから」


「ナギ」


 ミナトが言うと、チトセはその名前を繰り返さずに、ただ深くうなずいた。毎日呼んでくれる人なら、生まれる前からもういる。


 ミナトの知っている名前は、ナギで十二になる。チトセの読み上げはそこで終わらずに、廊下の突き当たりまで続いた。棚に残る箱に、内地へ送り出した箱から剥がした紙片を足して、四十人分になる。ミナトはその半分も頭に留められなかったが、最後まで隣で聞いていた。


「減りましたか」


 階段の降り口で、チトセがこちらを見上げた。


「減った。髪の色が」


「私は減らない側の人間ですから、ずっと覚えておきます。……あなたが削り落とした分も」


 チトセは軽く頭を下げると、足音をほとんど立てずに階段を下りていった。


---


 二十二日は産院の日だったが、ミナトは見送った。ゼロの手で握っても、ツムギに渡せるものは何もない。残量の欄が50%まで戻った三日目に、早瀬の車で内地へ向かった。


 産院の前の通りには、装甲車が三台並んでいた。


 大攻勢の日より一台増えている。三台ともエンジンを切っていて、屋根に薄く雪が積もっていた。内地との境の門では、早瀬の車が近づいただけで柵が上がった。行き先の欄が空いた許可証を、もう誰も確かめようとしない。どこへ向かう車なのかは、門の隊員まで知っている。


 川岸に立つ警備の隊員も、水面より産院の屋根のほうを気にして見上げていた。焦げ跡は、あの後に降った雪にほとんど隠れている。


 三階の小部屋の窓には、厚い板が打ちつけてあった。外の光が入らないので、昼でも天井の明かりがついている。ツムギはベッドの端に腰かけていた。


「髪が」


 ツムギの目は、真っ先にミナトの耳の上へ向いた。


「私のせいですね」


「十八で白髪かよ、って思っただけだ」


 ツムギは黙ってミナトの髪を見つめていた。


「気にするな。染めろってうるさく言われたけど、断ったよ」


 ツムギは両手でミナトの手を包んだ。その指先が少し震えている。


 今日は50%の日だった。手の奥から細い流れが一筋、ツムギのほうへ移っていく。三日目に67%あったころとくらべると、いかにも頼りない量だ。それでもツムギは、包んだ手の指にいっそう力をこめた。


「ナギは動いています。あの日から、毎日」


「そうか」


「呼ぶと、お腹を蹴るんです。前よりもずっと強く」


 ツムギは片手を離してお腹に添えた。


「あのとき……呼んだら、止まりましたよね。あの子たちは」


「止まったよ。四十秒」


「私、怖くて……ナギに話しかけていただけなんです。窓の外に目を向けていたら、声なんて出せませんでした」


 ツムギは笑おうとして、唇の端を震わせた。


「呼んだら止まったんですね。あの子たちも」


「ああ」


「……誰からも、呼ばれたことがなかったんでしょうか。あの子たちは」


 ミナトは返事に詰まった。


 資料室の三つ目の箱には、二十年前の日付の報告書が入っていた。処置で死んだ胎児も、魔力の残滓になって未生境界(リンブス)へ流れこむ。名前はつけちゃいけないって言われたから、と待合室の女は言っていた。男の子と分かった時点で処置される子は、名前で呼ばれる前にいなくなる。それをツムギに話すわけにはいかない。黙っておくことに、ミナトはここへ来てからずいぶん慣れてしまった。


 廊下から助産師が顔をのぞかせた。


「装甲車が三台も並んで。うちもずいぶん物々しくなったものね」


「迷惑だったか」


「まさか。四十年、誰にも見向きもされなかった場所よ。きっかけが屋根の上のあれじゃなければ、もっと素直に喜べたんだけど」


 助産師がミナトの髪に目を留めた。


「……あなた、その髪」


「ただの白髪だ」


「そう。白髪ね」


 助産師は髪の話をそこで終わりにした。かわりに、戸口に立っていた早瀬の胸もとへ、鉄剤の小箱をひとつ押しつけた。


 十一月、ひどい顔色を見かねた助産師に鉄剤を勧められたとき、ミナトは「鉄分を足しても、これは戻らないよ」と断っている。早瀬は小箱を受け取ると、何も聞かずに胸ポケットへしまった。


---


 二十五日の朝、残量の欄は75%まで戻った。ヒサメはその朝も補給に来なかった。


 その夜、ミナトの部屋の前で足音が止まった。


 ノックはなく、扉の向こうの気配も動かない。ミナトが扉を開けると、ヒサメが立っていた。


 パイプ椅子は持っていない。コートの胸の裂け目は縫い合わされていたが、目の粗い、ところどころ布のひきつれた縫い目だった。針を持ち慣れない手で、自分で縫ったのだろう。


「聞いてもいいかしら」


「ああ」


「私を、満たさなかったわね」


 責める調子はない。ヒサメは指を折るように、事実をひとつずつ確かめていった。


「戦える最低限で止めた。残りを抱えて産院へ走った。無線で全部聞こえていたわ。あなたが出ていくのを隊員が報告する声も。長官が動くなと命じたのも。あなたが返事もしないで走っていったのも」


「……ああ」


「妊婦のために、私への供給を半分にしたのね」


「半分じゃない。戦い抜くための分だ」


「戦い抜く分」


 ヒサメはその言葉を口の中でゆっくり転がした。


「……ええ、そうね。大型を二体凍らせたわ。小隊の隊員はあの日、一人も欠けなかった。ここ十年で初めてよ。全部、あなたの配分のおかげ」


「なら——」


「なら、どうして……こんなに乾いているの」


 ヒサメは手袋の手で胸の縫い目を強く押さえた。


「初めてだったのよ。一番じゃなかったのは」


「一番だった。規定どおりの順番だ」


「順番の話をしてるんじゃない!」


 叫びが廊下の端まで響いた。ヒサメ自身がその声にびくりと肩を揺らした。何か言い足そうと唇を動かしたが、言葉が続いてこない。ヒサメは床に目を落とした。


「順番は、確かに一番だった。……でも、あなたは私を選ばなかった。途中で手を引いた。九月のあの夜から……一度だって、そんなことはなかったのに」


「私たちと同じ色になって、私を選ばなかった。……あの子のために削り出した色。私のためなんかじゃない」


 ヒサメは背を向けて自分の部屋に入り、内側から鍵をかけた。


 ミナトは冷えた廊下に一人で残された。


 大攻勢の夜に見たときのまま、廊下の端の壁ぎわには畳んだパイプ椅子が立てかけてある。ミナトはそれを取ってきて広げ、ヒサメの扉の前に置いた。背もたれを扉につけて腰を下ろすと、座面がきしんだ。


「……何やってんだ、俺は」


 口に出してみても、答えは出てこない。


 護衛だ、と思うことにした。窓に中型が張りついた夜、ヒサメも「護衛よ」と言って、ミナトの部屋の床に座りこんだ。


「……逆ね」


 声のしたほうを見ると、廊下の端にカグヤがいた。いつもの壁にもたれて、椅子のミナトを咎めるでもなく見ている。


「三ヶ月、あの子があんたの扉の前に座ってた。今夜はあんたがあの子の扉の前で、あの子は扉の中」


「逆だな」


「逆転したところで、私はこの端のまま。……何も変わらないのは私だけよ」


 カグヤは唇を固く結んで、ミナトから目を逸らした。少しして見ると、壁の前にはもう誰もいなかった。


 夜が更けたころ、扉の向こうで衣擦れの音がして、内側に何かが寄りかかる鈍い音がした。椅子の背ごしに、その重みがかすかに伝わってくる。


 廊下の窓が白みはじめても、扉の向こうの重みは離れていかなかった。


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