第二十四話 回復四日
五日目の朝、医官は計器の針を確かめて「満です」と告げた。
「四日で満ちました。予測どおりです」
医官はノートに「満」と書き込み、ペン先を紙面に置いたまま続けた。
「三日が四日になった、と書くのは簡単です。三日目に50%しかなかった、と書くのも簡単です。……ですが、あなたが産院で何をしたかを書く欄は、このノートにはありません。ですから、私は『回復四日』とだけ書いておきます」
大攻勢の日、ミナトは産院で自分の蓄えの底から魔力を絞り出した。そのとき、耳の上の髪が一束だけ銀に変わった。医官はその理由を記録に残さないと言っている。庇ってくれているのか、規定どおりに振る舞っているだけなのか、ミナトには見分けがつかなかった。この医官は、いつもどちらとも取れる言い方をする。
処置室の扉が開き、ヒサメが入ってきた。
朝の補給に顔を出すのは五日ぶりだった。大攻勢の翌朝から四日間、ヒサメの座る椅子は空いたままになっていた。ゆうべ、ミナトはヒサメの部屋の前にパイプ椅子を置き、夜明けまで座っていた。夜中に扉の内側へ何かが寄りかかる鈍い音がしたから、向こうもそれを知っているはずだ。
ヒサメは何も言わずに椅子へ腰を下ろし、白い手袋を外した左手を差し出した。
ミナトはその手を握った。指先は冷えきっている。ヒサメは目を開けたまま、計器の針をじっと見つめていた。流れ込んでくる魔力に身を任せるより、針がどこまで振れるかを自分の目で確かめているようだった。
「二分です」
医官が言い終えるより先に、ヒサメは手を離していた。
ミナトは思わず顔を上げた。十月の初めから、ヒサメの補給はずっと三分だった。医官が「二分です」と声をかけるたびに「数値が安定していない」と言い返して、もう一分握り続けた。実際にはいつも安定していたし、医官もそれを承知で口を挟まなかった。規則の外で見逃されてきた一分を、ヒサメは今朝自分から手放した。
椅子に座ったまま、ヒサメはミナトの耳の上へ目を向けた。黒髪に混じった一束の銀に、しばらく視線が留まる。やがて、ふいと窓のほうへ顔を背けた。
「変化なし。満ですので」
医官はそう言いながら、ノートに書き添えた。
「分かってるわ」
ヒサメは手袋をはめ直して立ち上がり、一度も振り返らずに処置室を出ていった。ゆうべのことには、最後まで二人とも触れずじまいだった。
入れ替わりに、カグヤが椅子に腰を下ろした。
黒い手袋を左手から外し、カグヤは躊躇いもなくミナトの手を掴んだ。
「あの子、二分で離したわね」
閉じた扉のほうへ顎をしゃくって、カグヤが言った。
「ああ」
「三ヶ月、ずっと三分だったのに」
カグヤは壁の一点を睨んだまま、低い声で続けた。
「……あれはね、あんたを選ばないっていう意味よ。口に出せないから、手を離してみせたの。あの子はそういうやり方しかできないんだから」
ゆうべ部屋へ戻る前に、ヒサメは「あなたは私を選ばなかった」と言った。今朝は、選ばれなかった側から選ばないと返してきたことになる。
「私は今日から三分にするわ」
カグヤが唐突に言った。
「同率なんだから、そのくらいの権利はあるでしょ」
「規則は二分だ」
「その規則を、氷堂は三ヶ月破ってたじゃない。医官も長官も知ってて黙ってたのよ」
カグヤは小さく鼻を鳴らした。
「見逃されてきたことのほうが、規則より強いの。長官がそう教えてくれたわ。大攻勢の日、長官は命令を破って産院へ走ったあんたを連れ戻さずに、私を内地へ回したでしょ」
あの日、産院の屋根に群がった未生獣を、カグヤの炎が焼き払った。「長官命令で内地へ回されたわ」と叫んだ声を、ミナトはまだ覚えている。
「二分です」
医官の声がした。カグヤはすぐに手を離し、手袋をはめ直した。三分にすると言った舌の根も乾かないうちに、きっちり二分で椅子を立つ。扉の前で一度だけ振り返り、ミナトの髪を睨んでから出ていった。
遠回りなやり方しかできないのはカグヤも同じだ、とミナトは思った。
処置室を出て宿舎へ戻ると、食堂の入口で、A級の五人が順位表の掲示板を囲んでいた。
十二月から、順位表の下には「アンカー残量」の欄が加わっている。ミナトの中に残っている魔力を、医官が毎朝書き込む欄だ。少女たちは自分の番号より先にそこを見て、その日の出撃の重さを測る。この欄ができた朝、ミナトは思わず「天気予報みたいだな」と漏らした。はじめは「満」「67%」「33%」「ゼロ」の四段階だったが、回復が四日に延びてからは25%刻みに変わった。今朝の欄には「満」とあり、その横に小さく「回復四日」と書き添えられている。
四番の少女が、指を折って何かを数えていた。
「四日で満ちて、襲撃は四日おき。満の日はひと月に七日くらい。33%を切る日は……」
「十五日」
横から石田リンが答えた。
「ひと月の半分。数えなくても分かるよ」
「数えたかったの」
四番は短く言い返し、折っていた指をぎゅっと握りこんで食堂へ入っていった。
残量が33%しかない日は、補給が順番の下のほうまで届かない。十一度目の襲撃では、七番の少女が15%要るところを13%で切り詰められた。大攻勢のあと、敵はぴたりと来なくなっている。それでも少女たちは、襲撃が戻ってきたあとの日数をもう数えはじめていた。
---
昼前、宿舎の前で早瀬が待っていた。
いつもは腰の無線機に手を添えて立っているのに、今日は小さな手帳を胸の前に抱えている。ミナトの外出や面会を報告書にまとめるとき、早瀬が書きつけに使っている手帳だった。
「妹がミナトさんを見たそうです」
早瀬は前を向いたまま切り出した。
「候補生宿舎の窓からです。ミナトさんが産院から戻られた日に。……髪を見て、私に聞いてきました。あの人も魔法少女なの、って」
十月、早瀬に居住区を案内されたとき、候補生宿舎の二階の窓から大きく手を振ってきた小柄な少女がいた。早瀬の妹で、今年十二歳になる。銀の一筋も混じっていない、艶のある黒髪の子だった。
「なんて答えたんだ」
「違う、とは言えませんでした。魔法少女じゃないけど、魔法少女と同じ色になった人だよ、と答えました」
早瀬は手帳の角を親指でなぞった。
「……妹があっさり納得してしまったのが、私には少し怖いんです」
「怖い?」
「同じ色になった人がいる、と聞いて十二歳がすんなり納得できるのは、ここで見てきたものを全部、普通のことだと思っているからです。髪が銀になるのも、回収室の箱が増えるのも。妹も、ほかの候補生たちも、来年か再来年には前線に出ます」
早瀬は手帳を開き、ペンを構えた。白いページを見下ろしたまま、しばらくペン先が動かない。
「……妹のことを書く欄は、この手帳にはないんです。だから今日は、何も書きません」
ミナトが産院でしたことを今朝の医官が書かなかったように、早瀬も妹のことを書かずにおくことで守ろうとしている。
---
午後、長官に呼ばれた。
特務省庁舎三階の執務室で、神楽坂ユノは机の上の書類を開きもせずに言った。
「上に報告しました」
大攻勢の夜、同じこの部屋で、ユノは「上層部へ報告せざるを得ません」と言っていた。
「資源の劣化。回復四日。命令違反が一件。……上は、あなたの使い方に制限をかけろと言ってきています。具体的には、産院へ行くのを止めろと」
「止めるのか」
「止めません」
ユノは間を置かずに答えた。
「内地の警備は私の権限です。産院も内地にありますから、妊婦を警備の対象に含めるかどうかは私が決めます。上は特区の話をしていて、私は内地の話をしている。噛み合わない以上、上の要求は宙に浮いたままになります」
「浮いたままで、いいのかよ」
「浮かせておくのが私の仕事です。地下の資料室の封印も、十五年、浮かせたままにしてきました。産院のひとつくらいなら浮かせておけます」
資料室の真鍋によれば、ユノは十五年前に封印指定の箱をすべて読み、封印の印章を押し直して背を向けたのだという。
「上って、誰なんだ」
「特務省の上は内閣です」
ユノは書類の端を指で押さえた。
「いまは、七割が女です。四十年前は全員が男でした。……ですが、七割になっても決めることは変わりません。どの資源を、どこに、どれだけ置くか。話しているのはそればかりです」
ユノはミナトをまっすぐに見た。
「資料室の写真をあなたも見たでしょう。あの二十人の男が囲んでいた机を、今は七割を女が囲んでいます。座る人が入れ替わっても、机が同じなら話も同じです」
ミナトは箱の底に貼られていた写真を思い出した。円卓を囲む背広姿の二十人ほどの男たち。机に積まれた議事録には「処置」の二文字が読み取れた。
「長官は、どうなんだ?」
「私は、その机の下にいます。載せる話と載せない話を、より分けるのが仕事です。産院の話は載せません」
ユノは書類を閉じた。
「ただし、ひとつだけ言っておきます。次にまた底から絞り出せば、回復は五日に延びます。その次は六日か、もっと長くなるでしょう。あなたが自分の底を削るたびに、この国の計算は一日ずつ狂い、帳尻は前線の少女たちが合わせることになります。それを承知のうえで動きなさい」
「承知してる」
「いいえ」
ユノは静かに首を横に振った。
「本当に承知した人間は、そんなにすぐには答えられないものです」
ユノはそこで話を切り上げ、別の書類を手元へ引き寄せて長官印を押した。何の書類なのか、ミナトの立っている位置からは読めなかった。
---
二日後、居住区の門の前で、ミナトはリンに呼び止められた。
「来月から、残量が33%を切る日は、A級への補給を止めるそうです」
挨拶もそこそこに、リンが言った。
「誰から聞いた」
「医療班で、医官が長官の書類を見たって話してました。……まだ貼り出されてないので、噂ですけど」
リンは左足のすねに目を落とした。包帯の下には、硬貨ほどの白く濁った結晶が残っている。十一月の襲撃でガラス化が進み、医療班で止まったあとも白いまま固まったものだ。完了した結晶は、ミナトの魔力でも元には戻らない。
「四日で満ちるなら、33%を切る日がひと月の半分になります。私たちも、B級の子たちと同じで補給の対象外になっちゃいます」
順位表の二枚目には、最初の掲示から変わらず『B級以下は補給の対象外とする』と書かれていて、規定の上では、B級の少女たちはミナトの補給を受けられない。
「……悪い」
「ミナトさんのせいじゃないです。順番のせいでもないです」
リンがその言葉を口にするのは三度目だった。十一月、包帯を巻いたすねで宿舎の玄関先に立っていたときに一度。補給拠点が第三防衛線へ下がったときにもう一度。今日の声は、前の二回よりいくらか小さかった。
「絵馬、書いてきたんです。神社で」
リンは境内へ続く坂のほうを振り返った。
「満の日に大きいのが来ますように、って。……でも、名前は書けなかったんです。絵馬にはちゃんと名前を書くところがあるのに」
リンは小さく頭を下げ、宿舎のほうへ歩いていった。
ミナトは神社の絵馬掛けを思い浮かべた。ほとんどは、お腹の子のために母親たちが書いたものだ。字の読める絵馬には、どれも二行目に『女の子でありますように』と添えてあり、生まれる前の子の絵馬だから名前はない。戌の日にツムギが掛けた一枚だけは、一行きりだ。満ちている日に大きな襲撃が来れば、A級にも補給が回る。そう祈る絵馬は、あの絵馬掛けでもリンの一枚が初めてだろう。
夕方、ミナトは神社へ足を向けた。
境内ではチトセが雪を掃いていた。落ち葉なら掃いて捨てれば跡形もなくなるが、雪の上には箒の筋がそのまま残り、何本も引かれたその先に絵馬掛けがあった。
新しい一枚は、すぐに見つかった。
『満の日に、大きいのが来てくれますように』
名前の欄は空いたまま、日付だけが書き込まれている。
「読みましたか」
チトセが箒を止めて聞いた。
「読んだ」
「石田さんは、書くあいだずっと迷っていました。名前のところで筆が止まって……結局、書かずに掛けて、一度外してもう一度掛け直していました」
「見てたのか」
「掃いていましたので」
チトセは絵馬掛けの柱の根元に目をやった。秋の終わりに、拾った赤い葉をそっと置いていた場所だ。理由を、ミナトはいまも聞かずにいる。葉はとうに雪の下に埋もれていた。
---
大晦日の朝、回収室へ下りると、チトセが一年分の紙片を机いっぱいに並べていた。
地下の湿気で、箱に貼る名前の紙片はすぐに文字が掠れる。チトセはそのたびに新しい紙へ書き写して貼り直し、剥がした古いほうは引き出しにしまってきた。内地へ送り出す箱からも、紙片だけは剥がして残してある。古いものと新しいもの、四十人分の名前が机の上に並んでいる。
「今年は、四人減りました」
数え終えたチトセが言った。
「去年は十一人、一昨年は九人でした。……四人というのは、この十年でいちばん少ない数です」
「そうか」
「減ったのはミナトさんのせいです。いい意味で」
チトセは少し考えてから付け加えた。
「……いい意味で、と付けておかないと、減った、は悪い言葉なので」
誰かが砕けると、この居住区ではたいてい「減った」と言う。ミナトの髪の色が変わったときにさえ、チトセはその言葉を使った。
紙片を引き出しへ戻すと、チトセは棚の端にある番号のない箱へ目を向けた。誰のものか分からない破片を集めた箱だ。
「少なくて済んだ年でも、四人分の箱がありました。どれも番号だけで内地へ送りました。……名前は、私が覚えています。ミナトさんも二人、覚えていますね」
「小林サキ。……田村ユイ」
「はい。田村さんは九月の戦闘でした。あとの二人も、ミナトさんが来る前の人です」
チトセは二人の名前を順に口にした。ミナトは一人ずつ口の中で繰り返した。一人目は頭に残ったが、二人目の名前は聞き終えたそばから薄れていった。
「……二人目を、もう一回言ってくれ」
チトセは少しも面倒がらずに、もう一度同じ名前を口にした。ミナトは今度は声に出して言った。明日の朝には、また薄れているかもしれない。そのときはもう一度聞けばいい。チトセはきっと、何度でも同じ速さで答えてくれる。
---
大晦日の夕食は、いつもと同じ献立だった。
ただ、汁の椀には小さな餅がひとつ沈んでいた。少女たちは椀をのぞき込んで一瞬だけ箸を止め、それから黙って餅を口へ運んだ。
カグヤが手つかずの餅を隣の卓の椀へ黙って移すと、五番の少女は目を丸くした。それでも手袋の左手で椀を支えて素知らぬふりで汁をすするカグヤを見て、おずおずと餅をかじった。
ヒサメは食堂に来なかった。
その夜も、ミナトはヒサメの部屋の前にパイプ椅子を置いた。
大攻勢の四日後に座りはじめて、今夜で七晩目になる。扉が開いたことはまだ一度もない。ミナトが腰を下ろしてしばらくすると、今夜も扉の向こうで床をこする音がして、内側の板に背中の当たる鈍い音が続いた。
「……年が明けるわ」
扉越しに、くぐもった声がした。
「あと一時間で」
「ああ」
「十八の冬の、半分」
十月、まだミナトの部屋の前に椅子を置いていたころ、ヒサメは「十八の冬を無事に越えられた魔法少女なんて、私はこれまで一人も見たことがないの」と言った。冬を越せるかもしれないと思ってしまうのが、たまらなく怖いとも。
「越せそうか」
「分からないまま、半分来たの」
長い沈黙のあいだに、窓の外で軒の雪がどさりと落ちた。
「……選ばれなかったのは、まだ痛いわ」
扉の向こうの声が、少しかすれた。
「このまま越すしかないじゃない。痛くない越し方なんて、たぶんないのよ」
「……悪い」
「謝らないでよ。……もっと痛くなるじゃない」
十月にも、ヒサメは同じように言った。あのときは「もっと怖くなる」だった。
零時を回っても、廊下のスピーカーは静かなままだった。年明けを知らせる決まりは、この居住区にはないらしい。扉の向こうでヒサメが小さく息を吐く音がして、そのあとは背中を預けた板がときおりきしむ音だけが聞こえていた。
---
元日の朝、順位表が貼り替えられた。
一番に氷堂、同じ一番に火神院、同率。三番から七番はA級。B級以下は対象外。回復は四日。見慣れた並びの下に、新しい一行が加わっていた。
『残量が33%を下回る日は、A級への補給を停止する』
少女たちはいつもどおり紙の前で足を止め、自分の番号を確かめた。新しい一行に目が行ったところで何人かの肩がこわばったが、少女たちはそのまま順に食堂へ入っていった。リンだけがいつもより長く紙の前に立ち止まっていた。
五番の少女がそっと手を伸ばし、新しい一行に指先で触れた。
「……私たちも、数に入ってないんだ」
その小さな声に答える者はいなかった。リンが五番の袖を引き、食堂の中へ連れていった。
ミナトは廊下の反対側からそれを見ていた。
残量の欄に「満」とある朝に、この一行は貼り出された。襲撃が戻ってくれば、ひと月の半分は33%を切る。産院で底まで絞り出さなければ、回復は三日のままだった。
廊下の窓ガラスに、耳の上の一束の銀がぼんやりと映っていた。




