第二十五話 なぜ間引いた
白く固まった三本の指先が、ミナトの手の甲に硬く当たっていた。
手袋を外したカグヤの左手が、ミナトの指をしっかりとつかんでいる。壁の時計の秒針が二周したところで、医官が言った。
「二分です」
カグヤは手を離さなかった。
「同率よ」
カグヤは医官のほうを見もせずに言った。
「規則は二分です」
「あの子が三分だった三ヶ月、規則は二分だった」
ヒサメはつい今しがた、処置室を出ていったところだ。年の暮れからは毎朝、医官が声をかけるより先に二分で自分から手を離している。今朝は「変化なし。回復途中ですので」と告げられて「分かってるわ」とだけ返し、手袋をはめ直した。
「……今日から私が三分」
医官は言い返さずに壁の時計へ目を移した。
カグヤの手のひらはヒサメの手よりずっと温かい。計器の針は25%の目盛りに張りついて、ぴくりとも動かない。二日の産院で、ツムギに満から使い切っていた。三日の朝はゼロで、今朝ようやく一刻み戻ったばかりだ。十二月の終わりに三分にすると言い出したきり、カグヤはこれまで二分で手を離してきた。
秒針がもう一周したところで、カグヤの指がほどけた。黒い手袋を取り上げ、白く固まった三本の指を一本ずつ布の先へ押しこんでいく。はめ終えると、カグヤは何も言わずに処置室を出ていった。
医官はノートに「三分」と書き、その字を線で消すこともなく次の行へペン先を移した。
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その日の午後、最初の担架で石田リンが運ばれてきた。
「三番、右腕。進行中」
補給拠点の処置室の扉の脇で、隊員が担架の札を読み上げた。リンの右の前腕に、指三本分の幅でガラスが透けている。その縁が肘のほうへ少しずつ這いのぼっていた。額には汗の粒が浮いているのに、唇は血の気が引いて白い。
十四度目の襲撃だった。レベル三で、無線は第六区画の名前を繰り返している。大攻勢から二週間、敵は一度も来ていなかった。
ミナトの手はいつものように担架の縁へ伸びていた。
医官は手首の計器を読むと、目をその針に据えたまま、いつもの読み上げと同じ速さで言った。
「A級への補給、本日停止。残量25%。規定通りです」
担架の縁にかかったところで、ミナトの指が止まった。元日に順位表へ加わった一行だった。
リンは担架の上で天井を見ていた。
「……分かってます」
「医療班へ」
「分かってます」
二度目は医官のほうを見ずに、天井に向かって言っていた。
担いできた隊員たちが担架を持ち上げ、運び出していく。扉が閉まりきる前に、リンが首をひねってミナトを見た。
責めている目ではない。誰かが順番を決めなきゃ、現場が回りませんから。十一月にリンはそう言った。いまの目も同じことを言っていた。
扉が閉まった。
ミナトの力が届かない相手は、これまでチトセ一人だと思ってきた。手の奥にはまだ25%が残っているのに、今日からは規定のせいでリンに届かない。
無線が第六区画の掃討を告げるまで、ミナトは手を下ろしたまま壁ぎわに立っていた。
「氷堂と、カグヤは」
「お二人とも無傷です」
医官はノートに目を落としたまま答えた。
「今日は、使う相手がいません。……25%は、明日の産院へ持ち越しです」
ノートに欄のない場所の名前を、医官は補給の行き先のひとつとして口にした。
夕方、医療班から戻ったリンが、宿舎の玄関の段に腰を下ろして靴の雪を払っていた。右の前腕に真新しい包帯が巻かれている。
「止まりました。医療班まで行けば、たいていは」
リンは包帯の腕を少し持ち上げてみせた。
「残ったか」
「少し。……すねと、腕。二つになりました」
リンは包帯の上から右腕を押さえた。左のすねの包帯は、十一月から巻かれたままだ。
「二つでも、歩けるうちは三番です」
リンは立ち上がり、靴の雪をもう一度払ってから玄関の中へ入っていった。包帯の腕は体の脇にまっすぐ下ろしたままで、足は引きずっていない。
ミナトは自分の右手を見下ろした。リンの腕に回らなかった25%は、明日ツムギの手に渡る。
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パイプ椅子の座面の冷たさが、ズボン越しに伝わってくる。ヒサメの扉の前に座るのは、これで十一晩目になる。昼に担架の縁で止まった指が、まだその形のままこわばっている気がした。
扉の下に一筋あった明かりが、しばらくして消えた。暗くなった隙間のすぐ向こうで、床に何かが下りる気配がする。
「座らなくていい」
声は扉の低いところから聞こえた。
「護衛だ」
「……勝手にしなさい」
ミナトは椅子の背を扉に預けた。蝶番がかすかにきしむ。少しして、扉の向こうからも同じきしみがひとつ返ってきた。
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一月十二日の午後、警報が鳴り終わらないうちに医官が無線のつまみを回した。
レベル四で、区画の番号のかわりに第三防衛線の東門が挙がった。内地との境にある門だ。補給拠点はその第三防衛線の壁の中にある。東門までは壁沿いに三百メートルほどで、処置室の窓からは見えない。
『敵、一体。人型。大きさは……』
無線の声が一度つかえた。
『……人間と同じ。歩いている』
医官がもう少し音を上げた。
『氷堂隊、東門へ。火神院隊、東門へ。……敵は攻撃していない。歩いている。門のほうへ。内地のほうへ』
そこで、泣き声がしないことに気づいた。
いつもならレベル四の警報が鳴れば、泣き声は処置室まで届く。今日は初めから何も聞こえない。
その静けさの中で、声がした。
『なぜ』
言葉だった。特区じゅうの区画から、何百という小さいのが泣くかわりに同じ言葉をそろえている。声は高く細く、言葉を覚えたばかりの子どもが一語ずつ確かめるように、ひと言ごとに息を継いでいた。
『なぜ、僕たちを、間引いた』
扉の脇で硬いものが床を打った。取り落とした銃を見下ろしたまま、隊員は拾おうともしない。顔から血の気が引いていた。
『なぜ、生まれることを、拒んだ』
医官のペン先がノートの上で止まっていた。
『なぜ、あいつだけが、愛される』
あいつ。
聞いた瞬間、ミナトにはそれが自分のことだと分かった。理由は、自分でも説明がつかない。首の後ろがすうっと冷えていく。
気がつくと、扉のノブに手をかけていた。
「今日は走らないでください」
振り返ると、医官がノートを胸に抱えて立っていた。
「あれはあなたに向かって歩いています。走れば途中で会います。何を言われるかは私には分かりません。……予測のつかないものに走っていくのは、線の外です。今日だけは、線の内側にいてください」
ミナトはノブから手を離した。指先が細かく震えている。
無線が途切れ途切れに入ってくる。
『氷堂隊、東門。……敵、視認。人型。顔が、ある。目が、ある。出来かけだが、目が』
『こちらは見ない。攻撃してこない。歩いている。門へ』
『内地の住民が、窓から……聞こえている。内地まで聞こえている』
声はやまずに繰り返していた。
『なぜ、間引いた。なぜ、拒んだ。なぜ、あいつだけが』
そこへ別の言葉が混じった。
『解析の家。選んだ家。火神院』
医官が顔を上げた。
『火神院。数えた家。売った家。なぜ、僕たちを数えて、僕たちを売った』
無線がカグヤの声を拾った。
『——黙りなさい』
東の壁の上に、赤い光がいつもより高く噴き上がった。建物なら四階、五階の高さを越えて、さらに上へ伸びていく。
何百の声は止まらなかった。そのなかから、ひとつだけ別の声が浮かんできた。ほかの声より低く、息継ぎがない。東門にいるあれの声だった。
『熱い』
少し間があった。
『熱い。……痛い。これが、痛い。僕たちは、痛いを知る前に、間引かれた』
赤い光が消えた。
『氷堂隊。……敵、後退。地面に沈んだ。追跡不能』
凍らせた、という報告は最後まで入ってこない。氷を使う前に、相手のほうが地面の下へ帰っていった。
それから声がひとつずつ止んでいった。
大攻勢の日、産院でツムギがナギの名前を呼んだときにも泣き声は止まった。あのときは名前を聞くために黙り、四十秒で戻ってきた。今日の声は言いたいことを言い終えて、そのまま帰っていった。
補給拠点の中には、無線の小さな雑音だけが残った。
医官が床の銃を拾って差し出すと、隊員は受け取ったまま両手で持って、しばらく見下ろしていた。
「……あれは、何と呼べばいいんですか」
扉の脇に三ヶ月立ちつづけてきた隊員で、医官にものを尋ねるところをミナトは初めて見た。
「上位個体、と呼ぶことになると思います。正式に決まれば」
「決まる前は」
「決まる前は、何と呼んでも同じです。……名前がどうなろうと、あれは言いました。間引いた、と」
補給拠点を出ると、第三防衛線の門の柱にリンがもたれていた。ミナトが出てくるのを待っていたらしい。柱の影が雪の上に長く伸びている。
「意味は、分かりません」
ミナトが話しかける前に、リンが言った。
「間引く、って。……なのに怖いんです。あれは私たちの存在を無視して、すぐ横を歩いていきました。私も氷堂さんも見ませんでした。門のほうだけ見て」
「何を見てたんだと思う」
「あなたのいるほう、だと思います。……あなたを、愛される、って言いました。私はあなたを愛してるわけじゃないです。でも、あれが言ったのはたぶん、そういう意味じゃない」
いつもの「ミナトさん」が、今日は一度も出てこない。リンは柱から背中を離した。
「順番の上にいる、って意味だと思います。いちばん上に。私たちの、もっと上に。……それが愛される、なら、私たちは愛されてるんでしょうか。あれよりは上にいるから」
ミナトは答えられなかった。リンは返事を待たずに、包帯の右腕を抱えるようにして宿舎のほうへ歩きだした。
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その夜、内地の放送が特区にも流れた。
宿舎の玄関のスピーカーから、神楽坂ユノの声がする。階段を下りかけた少女が何人か、途中で足を止めて天井を見上げている。
『本日午後の敵性存在による音声は、精神攻撃です。内容に意味はありません。市民の皆さんは通常の生活を続けてください』
放送が終わると、少女たちは顔を見合わせもせずに階段を上がっていった。
玄関の脇では早瀬が内地の回線に無線を合わせていた。しばらく聞き入ってから、ミナトのほうを向く。
「内地の人は、意味が分からない、と言っています。間引く、という言葉が。天災の犠牲者に間引くも何もないでしょう、と」
早瀬が無線の音を上げた。内地の防災の回線に、市民からの問い合わせが入っている。年配の女の人だった。
『間引くって、何のことですか。うちの子は天災でしょう? 四十年、ずっとそう聞いて』
放送の係が、精神攻撃です、と答えた。女の人は「そうですか」と言ったが、語尾がかすれて震え、回線はそのまま切れた。
「……そうか」
「分からない人は怖がっています。分かっている人は、もっと怖がっています。私は、分かっています」
早瀬はつまみから指を離した。
「妹は分かっていません。候補生宿舎で、意味が分からないと言って泣いていました。……私は、知っていることを妹に話せませんでした。話していいという欄が、どの書式にもありませんので」
「話したらどうなる」
「妹は、もっと怖がることになります。意味も知らずに泣いているうちは、まだましだと思いました。……報告書のどの欄にも書けない判断ですけど」
早瀬は玄関のガラス戸の向こうの暗がりに目をやっていた。候補生宿舎がある方角だ。
あの声には意味がある、とミナトは思った。特務省の地下の資料室で、三つ目の箱から二十年前の日付の報告書が出てきた。『処置により死亡した胎児に関しても、魔力残滓が未生境界へ流入する事例を確認。統計的検証は未了。公表は不可』。あの声は、その数行の中身を自分たちの口で読み上げていた。
火神院の名前まで挙げたくせに、同じ箱の底に貼られていた写真の二十人については黙っていた。あの声も、円卓の男たちの名前までは知らないのかもしれない。
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十九晩目の椅子を広げたとき、扉の下の隙間は暗かった。部屋の主はまだ戻っていない。
ヒサメが階段を上がってきたのは、夜の十時を回ったころだった。
銀の髪の先が乱れ、頬はいつも以上に白い。コートの肩に霜はついていない。ヒサメは椅子の前で足を止め、しばらく黙ってこちらを見下ろしていた。ミナトは椅子から立った。
「……聞いた?」
「聞いた」
「精神攻撃よ。意味はない。長官が言った」
「意味はあった」
ヒサメはそれには答えず、別のことを口にした。
「顔があった。出来かけの赤ん坊の目も。私を見なかった。あなたのいるほうを見て、歩いてた」
ミナトは黙ってうなずいた。
「愛される、って言った。あいつだけが、って」
「あれはあなたのことよ」
「分かってる」
「私は」
ヒサメはそこで言葉を切った。続きの見当はついたが、ミナトは口をはさまずに待った。
「……私は、あなたを愛してるのかどうか分からない。依存だと医官は言う。依存で結構だとカグヤは言う。私はどっちの言葉も使いたくない気持ちで、扉の内側に座ってる」
ヒサメは椅子の脇をすり抜けて自分の部屋に入った。扉が閉まっても、鍵の回る音は聞こえてこなかった。
廊下の端の壁ぎわも、今夜は空いていた。窓から見下ろした訓練広場は、夜ごとに上がる火の色もなく暗かった。
階段を下りると、玄関にはまだ早瀬が詰めていた。
「カグヤは」
「戻っていません。帰隊の報告も上がっていません」
十二月、雪の降りだした日に、カグヤは神社の石段に座っていた。家から電話があったとミナトに話した日だ。
玄関を出ると、早瀬は黙ってあとについてきた。
境内は暗かった。早瀬が懐中電灯で足もとを照らすと、雪の上に小さな足跡が一筋、絵馬掛けの前を素通りして石段まで続き、そこから引き返していた。
光の輪が段の上の一点で止まった。
黒い、左手の手袋が落ちていた。
ミナトが拾い上げると、布は湿って冷たく、三本の指先のところだけが持ち主の指の形を覚えたまま曲がっていた。持って帰るのも、誰かに預けるのも違う気がする。ミナトは手袋を元の石段に戻した。
早瀬は懐中電灯を下げたまま、ミナトの手が手袋から離れるのを黙って見ていた。光の輪の中で、手袋の上に雪がひとひら落ちた。
宿舎へ戻る途中、広場の端を通った。
医療棟の半地下にある回収室の、天井近くの細い窓にまだ明かりがついている。やがて、ふっと消えた。あの窓から広場を見上げ、火がないのを確かめてから消したのだと、ミナトは翌朝チトセから聞いた。
宿舎の玄関の前で、ミナトは一度だけ神社の方角を振り返った。石段はもう暗がりに沈んでいた。




