第二十六話 同じ理屈
翌朝の補給に、カグヤは来なかった。処置室から宿舎へ戻ると、一階がしんとしていた。
朝食の開始時刻はもう過ぎている。ふだんなら椀を卓に置く音や椅子を引く音が、玄関まで聞こえてくるころだ。食堂の入口の手前に、少女たちが列を作っていた。誰も戸口をくぐらずに、掲示板の前で順番を待っている。
順位表の右隣に、紙が一枚増えている。
四隅は順位表と同じ画鋲で留めてあった。紙の端は黄ばんで波打ち、右下の判には二十年前の日付が入っている。
『処置により死亡した胎児に関しても、魔力残滓が未生境界へ流入する事例を確認。統計的検証は未了。公表は不可』
その下に、写真が一枚添えてあった。円卓を囲んで座った背広の男たちが、カメラのほうへ顔を向けている。二十人ほどいて、女は一人も写っていない。写真の縁には、箱の底板から剥がしたときの厚紙の毛羽が白く残っていた。
前の少女が読み終えて横へずれると、後ろの少女が進み出て同じ数行を読む。済んだ子も食堂には入らず、壁ぎわに寄ってもう一度紙のほうを振り返った。誰かが足を踏みかえるたびに、床板のきしむ音が廊下に響く。
資料室で読んだきり、少女たちにもツムギにも言わずにきた数行だ。いまは朝の光の入る廊下で、銀の混じった頭がひとつずつ紙の前へ進み出ては、また下がっていく。
廊下の隅に、真鍋が立っていた。
特務省の地下二階で受付窓の向こうに座っているはずの人が、宿舎の一階にいる。腰には真鍮の鍵束を下げたままだ。少女たちは誰も真鍋のほうを見ない。声をかけられるのを待つでもなく、真鍋は両手を体の前で重ねて列の頭越しに紙を眺めていた。
ミナトは列の脇を抜けて、真鍋のそばへ行った。
「……真鍋さんが、貼ったんですか」
真鍋は紙から目を離さずにうなずいた。
「昨日、あの声が読んでいた紙です。中身は内地にまで聞こえたのに、紙だけ封印のままというのは整理が合わない」
「処分は……」
「私の欄はありません」
真鍋が腰の鍵束に指先で触れると、鍵どうしが当たって小さく鳴った。
「三十年、整理してきました。合っていないものを合わせる仕事です。昨日、初めて、棚の外で整理をしました」
十分ほどして、玄関のほうから硬い靴音が近づいてきた。
列の後ろにいた少女が振り返り、そのまま壁へ背中を寄せた。前の少女たちも順に気づいて道を空けていく。割れた列のあいだを、神楽坂ユノがまっすぐ歩いてきた。色の抜けきった総白髪をきちんとまとめ、いつものチャコールグレーのスーツを着ている。
ユノは紙の前で足を止め、文面には目もくれずに手を伸ばした。四隅の画鋲のうち浮きかけていた一本を親指で押しこむ。紙はそのまま、掲示板に残しておくつもりらしい。
「読んだとおりです」
ユノは少女たちのほうへ向き直った。
「昨日の声は精神攻撃です。内地にはそう言いました。あれと戦うあなたたちには、本当のことを話します」
壁ぎわに並んだ少女たちは、身じろぎもせずにユノを見ている。
「処置で死んだ子もあれに加わる。二十年前からそう考えられています。検証は未了です。止まってから二十年。私が封印を引き継いで十五年、更新してきました」
「……なぜ」
列の中ほどで、五番の少女がユノを見上げていた。
「公表すれば、明日から母親たちが判定を受けなくなり、男の子を宿した母親は魔力毒で死ぬ。四十年前にそれを見た人たちが、この写真の人たちです」
ユノは写真の円卓を指さした。
「災害の前に生まれた人たちの政府。全員が男だった。母親が死ぬのを見て処置を決めて、それを進化と呼んだ。名づけ方は間違っていた。決めたことが間違っていたかどうかは私には分からない。やめれば母親が死ぬ。続ければ敵が増える」
ユノは写真から指を下ろした。
「私は母親を死なせない側に立っています。たとえ敵が増えても。それが十五年、私が選んできたことです。あなたたちにそれを正しいと言うつもりはありません。……正しくないと言うつもりもありません。私に言えるのは、選んだ、ということだけです」
五番の少女は唇を結んだまま、ユノから目を離さなかった。
来たときと同じ足取りで、ユノは玄関のほうへ戻っていった。
少女たちはしばらく紙の前を離れずにいたが、やがて一人、また一人と食堂へ入っていった。椀を置く音がぽつりぽつりと戻ってくる。
掲示板の前には、最後に石田リンが残った。紙に一歩近づき、写真の男たちの顔を端から一人ずつ目でたどっている。右の袖口から、巻き直したばかりの包帯の端がのぞいていた。
「……この人たち、みんな死んでるんですね」
「ほとんど」
廊下の隅で、真鍋が小さくうなずいた。
「じゃあ、誰に言えばいいんだろう」
リンは写真から目を離し、食堂の戸口をくぐっていった。
いつのまにか、真鍋の隣に医官が並んでいた。紙を最後の一行まで読むと、脇に抱えていたノートを開く。
「今日から、ノートに処置の欄を作ります」
医官は紙のほうを向いたまま言った。
「そんな欄、作っていいのか」
「権限外です。ただしノートは私のものですから、何の欄を作るかも私の自由です」
医官は胸ポケットからペンを抜き、開いたページに縦の線を一本引いた。定規も当てずに、上の端から下の端まで一息に引ききる。
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午後、ミナトは神社の鳥居をくぐった。
ゆうべ手袋を戻した石段のいちばん上に、カグヤが座っていた。
段の上の雪は誰かの手でかき分けられ、濡れた灰色の石がのぞいている。石段の下の雪の上には電話が落ちていた。画面を上に向けてうっすら雪をかぶり、ガラスには蜘蛛の巣のようなひびが走っている。
左手には黒い手袋をはめている。雪の中から掘り出したのか、布は水を吸って重たげに垂れ、三本の指先は角ばった形に崩れたままだった。目の下が青黒くくすみ、紅い髪の先には溶けかけた雪の粒がついている。カグヤは電話のほうを見もせずに、膝に載せた自分の左手を見下ろしていた。
ミナトは石段を上がり、一段下に腰を下ろした。濡れた石が冷たい。カグヤはしばらく口を開かず、ミナトも鳥居の向こうの白い道を眺めて待った。
「家から」
やがて、カグヤが言った。
「黙っていろ、って。言われたのはそれきり。昨日の声のことは黙っていろ。火神院の名前が出たことは黙っていろ」
ミナトは返す言葉を探したが、喉の奥で引っかかって出てこない。
「解析の家。判定の家。お腹の子の染色体を読む機械を作って、国じゅうの産院に売ったのはうちよ。この国は四十年、うちの機械で男の子を選り分けてきた。処置のあとの……全部、うちが」
手袋の指先から、溶けた雪がしずくになって石段に落ちた。
「私はその金で育った。この火もその金で覚えた」
「カグヤは売ってない」
「……分かってるわよ、そんなこと」
カグヤは石段の下の電話に一度だけ目をやったが、拾いに下りる気配はない。
「でも、あの声は私を数えた。火神院、って。数えた家、売った家、って。私が四階建てより高く火を上げるたびに、あの声の中の何人かは、うちの機械で数えられた子だった」
カグヤは立ち上がり、コートの裾についた雪を払った。
「私は何番なの。あの子たちから見たら」
カグヤは返事を待たずに、石段の上から境内の雪を見下ろしていた。
「染めるのをやめるわ」
風が吹いて、紅い髪の先が揺れた。
「残り時間の色でいい。数えたくなくて、ずっと紅く染めてた。でも、うちはよその子を四十年数えてきたのよ。……自分の残りだけ数えずに隠しておくのは、嘘だから」
カグヤは石段を下りきると、雪の上の電話をまたぎ、振り返りもせずに鳥居のほうへ向かう。後ろから見ると、紅い髪の根元にのぞく銀は、もう指の幅ほどになっていた。
境内を出る前に、カグヤは左手の手袋を外して右手に握りこんだ。むき出しの白い三本を空へ向けたまま、居住区のほうへ歩いていく。
ミナトは石段を下り、鳥居の脇にある絵馬掛けの下で雪を払って座りこんだ。
頭の上で雪をかぶった絵馬が風に触れ合ってかたかたと鳴る。ミナトは手の届く一枚を指で起こした。墨が流れて、何が書いてあったのかもう読めない。隣の一枚も、その隣も同じだった。古い絵馬のうち字の読めるものには、一枚残らず二行目に同じ一行が添えてあった。
『女の子でありますように』
墨の消えたものまで数えれば、掛かっている絵馬の半分を超える。どの一枚も、お腹の子を愛していた母親が書いたものだ。
二行目のない一枚は、戌の日にツムギが掛けていったものだ。
『無事に生まれますように』
その隣には、名前の欄が空いたままの新しい一枚が下がっている。
『満の日に、大きいのが来てくれますように』
この世界に来て四日目の朝、病室でユノは「あなたの代わりはいません。この国のどこを探してもね」と言った。あのとき、悪い気はしなかった。
あの心地よさは、どこから来ていたのか。
役に立つから大事にされた。この国のどこにもいない補給源だから、最初の夜、長官は無線の向こうで『傷ひとつつけずに』と命じた。病室では二重の手袋をはめた手で血を採られ、順位表のどの番号よりも上の場所に置かれた。
あの子たちは、同じ物差しの反対の端に置かれて、見捨てられた。生まれれば母親を道連れにする男の子だから数えられ、処置され、名前をつけることも禁じられたまま、天災の犠牲者ということにされた。
役に立つ順に命を並べる。
同じ理屈だった。
自分が大事にされる理屈と、あの子たちが見捨てられた理屈は、一枚の紙の表と裏になっている。順位表も同じ理屈で刷られている。少女たちは使われるほど髪が銀になり、やがて砕けて、識別番号の札をつけた箱で内地へ帰る。B級は対象外で、残量が33%を切る日はA級も対象外になる。リンのすねに残った硬貨ほどの白い痕も、七番の背中に残った指一本分の痕も、その理屈が残したものだった。
『なぜ、あいつだけが、愛される』
答えは、愛されているのではなかった。並べられているだけだった。いちばん上と、いちばん下に。同じ一本の物差しの上で。
九月から味わってきた心地よさを、ミナトは初めて疑ってみた。あっけなく崩れたあとにも、残るものがあった。
ヒサメの冷たい手と、カグヤの濡れた手袋と、治りの遅いチトセの左手の甲と、ツムギの手のひらの下で跳ねる小さな動き。早瀬の運転も、医官のノートに今朝引かれた一本の線も、真鍋の鍵束も、リンの二つの包帯もあった。
それで足りる、とミナトは思った。
「妹に言いました」
鳥居の外から声がした。いつからそこにいたのか、早瀬は鳥居をくぐらずに、石段の下に残された電話のあたりへ目を向けていた。
白い息が、早瀬の口もとで薄くほどけた。
「間引く、の意味を。前の方から後の方へ。……妹は泣くのをやめて、私と同じ顔になりました。まだ十二歳なのに」
「言ってよかったのか」
「言ってよいのかどうか分からなかったのですが、言いました。……理由も定まらないまま知りに行こうとする人間を、私は三人知っています、と長官は言いました。今日から四人です。妹を数えれば」
早瀬は鳥居の外で居住区のほうへ向きを変えた。ミナトが歩きだすと、少しうしろに下がってついてくる。雪を踏む二人分の足音が、宿舎の明かりが見えるところまで続いた。
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夜、階段を上がりきったところで、廊下の奥から鍵のかかる音がした。
ヒサメの部屋の扉だった。
ミナトはいつもの椅子を扉の前に広げた。床板には、脚の跡が二十晩ぶん薄く残っている。
ミナトは背中の扉に向かって、先に口を開いた。
「あんたを守る」
少し待ってから、ミナトは続けた。
「必要とされるからじゃない。代わりがいないからでもない。……理由は、分かってる半分だけ言う」
「……意味が分からない」
扉の向こうから声が返ってきた。
「俺もまだ半分しか分からない」
それきり、扉の両側でしばらく声が途切れた。夜間灯がじじっと鳴る。板一枚を隔てて、向こうの背中が一度だけ深くふくらみ、ゆっくり沈むのが伝わってきた。
「半分でも初めてよ」
十一月の神社で、ミナトは同じように半分の答えをチトセに渡したことがある。「半分であっても、そんな言葉をいただいたのは初めてです」とチトセは言い、また落ち葉を掃きはじめた。ヒサメはそのことを知らない。
少しして、扉の内側で金具が鳴った。
階段の上で聞いたのと同じ、鍵のつまみの回る音だった。向きだけが逆になっている。ミナトは椅子に座ったまま振り返り、ノブを見つめた。回る気配はない。扉は閉じたまま、鍵だけが開いていた。
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「あなたを内地の安全な場所へ移す。上から、そういう案が来ています」
翌日、長官に呼ばれた。ユノは机につかずに窓ぎわに立ち、一枚きりの書類を手にしたまま続けた。
「資源の保護のためです。敵の目標があなたである以上、特区に置けば特区が狙われる。内地に隠せば、特区は少女たちだけで今までどおりの避雷針になる。補給は四日に一度、装甲車で往復すればいい」
内地に移れば、産院へは毎日でも通える。一瞬だけ、ミナトはそう考えた。そのかわり、リンの包帯もカグヤの手袋も、四日に一度しか見られなくなる。
「断る」
「理由を聞きます」
「ここにいる」
「それは理由ではありません」
ミナトは少し考えた。窓ガラスの向こうで、細かい雪が斜めに流れている。
「必要とされるからじゃない」
ユノはミナトの顔を見たまま、長いこと目を逸らさずにいた。三ヶ月あまり前、病室で代わりはいませんと言った朝も、ユノはこうしてミナトを見ていた。
「……記録します」
ユノは机に戻ってペンを取り、手にしていた書類の余白に何か書きつけた。
「昨日、あなたは境内で長いこと座っていました。早瀬の報告にあります。絵馬を読んだあとで、顔が変わった、と。……理由までは、報告の欄にありませんが、今日、直接あなたから聞くことができました。記録に残りますが上には出しません。机の下に置きます」
ユノが書類をしまった机の引き出しには、もう何枚も紙が重なっていた。
「このごろ、私の机の下は少し混んでいます」




