第二十七話 見せて
一月三十日、遠くで砲が鳴りはじめた。
第一防衛線の壁の上に据えた砲の音だ。補給拠点のある第三防衛線とのあいだには第二防衛線があり、ここへ届くころには腹に響く鈍いうなりに変わっている。棚に並べた予備の計器のガラス蓋が一発ごとにかすかに鳴る。
十発を過ぎても砲声は続き、そのあいだ処置室の扉は一度も開かない。
『氷堂隊、接敵。凍らない。氷が届く前に砕ける』
『火神院隊、接敵。火が滑る。表面で滑って届かない』
二つの隊の声が続けて入り、まもなく砲声がやんだ。人型は第一防衛線の手前に立っている。撃ちこんだ砲弾は届く前に何かに当たって弾かれている、と壁の上の観測員が報告した。目には何も見えないという。
『痛いを、覚えた』
無線からも壁の外の遠いところからも、東門で聞いたのと同じ声が届く。そこへ何百という小さな声が少し遅れて重なっていく。
十八日前に第三防衛線の東門まで歩いてきた人型は、カグヤの火を浴びて『僕たちは、痛いを知らない』と言い残して地面に沈んでいった。
『覚えたから、もう、触らせない。熱いも冷たいも、もう要らない』
医官はペンを止めずに人型の言葉を一語ずつノートに書き取っている。
『器』
ミナトは息を止めた。
『来い。僕たちに身体を。ひとつでいい。僕たちは、生まれられる』
身体と聞いて、ミナトは内地の産院の小部屋を思い浮かべている。
医官が書き取ったページから顔を上げずに言った。
「拒絶障壁、と名づけます。仮に」
「仮に、って」
「誰も触れられないものに名前をつけるのは、仮でしかありません。呼び方が決まるまでの呼び方です。検体を検体と呼ぶのと同じです」
無線が別の持ち場の声を拾った。
『回収係、障壁の内側にいます』
ミナトは無線機の台の縁を掴んだ。
『回収係が負傷者を担架に乗せて、障壁を——通り抜けた。反応がない。回収係は気づいていない。担架を引きずってこちらへ戻ってくる』
『三番より。見ました。氷が砕けた場所を担架が通りました。何も砕けませんでした』
リンの報告が終わったところで、人型の言葉が途切れた。重なっていた何百の声もそろって口をつぐむ。
『……誰か、いる?』
しばらく間があって、同じ声が自分で答えた。
『いない』
人型が地面に沈んで障壁も消えたと観測員が告げた。医官はそこまで書いてノートを閉じた。
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第三防衛線の門をチトセが担架を引いてくぐってきた。
障壁の内側から引きずり出して、ここまで一人で引いてきたという。乗っているのはA級の四番で、左脚にガラスが透けている。ミナトが前の柄を受け取り、チトセは後ろへ回った。
「通ったんだってな。あれを」
「何をですか」
チトセは柄を握りながら首をかしげる。
「人型の周りに、氷も火も通らない壁があったんだ。チトセはそれを通った」
「……何も感じませんでした。四番の人が倒れていたので、行って、乗せて、戻りました」
「人型は何か言わなかったか?」
「誰か、いる、と言いました。それから、いない、と」
チトセはかじかんだ指で柄を握り直す。
「私はいました」
後ろから担架がぐっと押し出された。ミナトも前の柄を持ち上げ、二人で処置室の扉をくぐった。
「危ないだろ」
執務室の扉を閉めるなり、ミナトは言った。
医官から回ってきた写しを握りしめて、補給拠点からまっすぐここへ来た。写しにはその日の日付で長官印が押してある。
『回収係を拒絶障壁の観測に使う。次に人型が出た場合、回収係は計器を持って障壁に接近し、内側の状態を記録する』
神楽坂ユノはミナトの手の中の紙に目をやった。
「彼女には見えません。今日、証明されました」
「見えないだけだ。何かあったら」
「何か、とは」
ミナトは言葉に詰まった。チトセの身体にはミナトの力が届かない。障壁の内側で傷を負えば、その傷は傷のまま残る。
「異論は顔に書いてあります」
ユノは開いていた書類を閉じた。
「彼女に聞きなさい。私は命令しました。彼女は、はい、と答えました。あなたが聞いて違う答えが返ってくるなら、私に報告しなさい」
ミナトは握っていた写しを畳み、黙って執務室を出た。
掠れた紙片が十枚ほど、回収室の机の端に重ねてある。
チトセはいちばん上の一枚を手もとへ引き寄せ、消えかけた字を新しい紙に鉛筆で書き写している。天井近くの細い窓の外はもう暗い。ミナトが入っていっても鉛筆の音は止まらない。
「なんで、はい、って言ったんだ?」
「私が行けるなら、行きます」
「チトセが行かなきゃいけない理由はないだろ」
チトセは鉛筆を止め、少し考えた。
「名前を覚えるのと同じです。私がしないと誰もしないので」
ミナトは戸口の柱にもたれた。チトセがまた鉛筆を動かしはじめる。手もとにあるのは角の丸くなった古い紙片ばかりで、今日の日付のものは一枚もない。
「それに」
チトセは書き写す手を止めずに言った。
「障壁の中は静かでした。泣き声の隣なのに。検体室と同じでした。静かな場所に入れるのは私だけです。行けるのに行かないのは、整理が合いません」
紙を貼った朝に真鍋も同じ言い方をしていた。
チトセは書き終えた紙片を指先で押さえ、鉛筆の粉をふっと息で払う。
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一月最後の夜、背中を預けていた扉が動いた。
ノブの回る音がして、背もたれの当たっていた板がふっと奥へ引いた。椅子ごと後ろへ持っていかれそうになって、ミナトはあわてて床を踏ん張る。
振り向くと、部屋の明かりを背にしてヒサメが立っている。
夜更けだというのにコートを着ている。襟の留め具まできちんと留めてある。
「見せて」
「何を見せるんだ?」
「あなたが、私より選んだもの」
あなたは私を選ばなかった。大攻勢の四日後の夜、ヒサメはこの廊下でそう言った。
「明日、連れていって。産院に。私も」
ヒサメは産院へ行く日取りを知っている。
「標識が近づけば、あれが来る」
「あなたが握っていれば見失うんでしょう」
ヒサメは間を置かずに返した。ミナトはしばらくヒサメの顔を見ていたが、やがて椅子から立ち上がった。
「早瀬さんに聞いてくる。待っててくれ」
ヒサメは小さくうなずき、扉の枠に肩を預けた。
一階の玄関では早瀬が今夜も無線の番をしている。ミナトの話を聞き終えると、少し考えてから答えた。
「車は三人乗れます」
早瀬はジャケットの内ポケットから許可証を出し、膝の上で広げる。
「行き先の欄が空欄でも、同乗者の欄はあります。氷堂ヒサメ、と書きます。申請書の写しは今夜のうちに庁舎へ回ります。書いたものを長官が読みます」
「読んで、止めるか?」
「止めるなら今夜のうちです。何もなければ、明日、車は出ます」
早瀬はペンを取り、同乗者の欄に名前を書き入れた。
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差し止めは夜のうちには届かなかった。
翌日、ヒサメは早瀬の車の後ろの座席に座った。コートの膝に手袋の両手をそろえ、窓の外には目もやらずに前を向いている。特区の門を出て内地の町に入っても姿勢は少しも崩れない。
産院の前で車を降りると、装甲車の脇に立っていた隊員がヒサメに気づいて踵をそろえて敬礼した。手を下ろしてからも隊員は銀の髪を目で追っている。内地に氷堂が来たのはこれが初めてだった。
ヒサメは短く敬礼を返し、大攻勢の日にカグヤが焼いた屋根をしばらく見上げている。
裏の戸の前で、ミナトは手首の計器を外して上着のポケットに押しこんだ。ヒサメは黙ってその手もとを見ている。
ツムギはベッドの上から戸口のヒサメを見上げた。
お腹は十月のころの倍ほどにふくらんでいる。ツムギはヒサメの顔から銀の髪へ目を移し、最後にミナトを見た。
「こちらの方は?」
「氷堂ヒサメ。S級魔法少女で、順位表の一番」
「同率の」
ヒサメは自分でそう付け足したきり戸口から動かずに、ツムギのお腹を見つめている。早瀬はいつものように廊下に残っている。
ミナトがベッドの脇の丸椅子に座ってツムギの手を取ると、ツムギはもう片方の手をお腹に当てた。
「ナギ。今日はお客さんが一人多いよ」
お腹が動いた。握っていたツムギの手がミナトの手の中でぴくりと跳ねる。
ヒサメが一歩部屋の中へ入った。
「動くの?」
「動きます。呼ぶと」
「呼ぶと、分かるの?」
「触ってみますか?」
ヒサメはそこで足を止め、手袋をはめた自分の左手に目を落とした。生えてからもう四ヶ月になる。毎朝ミナトが握っても、温まって離れていったことは一度もない。
「私の手は冷たいわ」
「ミナトさんの手は温かいです。二人で触れば、ちょうどいいかも」
ツムギは肩を揺らして笑った。
ヒサメはベッドの脇まで来ると、左手の手袋を外してツムギのお腹に置いた。ミナトはツムギの手を握ったままでいる。
「ナギ」
ツムギが呼んだ。
ヒサメの手のひらの下で、ナギが押し返した。
ヒサメはお腹の上に置いた自分の手をじっと見下ろしている。
「……冷たくて、ごめんなさい」
お腹に向かってヒサメが言った。
誰かに謝るところを見るのは、これが初めてだ。ツムギは何も言わずにヒサメの手の上へ自分の手を重ねる。
しばらくしてヒサメは手を引いた。戸口まで下がって壁に背中をつけ、そこからまたツムギのお腹を見つめる。外した手袋ははめ直さずにコートのポケットへ入れた。
助産師がタオルを腕に掛けて戸口に顔を出した。
「S級ってのは、もっと大きい人かと思ってたわ」
「普通の大きさよ」
「そうね。普通の大きさの子が壁の向こうで戦ってるのね。四十年、知らなかったわ」
助産師は腕に掛けたタオルを持ち直し、サンダルの音を響かせて廊下の奥へ戻っていった。
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帰りの車で、ヒサメは窓の外を見ていた。
車は内地の町を信号のたびに止まりながら走っていく。買い物袋を提げた女たちが横断歩道を渡り、その後ろを学校帰りらしい女の子が三人、じゃれ合いながらついていく。
「……半分、分かった」
後ろの座席から声がした。
「あなたが言った半分。必要とされるからじゃない、って」
「そうか」
「残りの半分は、まだ分からないけど」
ヒサメは膝の上で左手を握り、ゆっくりと開いた。
「選ばれなかったことより、あの子が動いたことのほうが大きかった。今日は。それがよく分からない。私は一番でいたかったはずなのに」
ミナトはフロントガラスの先へ目を向けている。残りの半分は自分にもまだ分からない。
宿舎の三階に上がるとヒサメは廊下の壁ぎわで足を止め、畳んである椅子に手をかけた。
「今夜は私が座る」
「護衛か?」
「護衛よ」
ヒサメは椅子を広げ、ミナトの扉の脇に据えて腰を下ろした。夜の番につくのは大攻勢の前の晩以来、六週間ぶりになる。
「早く入りなさい」
ヒサメはコートの襟を立て、ミナトの扉のほうへ顎をしゃくった。
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翌朝、カグヤが扉を叩いた。
「貸して」
「何をだ?」
「ハサミ。持ってるでしょ。氷堂の。引き出しに」
どうして知っているのかは聞かずにおいた。ミナトは机の引き出しを開け、奥からハサミを出した。持ち手の塗りが剥げてところどころ地の金属がのぞいている。
「氷堂に聞いてからにしろ」
「聞いたわ。昨日の夜。廊下で」
カグヤはミナトの手からハサミを取った。
「切るのに要る、って言ったら、あの子、いいわよって。顔はちっともいいって言ってなかったけど」
カグヤは刃を閉じたハサミを手袋の左手に握り、廊下の端へ歩いていった。
朝の補給にカグヤは来なかった。
食堂に入ってきたカグヤの髪は耳の下で切りそろえてある。染めるのをやめてから三週間、紅は洗うたびに落ちて、このところは毛先に残るだけになっていた。短くなった髪はどこを見ても銀で、紅い毛先は一本も見当たらない。
「切ったわ」
カグヤは誰にともなく言った。
「染めてた部分を全部。残り時間の色よ。見なさい」
戸口に近い卓でリンが持ち上げかけた椀を下ろした。カグヤは自分の席に着いていつものように食べはじめる。手袋の左手で椀を持ち、右手で箸を使う。
ミナトの向かいの席で、ヒサメはしばらくカグヤの髪を見ている。
「……あのハサミ、六人で回してた」
ミナトにだけ聞こえるくらいの声だ。
十月、扉の前にハサミが置いてあった日の晩、ヒサメは「持っていても、もう切ってあげる相手もいないけれど」と言っていた。
「七人目よ。あの子が」
ヒサメは箸を取って汁の椀に口をつけた。全部が銀の頭はこれで食堂に二つになった。
隣の卓でカグヤが箸を置いた。髪の先をつまもうと肩のあたりを探り、顎の横の短い毛先をつまみ直す。




